徒然草まつり

 書棚で本探しをしていましたら、『徒然草』が一冊出てきまして、そういやぁ、最近見かけなかったなあと思いつつ脇へどけたところ、もう少しして、またもう一冊『徒然草』が……。しかも、さっき出てきたやつより大分古い、角川文庫クラシックス(古典文庫でしたかね、今の名称は、違うか)版。ひょおおおう、中学生くらいのときに買うたんかなあ、わしゃ、兼好のファンでも何でもないんじゃが。と、思いつつそれも脇へどけたところ、ギャアー、『徒然草』がまたもう一冊……! 何ででしょう、猫又の話は好きだったですが、しかしそれにしても何故3冊も。

 あと、大学時代の教科書(と、いう名の、先生の著作群)をどうしようかと……(^^;)。大学のテキストって、結構高いですよね。何千円もするものを、大学生協で買わされて……。新書とか文庫になっているものだったら、ねえ、よかったんですけどねえ。新潮古典文学集成の『源氏物語』とかも、要らないよなあ……、と思いながらちょっと眼を通してみると、あれ? 結構、面白い? 原文で読むと、割とさらっとしていて、それでいて「絵合」の帖なんか、くすっときて、ちょっとハートウォーミング(というか、親馬鹿っぷりがアホの子のようでおもろい)で、ねえ(笑)。う~ん、割とおもろいぞ。『平家物語』も出てきたですよ。中世文学講読でやったなあ……。なつかしい。中世文学って、宗教観が複雑なので、却って上代や中古のものよりも難解だったりする気がします(自分にとっては)。

 とか言いつつ、学部の卒論は近代文学だった自分でした(^_^;)。だから未だに漢文の読みがたどたどしいのですな。漢文……、結構明治時代の文献でも使われていたりするので、明治時代の学識階級のひとってすごかったんだなあ(漢文で書けるなんて、すごすぎるよ、と思ってしまう)と思います。英語やドイツ語やフランス語も読んだりしてますもんね。すごすぎるよなあ。自分なぞ一生かかっても、そのひとたちには少しも追いつけないよ~、と思います。

クラゲッタ・クラゲーノ

 寒いんじゃ、ゴラァ!

 すいません、暑いのは割と我慢できますが、寒いのは嫌んなります。もう気温が摂氏20度切ると「あー、やだなー」と感じ、15度切ると、家の中でもマフラー巻いてしまいます。

 サイトの方は、表示されているようですねえ(↓前記事参照)。いや、どうも、すいません。

 と、これだけ書くのもアレなので、えーと、うーん、時間がないや、さっと書けるもの……、あっ、「時間飛行」という性格診断をさせてもらいまして、私の結果は、こちら。前世はクラゲだそうです。

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あなたの前世はクラゲです。ある日波際まで流されてきた時、近づいてきた人間をイタズラで刺してみると、飛び上がらんばかりに驚いて海から出て行きました。それに楽しさを覚えたあなたはたびたび同じことを繰り返しては楽しんでいました。

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 たびたび同じことを。
 たびたび同じことを!(うるさい)

 画面的(?)には、なんだか吉田戦車さんの漫画に出てきた、クラゲの精(だったっけか?)を思い浮かべてしまいました。

サイトが葉隠れ?

 今見てみたら、うちのサイト、なんか表示されませんねえ……。この雑記はトップページとは別のサーバーに設置しているので、こっちは表示されるのですが、う~ん。うちと同じサーバー(の、また中の同じサーバー(ややこしい))の素材屋さんを拝見すると……、げっ、表示されている。重くもない。何でだろう。

 ということで、なんだかうちだけ局地的にダメになっているっぽいですが、復旧まで時間がかかりましたらすみません。失礼をば。そのうち、ふっと復活するとは思うのですが。

寺子屋のせんせえ

 久しぶりに、『大江戸捜査網』を観ました。里見さん主演版です。今日放送分のやつは、島田順司さんか左右田一平さんが出ているという話じゃなかったかなあ~……と思いながら観ていましたら、ご出演だったのは島田さんでも左右田さんでもなくて、中野誠也さんでありました。第246話「必殺! 捨身の勝負」でございます。

 中野誠也! うお~~~~~、やっぱし格好ええのう!! テンション上がるわぁ~。中野さんといえば、『用心棒』シリーズの新太兄さんや、『燃えよ剣』の山崎くん、あとは『竜馬がゆく』の竜馬さんや、『次郎長三国志』の次郎長(だったと思う)の役などをお若いときにされていまして、そう言いながら私は未だ機会に恵まれず、『用心棒』シリーズでのお姿を拝したばかりです。きらきらした雰囲気ではなく、淡々と、しかしどこか垢ぬけて飄々としているような、さわやかな雰囲気。なんともいえないインテリジェントなたたずまい。かっちょええわあ~。今回の中野さんは、寺子屋の先生ですよ、やさしい笑顔がたまらんですわあ。「こんちは!」とか言っちゃって。子どもの頭撫でちゃったりして。

 いやあ~、寺子屋の先生っちゅうのは、個人的にツボですなあ。そういや、自分が江戸チャットなるものにお邪魔していたときに、いうなれば「江戸版ベリーランド」ともいうべき男キャラで喋っておりまして、その男の生業は、一応「寺子屋の先生」でありました。懐かしい……(笑)。

 と、思ったら、この寺子屋の先生(中野さん演じる島崎要之進 )、正体がトンデモで、実は「悪役」でした。むひょおおおおお、ますます素敵ぃぃぃぃ(悪が素敵というのではなく、中野さんが素敵)。うおー、うおー、たまらん!(と、感想になっていない感想でありました)。

 しかし『大江戸捜査網』って、結構手堅い内容というか、そこらの勧善懲悪劇ほど子どもっぽくはなくて、面白いです。ゲストの扱いもよくて。川津祐介さんも素敵だった……。『風』でのゲストのときも素敵だったですが。

 ところでこの番組のあと、そのままぼーっと観ていましたら、来月に時代劇専門チャンネルで放送されるオリジナル番組「栗塚旭 新選組を歩く」の宣伝が登場しまして、おおおおーーーー、栗塚さん、お元気そうで何よりです! 新選組ゆかりの場所を、栗塚さんが歩いてくださる番組。拷問が行われた場所なんかが、CMには出ていましたよ。それにしても栗塚さん、黒系統でシックにまとめたお洒落なスーツ姿で粋です。天然なのに(中身は)。めっちゃ天然でいらっしゃるのに(笑)。いやあ、それにしても楽しみです。

「七」の凶暴性

 と、表現したのは、歌舞伎等を研究した早稲田の故・郡司正勝。直弟子がうちの先生なので、私は一応郡司先生の孫弟子ということに相成ります。郡司先生、すんません……(何が(^^;))。

 先日、『奇談』に関する記事で、「7歳」というのをちょっとだけピックアップ(?)してお書きしたのですが、やっぱり七という数字は、他の数字にはないものを含んでいるなあと、改めて考えていたりします。

 「七つ前までは神のうち」ということは、7歳になると「氏子入り」といって、氏神の信徒に数えられるようになるわけですが、郡司先生は『和数考』(白水社・1997年)の中で、

子供が七五三といって、七歳で神詣りをして祝い、「この子の七つのお祝に」などと童謡にも唄うが、実は「七」がめでたい数となるためには「七」歳は不完全の完結ということの物忌の明けということになる。「神の申子は長生きができぬ」といわれるのも、その帰趨する期が定まっているからであろう。

と述べており、7歳になるまでは、いわば「物忌」に相当する期間であって、無事に7歳を迎えると、それが明け、「ひと」と成る。神とひとの間のトンネルのようなところから人間界に出てくる、そういうふうに考えられていたということなのだろうと思います。「神の申子は長生きができぬ」というのは、神のような力を持ついわゆる「神童」は、7歳までしか生きられない運命にあると考えられていたということではないでしょうか。これは昔の子どもというのは死亡率も高く、およそ7歳くらいまでに亡くなってしまう子も多かったことも、ひとつの要因となって生まれた観念でもあろうと想像します。

 七という数字は、英語圏では「ラッキー7」といって福数ですが、英語圏以外では、必ずしもそうではない。日本でも、よくよく見てみれば、七は不吉なもの、或いは呪術的なもの、怪異的なものについていることが多い。昔話でも、特に意味があるわけでもなさそうなのに、「七日」「七年」という経過時間がよく出てきます。人日といわれる正月七日は、日本では「七日節会(白馬節会)」ともいい、『枕草子』にもその様子が出てきますが、『和数考』にもあるように、この日は白馬を天皇がご覧になり邪気を払う儀式が行われたようで、本来的には「まがまがしい日」であったそうです。この日に七草を食べる風習が始まったのも、邪気払いの意味からであったといいますが、「小正月を迎えるための祓いの日」の意味を持っていたそうです。これは、「七月七日の七夕が、お盆を迎えるための禊ぎ祓いの日」であったのと同じことだそうで、この七夕というのも、そもそもが穢れを流しやる儀式を行う日であったといわれています。

 柳田国男監修の『民俗学辞典』(東京堂・1951年)で「七夕」の項目を見てみますと、古くは短冊をつけた笹を6日の晩に立てておき、7日の朝にはそれを流してしまう土地もあったそうです。なので、現代の我々が気にする「7月7日の晩」には、笹は残ってはいなかったといいます。この「流す」という行為が穢れを流す行為であり、本来的に「水」と深く結びついた行事であったようです。なものでそういう土地では、7日の晩に雨が降ってくれるのが良い、と考えられていたようで、雨が3粒(3という数字と5という数字も、7とともに、日本ではよく登場する呪数ですが)でも降ればよい、短冊がよく流れるような大雨が降るともっと良い、という土地もあったらしい。因幡の八頭では、この日に1粒でも雨が降ればいいが(雨によって疫が流れるからだと思われます)、降らないと、織姫と牽牛の二星が出会ってしまい、「疫病の子(おそらく疫病神)」が生まれてしまうからよくないと考えられていたといい、常陸の一部でも同様の考え方をしたそうです。

 七については書ききれないほど、関連する言葉がたくさんありますが、「八」が「正」の数、福や繁栄を表す無限大数だと考えられるのに対し、「七」はまがまがしい「負」の数、凶や滅びの無限大数的性格を持っているようです。これは、裏をかえせば「福」に転じる(転じさせようとすれば)数とも言えるかもしれません。「七福神」は、「七難」に対応し生まれた概念から来ているとも、郡司先生は言います。

 で、この七、そして「7歳」というのは、今まで恥ずかしくて黙っていましたが、うちの天使キャラのふたりにも関係している(というか、自分がそう設定しているだけ)数だったりするという。うへぇ、今更カミングアウト(?)。話がいきなりダメ(?)な展開に。

 うちの叔父天使ベリーランドと姪天使ハナカズラの年齢差は、7歳です。つまり、ベリーランドが7歳のときにハナカズラが生まれたわけで、長じてハナカズラが7歳になった年に、ふたりにとっての最後の「保護者」であった父(ハナカズラにとっては祖父)であるフクロージュが49歳で消滅し……、という。

 なんか、それを思い出しました(笑)。設定したときに、「7」の性格が念頭にちょっとあったので、全部7、或いは7×7にしといたら忘れないよな、と思ったのでした(^_^;)。うちの「天界」ってやつは、どうもやっぱりニホンの民俗が介入している部分があって(あんたのせいだよ、と自分に(笑))、「神の子」でなくなった7歳のときにベリーランドのターニングポイント(ハナカズラ誕生)、そして同じように7歳のときにハナカズラのターニングポイント(叔父さんと、ふたりぼっちになる)、という感じにしたのでした。

 それだけです(笑)。