伝記映画での尊厳

 ども。少しお久しぶりです。
 ちょっとあれこれ年末に向けての仕事が多くて、こちらにまで気が回らない日々がつづいておりました。

 相変わらずジャンプ掲載の『鬼滅の刃』を眼科で読んでは泣きそうになったりしています(笑)。もう無惨さま、お館さまのところへ来ちゃったんですけど、どどど、どうなる!?(^□^;) アニメが始まる前に、最終回とかなったりせんよね!? 煉獄さんの敵のアカザさんとか、まだちゃんと炭次郎くんたちと戦ってないしね、終わらんよね!? と、口をあんぐり開けながら読んでいます。本当に「鬼滅」は予想外の展開がくるのでびっくりさせられます。

 ところでQUEENのフレディ・マーキュリーの半生を描いたという映画『ボヘミアン・ラプソディ』。最初、ドキュメンタリー映画なのかなと思っていたら、役者さんが演じる半フィクションだと知りまして、そそそ、そんな馬鹿な、と複雑な気持ちになりました。私、フレディさん大好きですから、却って観られないですよ……。なんか、私生活を描いて、なおかつ演出も含まれているわけでしょ……、観るのは気が引けるというか、申し訳ない感じがして、本当に、観られないです……。死語数百年とか経ってたらねえ、『アマデウス』みたいに面白く観られると思うんですけど……(^-^;)。いやむしろ、存命中につくられた映画なら、フレディさんの意志も入った映画になったでしょうから、それだったら観られたよなとも思うんですけど……。

 洋楽のアルバム(本国盤の輸入のでなく、日本盤の場合)なんかを買うと、ライナーノーツというか、まあ、そのアーティストについての生い立ちも含んだ解説が載っているリーフレットが入っていたりしますが、私の場合、そういうのさえあんまり読めないというか、読むのが申し訳ないというか、まあ、なるべくスルーする性分なんです。でもそこに書かれてあることは、存命中にご本人が語ったこととかが多いですから、そんなに申し訳なく思う必要もないのかもしれませんが、それでも私は読めない。だもんで映画となると、それこそ本当に「やめてくれるー!?」という気持ちになってしまいます(笑)。(ちなみに積極的にライナーノーツを読まない私でも、フレディさんがどういうセクシャリティの方で、何のご病気で亡くなったか等、おおまかなことは以前から存じてはいます)

 この前、偶然目にした情報番組で、某映画評論家さん(らしい方)が、『ボヘミアン・ラプソディ』について解説していらしてですね、その中で楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」がフレディさんのセクシャリティや経験に基づいて書かれていることが、この映画を観たらわかりますよとおっしゃっていたんです。う~ん、でもなあ、確かにあの曲の生まれた背景らしきものを知ることが「曲を深く知る」ことだと考えるひともおいでるかとは思うのですが、しかしあの曲はフレディさんが世に出した時点で、もはやフレディさんの曲というよりも、聴いたひとそれぞれの「ボヘミアン・ラプソディ」になっているのであって、そのフレディさんの私生活から引っ張ってきた解釈が果たして必要かなあ? フレディさんがそうプレゼンしたのならまだしも、フレディさんはあの曲を出した時点で、もうあの曲を世界中のひとりひとりに引き渡しているんじゃないかなあと思ったりもします。「ボヘミアン・ラプソディ」に、フレディさんの人生をセットでひっつけられることを、果たしてフレディさんは望むだろうか? と思うんです。何もひっつけられていない、身軽な、どんな境遇のどんなひとの心にもすっと寄り添っていける、そんな曲であってほしいなあと、私自身は思ったりします。

 映画自体は素晴らしいのだろうとも想像するのですが、私はきっとこの先も観られないと思います(^-^;)。デヴィッド・ボウイの伝記映画がつくられたりとかしても、多分絶対観られないです(笑)。

 あと余計なことかもしれませんが、イギリスの誰かのアルバムのライナーノーツで読んだなあ……。イギリスでは、普通の家庭に生まれて普通の市民生活を送り、普通のセクシャリティで生きてきたアーティストって、軽んじられる傾向があるとか何とかで、それで結構嫌な思いをしたらしい中産階級出身のアーティストさんがおいでるとか何とかで……、なんか、「普通と違う生い立ちや生活をしたひとにカリスマ性があって価値がある」みたいな風潮も、イギリス音楽界にあるとか……。「普通」とか「普通じゃない」って一体何なんでしょうね。どっちだっていいと思いますけどね。そこに価値をつけたりつけなかったりするのは、意味あるんですかね。とか思ったりもしたことがあります(笑)。脈絡なくてすみません(笑)。