珠玉の短編

 最近読んで面白かった小説は、吉村昭さんの『仮釈放』と『プリズンの満月』なんですが、最近は吉村さんの小説にはまっています。小説ではない本で面白かったのは、M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』、ロバート・D・ヘア『診断名サイコパス』、マーサ・スタウト『良心をもたない人たち』、高橋和夫さん『アラブとイスラエル』、鄭大均さん『在日・強制連行の神話』、そして黒田基樹さん『百姓から見た戦国大名』です。この中で『在日・強制連行の神話』は、「在日」として当事者でいらっしゃる学者の鄭さんがお書きになったものですが、世にはびこっている「嫌韓」的なものとはまったく違い、何故「強制連行」の話が流布したのか、そして「在日」の方々が日本に帰化しようとしない(できない)のは何故か、何が足かせになっているのかを、よく言われる「在日特権」的な話に終始せず、非常に論理的に書いてくださっていたので、私にとってはとてもためになる本でした。そうか、いわば「神話」でがんじがらめになってしまっている状態でもあるんだなあ……、それは日本に帰化しようという気持ちを少しでもお持ちの在日の方にとっては、とてもしんどいことであるだろうなあと思いました。まあ、よくわかります。これはある意味人間社会においては実に普遍的なことで、「仲間」というものがその仲間を縛り付けて不自由にしてしまっていて、その「仲間内」のイデオロギーというものから、だんだんと抜けられなくなってしまう、という。で、この「仲間」というのがある程度縁を切ってしまってもいいくらいの人間ならまだいいのですが、とても親しいひとや親兄弟であるということもあるわけで、そうなるとなかなかそういうひとたちが自分にとっての「足かせ」になってしまっているということを認めることが難しい場合もあると思います。そしてそれは本当に、どこのどういう人間でも陥りやすい、非常に不幸な事態だよなあと思います。狭い仲間内のイデオロギーって、言ってみれば「殻」なんだと思います。一見自分を守ってくれる「思想(アイデンティティに近い)」のように見えながら、実際は自分と広い広い外界を遮断する壁でしかないことが多い。殻の内部の酸素も水も入れ変わらないので、自分自身も更新されていかない。そういう状態は何事においても恐ろしいことですし、実に不幸なことだと思います。

 話は変わりまして、小説の話なんですが、私には大好きな短編小説が3つありまして、ひとつは吉村昭さんの「少女架刑」、もうひとつは安部公房の「死んだ娘がうたった…」で、最後は林芙美子の「骨」という作品です。このうち「少女架刑」と「死んだ娘がうたった…」は、どちらも既に死んでしまっている女性(20歳前)が一人称で語っている作品なんですが、「死んだ娘~」は自分が生きていた頃の回想中心であるのに対し、「少女架刑」は死んだ少女本人が、自分の遺体が解剖される様子等を観察していく内容なんです。私はこの「少女架刑」の文章も内容もたまらなく好きで……、「死んだ娘~」も「骨」も何度も読みましたが、「少女架刑」は読むだけでは飽き足らず、手で書き写したほどです(笑)。むちゃくちゃ好きで、長い間吉村さんの作品は、この「少女架刑」ばかりをずっと読んでいたんですが、他の吉村作品もそろそろ読んでみねばと思い(吉村さんに対しては、「少女架刑」のイメージを大事に持っていたかったんですねえ)、最近はいろいろ読んでみています。で、面白いんです、吉村作品。もう私はこの作家さんに対しては、内容に関しても文章に関しても、全幅の信頼をおいて読めるという感じがしています。作家に対して「信頼」して読めるかどうかというのは自分にとっては大事なことだなあという気がします。林芙美子も安部公房も、私は「信頼」していますが、吉村さんが今一番「信頼」して読んでいる作家さんだなあという感じです。