テー(チー)シャツその他

ピンクのさっちゃん

 リカちゃん人形話です。上の写真は、うちの3番目のリカちゃんの「さっちゃん」です。3代目リカちゃんなのか4代目リカちゃんなのか判然としません。瞳の中に白筋があるので、現行の4代目リカちゃんなのかなとも思うのですが、身長が、以前ご紹介した「いっちゃん」や「にこちゃん」(おそらく2代目か3代目リカちゃんと思われます)と同じで、このあとご紹介するうちの「トリ子ちゃん」より低いのです。ということは、現行の4代目リカちゃんではないと思われるのですが、にこちゃんたちと違う点は、耳にピアス穴があり、足に指がちゃんとあるということですな……。なので明らかに、にこちゃんたちとも代が違う。一体何代目なのだ、さっちゃん。ちなみにさっちゃんは、うちでは唯一の金髪リカちゃんなので、ピンクが最も似合うお嬢さんでもあります。ということで、ピンクのハイネックのハーフ袖Tシャツと白スカートをつくったので着てもらいました。姪用につくった服のひとつです。何故かTシャツばかり一時期つくってしまいました。

トリ子ちゃんは4代目

 で、↑がさきほど述べました「トリ子ちゃん」です。シャツのプリントは、ダイソーのアイロンプリントをつかっています。ダイソーにもフロッキーシートとか、今はいろいろあるんですねえ……。近所にお店があるのでよくお世話になっていますが、しかし個人的にはセリアが近所にできてほしい……。セリアの方が、なんだか気が利いたものが多いような気がするんですよねえ……(^-^;)。いや、便利グッズはダイソーの方が多いような気がしますが、デザイン性の高いものはセリアの方が多いと思う。手芸用品も、セリアの方がデザインがよいものが多いので、セリアにもうちょっと出店してほしいわあ。

 で、トリ子ちゃんですが、真名をあてはめると「酉子」になりますでしょうか、「トリをとる」のトリです(今は「取り」とも書くかと思います)。最後という意味、「かんぬき」という意味のトリ子ちゃんで、名前のとおり、うちに一番新しく(最後に)やってきたお人形さんでした。1990年になっていたかなあ……、なっていなかったんじゃないかなあ……。なので古いのは古いのですが、トリ子ちゃんだけ明らかに、さっちゃんまでの三人とは体型が違っています。身長がちょっと高い。あと、ウェストの位置が高い。したがって脚が長い。多分、現行の4代目リカちゃんと同じサイズのボディだと思います。ですので姪用の服の作成につきましては、このトリ子ちゃんに専らモデルを務めてもらうこととなりました。

 ちなみに、以前「にこちゃん」のマリンルック、というよりも潮干狩りルックのリベンジというか二の舞というか、以前のものと同じマリン柄チロルテープをつけたシャツとその一味(?)も作成してみました。

アサリをあさりに行く格好

 果たして小学1年女児がもらってうれしい色味のコーディネートかどうかは、かなり謎です。

くすんだシャツの面々

 そうして今回自分がつくったシャツを並べてみて、全体的にくすんだ色の塊に見えまして、大分おばちゃん感が出ているなあと思いました。でもまあいいや。あと、ダイソーのフロッキーの「Enjoy Life」の文字に、今更ながら笑いが押し寄せてきます。「人生を楽しめ」って、小学1年生にそれはないと思う。私が子どもだったら、「おまえもな」と言いたくなるにちがいない。大人が子どもに言うことか、という感じですよね(笑)。

 ところで話は変わりまして、ドラマ『わたしを離さないで』についてでございます。この前、うちでとっている新聞にドラマの紹介が、脚本家さんやプロデューサーさんへのインタビューを交えて載っていまして、そこで脚本が「ごちそうさん」等をお書きになった森下さんという方であることを知りました。で、森下さんやプロデューサーさんらが今回のドラマで視聴者に伝えたいことの主題(のようなもの?)は、「絶望的な状況下でも希望を持って生きる人物たちの姿を見て、閉塞的な状況下で生きる現代の日本の若者にも、自分の人生に希望を見出してもらいたい」ということらしい、です。

 をれを拝読して私としては、そうか……、そういう方向のドラマになるのか……、それもアリかもしれんし、確かに原作からもそういうことを読み取った方が大勢いらしたかもしれないな、とも思いました。ただ、私自身は原作を読んだときに一番に感じたことは、あの物語は、特殊な「使命」を背負わされて生み出された主人公「キャシー」が、キャシー自身の人生というか、生命のあり方を自分で「認める」までに至った経緯を描いたものだということでした。「絶望」とか「希望」とか、そういう言葉で言い表せるものも確かに物語中にはたくさんあったと思うんですが、そうじゃなくて、その言葉の表わす範疇の外にあるものの方が、あの物語にはたくさんあるように思えて、だからこそ「すごい小説だな」と思いましたねえ……。

 上で、「特殊な『使命』」とお書きしましたが、「特殊」というのは、キャシーたちの存在や使命が「特殊」だと位置づけられる世界(それが使命を負わない普通の人々の価値観の世界、つまり、私たち普通の人間の営みの世界)から見た場合に言えることであって、キャシーたちが最初暮らしていた寄宿学校「ヘールシャム」の世界しか知らなければ、そこでの仲間しか知らなければ、それは別に「特殊」でもなんでもなくて、そして「絶望的」なことでもなんでもないんだと思うんです。でも外の世界の私たち普通の人間から見れば、キャシーたちは「特殊」であって「異端」であって、そしてかわいそうで絶望的な人生を送っている存在にも見えてしまう。そして外の世界を知ったキャシー自身の価値観も外の人間寄りに一時期なって、そうすると自分の生命や人生に疑問を持つようにもなるんですが、最終的にはその疑問を全部飲みこんで「これが自分の人生だ」と認めるところに行き着いたように見えました。誰が彼女を憐れんだとしても、誰が彼女の人生を「絶望的」だと判じたとしても、キャシー自身は自分の人生を認めるところに行き着いた。自分の人生を認めたキャシーは、自動的に自分と同じ境遇の仲間ひとりひとりの人生を憐れむことなく認めることができる、そういうところに行き着いたんだと思うんです。よく「自分を愛さなければ他人を愛することはできない」ということが言われますが、愛する愛さないはともかくとして、それ以前に、「自分を認めなければ他人を認めることはできない」ということは確かに言えるんじゃないかと、30代になってからでしょうか、私はそういうふうに思うときがあります。「認める」というのは「褒める」ということではなくて、もっと最低限のことというか、「否定しない」ということなんだと思います。自分のことを否定しながら他人のことを肯定するのは難しいです。でも、自分を否定さえしなければ、他人を否定せずに生きていくことはそんなに難しいことではないんじゃないかとも思います。自分のことを褒めなくてもいいし、他人のことも無理に褒めなくてもいいので、どちらのことも否定さえしなければ、「希望」なんていうような他人さまに聴こえのよいものを持つことがたとえできなかったとしても、それはそのひとの人生が「実った」ことになるんじゃないかという気がします。

 常々思うことですが、なんだか自分も含めて現代の私たちは、他人の人生や自分の人生を「すばらしい」だの「すばらしくない」だの、よいだの悪いだの、うらやましいだのかわいそうだのと判じてしまいがちのような気がします。そして物事をプラスとマイナスに区別しがちで、希望と絶望とに分けがちのようにも思います。しかし、そんな判断が必要かというと割合そうでもないような気もします。否定さえしなければ、別に何でもいいんじゃない? と思うことが多いです。ちなみに私が思う「否定をしない」というのは、何でも好きになる、誰のことも愛する、ということではなくて、「あいつ嫌いじゃけど、別にあいつはああいうヤツなんじゃからそれでいいわい」ということです(笑)。わしのために直せ、というのではなくて、わしが勝手にあいつを嫌いなんじゃから、別にそれはそれで放っておくだけ、という意味の「否定をしない」ということなので、心が狭くたって可能なことです。「あいつは理解不能なやつだ」でいい、理解不能な人間の理解不能な人生を否定だけはしないで放っておく、ということです。そもそも「理解不能」という事態からして、相手の人間性に問題があるのか、それとも自分の価値観や理解能力に問題があるのか、それははっきりとはわからないですもんね。だから理解しなくてもいいので、否定もしなければいい。それはとても消極的な意味でではありますが、ある種の「認める」という行動なんじゃないかとも思ったりしています。

 話が大分それてしまいましたが、『わたしを離さないで』の原作については、私自身は、主人公キャシーが自分の人生と他人の人生(ひいては自分の生命と他人の生命)をあるがままに「認めた」物語だという認識を持っています。希望や絶望やいろんな感情をすべて飲みこんで、それを踏み固めて土台にした上に立ったキャシーが見た景色が、ラストシーンの景色なんだと思います。自分自身を認めたキャシーは、自分を生んだこの世全部を認めたんだと思います。許すとかそういうことじゃなくて、ただただ認めた、そういう物語だったんだと私自身は思っています。