モリのアサガオ1 刑務官の描写

モリのナカ

 『モリのアサガオ』、読み終わりました。もしもこの漫画を好きな方が、このブログを読んでくださっているとしたら、絶対すごく嫌われるだろうなという覚悟(というほどのモンかというものありますが)を一応もった上で、正直な感想を書きます。この作品、自分にとっては、今まで読んだ漫画の中で、もっとも胸糞の悪い漫画でした。ほんでもって、何かこの漫画、私にとっては『龍馬伝』と共通する嫌~な何かを感じてしまう作品であるような気がして仕方がないです。どう~も両方とも、書き手の「誠意」が感じられんというか、な、な、何といったらいいんでしょう……、う~ん……。それに両作品とも、主人公以外のキャラが、主人公のために動かされているだけ、という印象が強いのです。あたかも、他キャラの影響を受けて主人公が「成長」していっているふうに見せながら、実際には、主人公が「成長しているように見える目的地(?)」に着地できるように、他キャラが駒として動かされているだけのような気がしてしょうがない。だから物語は、いつだって主人公の半径5mくらいのところでしか動かず、「答え」はいつだって主人公が出してしまう。

 その「答え」が正しいか正しくないかということ以前に、その「答え」はそこで必要なのか? そこで出すべきなのか? 何故そんなに早く出せる(出そうとする)のだ? もっと読者に考える行間を何故与えようとしないのだ? そもそもその「答え」を出すべきテーマなのか? この漫画なりに出すにしたって、もっと言葉の選びようがあるだろう? 何故そんな形骸的ともいえる言葉で読者におしつけるのだ? 「魂の物語」とか、主人公が自分で言っちゃうことに羞恥や違和感を作者は感じないのか? 魂の物語かどうかは、それは読者が感じるか感じないかという部分じゃないだろうか? ……そんな諸々の疑問が最後までつきまとい、読みながら自分は、まったく物語に歩み寄ることができず、「愉快」というものとは違う意味での「面白さ」も一切感じることができませんでした。むしろ、この漫画を悪意なく作者が描いているとしたら(おそらくそのように感じるのですが)、この作者は不気味なひとだなあというふうにも感じました。

 しかし上述しているように、以前から自分は、この漫画には「誠意が感じられない」などと書いておりますが、そう感じる理由は何なのかをまったく記さず、非常にあいまいな記述での「愚痴」に終始しており、私の書きようこそ誠意がないというものです。そもそも「誠意」などというえらそうな言い方は、非常に上から目線の言い方であって、もっと簡単(?)に言えば、「違和感感じまくり」ということに起因していることであります。ですから、その違和感が何によるものなのかということを、少しお書きしたいと思います。

 私が感じた違和感というのは、1巻の初めの方から既にありました。主人公が、元拘置所長である父親のコネで刑務官になったという設定からしてあり得ないと思うのですが、この点は、「漫画だから、後々の展開に必要な設定なんだろう」ということで看過できるような気もします。が、そうは思いつつも、これは「死刑」をテーマとして扱う漫画であるという以上は、死刑囚を描くことと同時に、刑務官という職業のひとたちを描くこと、その両方ともに繊細な神経が必要じゃないかと思うのです。

 話が前後しますが、そもそも「死刑」をテーマとして漫画なり小説なりの創作をする場合、次のような描き方ができるのではないかと思います。ひとつは、まったくの架空の場所で架空の設定(法律下)の話を通じて、「死刑」問題を読者に投げかける、という方法です。これは大いにアリだと思います。現実世界にあるものを描くことだけが、「リアリティ」の創造ではない。作者の作りだした世界の中で、作者のつくりだしたルールに則った「システム」の中で生きる架空の人物たちをリアルに動かすことで、現実世界の問題と通じる(いわば普遍の)ものを読者に体感させる、という手法がまずあると思います。

 そして、もうひとつの手法は、実際に存在する国の実際の法律下で行われていることを厳密に描く、という方法です。日本を舞台にするならば、実際に日本の死刑囚をとりまいている環境、決まりごと、刑務官に関する諸々、それ以外にも、被害者遺族の諸々、死刑囚関係者の諸々、それらを綿密な取材に基づき誠意を持って描いていく、そういう方法です。

 今回とりあげる『モリのアサガオ』は、架空の国を舞台にしているわけではなく、日本を舞台にし、日本の法律下での死刑囚や刑務官、その他の人々を描いている漫画です。そういう意味でいえば、上述するところのふたつの手法のうちの後者の手法で描いている作品と言えます。しかし、私自身は、この『モリのアサガオ』を読み、この作品は全編通してあたかも現実を描いているように見せながら、その実、都合のよいところは作者の描きやすい設定で描いている作品にしか思えませんでした。後者の手法で描く場合、そういった「ご都合主義」は非常に姑息とも思え、一体作者は読者に何を問題提起したいのか、単に自分の漫画をドラマチックに仕立てることができれば、現実をどう捻じ曲げて描こうが構わないと思っているのか、そういうふうにも感じられてなりませんでした。つくられたドラマの部分よりも、現実をきちんと描いた方が、はるかにこのテーマならば生きるのに、何故それをしないのか、と疑問にも思いました。そしてそれは特に、主人公(の設定から考え方から)を始めとする刑務官の描き方について感じました。

 拘置所を舞台として「死刑問題」を描くとなれば、それは死刑囚のみを描いて成立することではないと思います。必ず刑務官を描くこととセットになる。死刑囚周辺の諸々だけでなく、刑務官周辺の諸々をできるだけ厳密に描くことによって、拘置所という施設の特異性、死刑という制度の特異性が浮き彫りになってくると思います。ですから、高校生の頃から、死刑囚を収監する拘置所の刑務官の周辺事を記したノンフクションなどに興味を持ち、少しではありますが眼を通していた私にとって、この『モリのアサガオ』における大きな関心事のひとつは、刑務官の描かれ方でもあったのですが、実際に読んでみて、この作品での刑務官の描き方には少なからずがっかりしました。

 ここから大いにネタバレをしていますので、未読の方はご注意ください。

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モリのアサガオ 7―新人刑務官と或る死刑囚の物語 (アクションコミックス) 上述しましたが、この作品の主人公は、元拘置所長である父親のコネで就職し、新人では異例の死刑囚舎房に配属された刑務官です。この設定からして、「後々ドラマに必要なんだろうな」という想像をしつつも、頭の片隅で相当な嫌悪を感じました。拘置所、しかも死刑囚舎房というところで働いているひとたちのことを、作者は一体何だと思っているのかなと、その心意をはかりかねるような気がしました。死刑囚と接する仕事というのは、外部の人間の想像を遥かに超えたデリケートな仕事だろうと思います。そんなところに、コネで、新卒者が配属されるほど、日本の役所はゆるくないと思います。仮に他の役人にはコネでなれたとしても、拘置所の死刑囚舎房に、というのはあり得ない。そんなやつが来たら、他の刑務官が困るから。

 死刑囚と接する仕事のデリケートさ、といえば、昔、おそらく大塚公子さんの本で読んだのですが、そこにはこんな話が書かれてありました。新しく死刑確定囚が拘置所にやってきた際、その死刑囚と同じ土地出身の刑務官は、決してその死刑囚の担当にはならないきまりがあるそうです(というか、大塚さんが元刑務官から聞き書きした時代にはあった。今もそうかどうかは定かでないですが)。元々知り合いであったり、共通の知人があったりした場合に不都合がある、ということも理由だそうですが、そういうわけではなくとも、同じ土地出身の者同士は何かと情が通じ、必要以上に深い親交を持ってしまう危険性があるからだそうです。

 孤独な死刑囚にとって、「心を通じ合える」刑務官と出会えることは、少なからず幸せなことかもしれません。しかし刑務官にしてみれば、深い親交を持つまでに至った相手を処刑せねばならぬ場合があり、処刑自体にかかわらずとも、「処刑した側の一員」としてそれ以後も生きていかねばならず、また他の死刑囚にも接し、同じ仕事に日々努めなければなりません。だから、刑務官にとっては、「心を通じ合える」死刑囚と出会ってしまうことは、ある意味不幸なことでもある……と、いえるのかもしれないなと思います。ひととひととの出会いが幸せをもたらす、などという、必ずしも単純なことではないのだと思います。人間は弱い。死刑囚も人間で、刑務官も人間で、その弱い人間のうち、あとに残らねばらない刑務官の精神を守るための「決まり」が、上のような、「同郷の死刑囚の担当にはならない」というものなのだろうと思います。

 ちなみに、その話にはつづきがありました。話者である「元刑務官」の方の親御さんの田舎と、その方が担当することになった死刑囚の故郷が奇しくも同じだったそうです(刑務官の親の出身地までは調べないらしいです)。元刑務官さんは、親御さんの田舎に子どもの頃に何度も行ったことがあり、その関係で死刑囚と親しく話をするようになったそうですが、それが他の刑務官に知れると担当を外されてしまうおそれがあったため秘密にしていた、そして処刑の際は想像以上につらかった、という話だったと記憶しています(今、自宅を離れているため、ちょっと確認できませんが)。

 このエピソードを知ってからの私の頭には、死刑囚と接する刑務官という仕事には、自分たちの想像以上の、とてもこまかい、そしてデリケートな「決まりごと」があるのだということがインプットされたように思います。死刑囚の精神を乱さぬように、そして刑務官自身の精神を守れるように、という目的での「決まりごと」です。ですから、『モリのアサガオ』を読んでいる間、上述したような主人公の「コネ」設定に最初から違和感を覚えましたし、刑務官になった主人公が、「死刑囚のことを知りたいんや!」というような完全なる自己欲求のままに動くことにも違和感を覚え、また、主人公のそんな欲求に基づいた行動には、死刑囚の精神に近づこう(というより、踏み込まなければ気が済まない、といった方が正しい)とする自らの言動への疑問が一切見えず、刑務官という自らの立場を顧みたときに生じるはずの葛藤も一切見えないことにも違和感を覚えました。死刑囚のことを知りたいから調べ、憶測し、死刑囚に自分の推測を述べて「そうだ」と認めさせる。主人公の行動は、その繰り返しです。これでは主人公は、マスコミの人間と何ら変わりありません。こんな主人公が、ほとんど自由に、しかもひとりで死刑囚の各舎房に出入りし、そこでドラマが起こる……、ということが、この作品の中では繰り返されますが、そもそも刑務官がひとりで房の鍵を開けて中に入るなんてことが考えられないです。ストーリー上、都合のよい(?)ときは、いつも主人公はひとりで房に入っている。この、一切「決まり」がなく、作者の都合で現実を描いたり描かなかったりという匙加減が、個人的にはどうにもこうにももやもやして仕方がないです。

 また、この新人刑務官である主人公を取り巻く先輩刑務官の描き方が非常に記号的であることにも疑問を覚えます。先輩刑務官の面々は、確かにいろんな背景を背負ってはいるけれど、それがあまりにも記号的にすぎる。実にまあ、どのひとも、主人公が憶測して問い詰めたら出すわ出すわ、自分語りを。それがどれも、「そんな中学校の道徳の教科書みたいな説明的な言葉で語ってしまえる程度のことだったら、実はこのひとにとってそんなに大したことじゃないんじゃないか……?」と思ってしまうほどの、ありきたりな言葉での説明に終始しているように思えてなりません。それほど重大で、それまで胸に秘めてきた思いや考えなら、そんな陳腐な言葉で主人公にこうも説明してしまえるものかなという感想が先に立ってしまって、読んでいてもまったく心に響いてきませんでした。その上、刑務官を長年務めてきたひとにしかわからないような思いや考えを、黙って行動で主人公に示してくれるひとがいないのです(若林さんは一見そんなひとに見えますが、よく読んでみると、それっぽいことを言っているだけで、肝心なときにはたいしたことを言ってくれていないように思います)。

 たとえば、死刑囚迫田と獄中結婚した西田さんという女性のエピソードですが、あの件に関して、本編から読み取れる限りでは、主人公以外の刑務官は、西田さんのことを「死刑囚なんていう極悪人と結婚するような女は、自己存在証明をしたいだけのつまらん女」というふうに思っていることがわかります。そして西田さんの「結婚」の本当の理由を知ろうと「一所懸命」に彼女のことを考える刑務官は、主人公ただひとり、という描かれ方がなされています。この描かれ方には、少なからず悲しいものを感じました。

 坂本敏夫さんという元刑務官の方(この方は、映画『刑務所の中』や『13階段』『休暇』や、ドラマ版『モリのアサガオ』の監修もなさっていたと思います)が、近年多数のノンフィクション作品を発表していますが、その中の一冊に、獄中結婚のことが書かれてあったと記憶しています。そこには、刑務官の方々というのは、獄中結婚に関しては非常に不安感を持っている、というようなことが書かれてありました。刑務官の方々が恐れるのは、死刑囚の男性と結婚した一般人の女性が、最初は「死刑囚を救う」というようなボランティア精神に近い感情で結婚したとしても、次第に足が遠のき、また外で別の男性と結ばれるなどし、夫である死刑囚と関係を切りたがる事態になることだといいます。こうなると、一旦心の拠り所である「妻」を得ていた死刑囚は、結婚前よりも精神が不安定になったり絶望したりすることがあり、それを刑務官は一番危惧するのだそうです。ですからそもそも結婚に至る前に、相手の女性に対しては、本当にその死刑囚と一生婚姻関係でいる覚悟がないならば、獄中結婚はやめてほしいという気持ちで、説得のようなことをするそうです。獄中結婚をする女性に対する興味よりも、死刑囚のことを考えて危惧を抱くのが刑務官なのだなと、この話を読んだときに思いました。ですから、『モリのアサガオ』において、死刑囚である迫田のことを考え言及している刑務官がひとりもいなかったことに、何だか深い落胆を感じました。ここで描かれていたのは、「西田さんを揶揄して、彼女の真実を知ろうとしない先輩刑務官たち」と、それと対になった「西田さんのことを一所懸命考える、特別な刑務官である主人公」が描かれていただけでした。

 このエピソードに限らず、そもそも『モリのアサガオ』においては、もっとも死刑囚のことを一所懸命考え、いろんな行動をとっているのは主人公だけ、というような描かれ方がなされているように思えてなりません。ちょいちょい若林さんはこんなこと考えてる、マイホームパパの刑務官さんはこんなこと考えてる、彼女を殺された刑務官さんはこんな想いを秘めてる……みたいな部分は出てきますが、それも全部、主人公が、「●●さんはこれこれこういう過去や環境があって、だからこんなふうにきっと考えてるんや、そうに違いないんや!」と、インスピレーション会得のごとく「知って」しまい、それをまた中学生の読書感想文のような言葉で読者に説明して終わりです。挙句の果てに、先輩刑務官に、「ひとりの確定囚のことをこんなにも深く考える及川(主人公)って、すごい奴やな」とまで言わせてしまう。すごいな。主人公、無敵ですな。これで真面目に死刑問題を考えてる漫画です、と言われても……、困る。この「主人公だけが特別で無敵」な感じ、個人的には『龍馬伝』と同じにおいをびしびし感じます……(^_^;)。どちらの主人公も人一倍繊細なふうでいて、実は誰よりも無神経なような。なのに周りは「主人公すごいや」と感服して終わってしまうという……。

 しかし、こういうふうにお書きすると、どうも私の言っていることは、「以前自分が読んだ本と、刑務官の描かれ方が違うからヤダ」と言っていることと同じだとお感じになる方もおいでるかもしれないと思います。それは私の書き方が稚拙であるからだと思いますので、言い訳がましくも、ここで一旦整理させていただこうと思います。

 「死刑」問題を考えるには、様々な問題がかかわってきます。死刑囚自身のこと、被害者とその遺族の方々のこと、冤罪問題(この問題の本質は、あくまでも「冤罪をなくすこと」であって、それは捜査と裁判の問題ですので、冤罪があるから死刑は廃止すべき、というのは、少し本質から外れた意見であるとも個人的には思いますが)、そして死刑囚を処遇する刑務官のこと、また教育刑の意味を持つ他の量刑とは違い、死刑は完全なる応報刑であるということ、そして目的刑論問題等々です。そのひとつであり、大きな要素である刑務官、その立場の人々を丁寧に描くことが、この問題をテーマにした創作には必要ではないかと思います。そういう観点でいえば、『モリのアサガオ』は、主人公である新人刑務官を「丁寧」に描いている(というか、ずーっとこのひとのことばかり描いているような)と言えると思いますが、この新人刑務官は、読者と一緒に死刑周辺のことを知っていく、いわば「読者の分身」キャラであると思います。だから、このひとがすべてを自分で体得していく「無敵」キャラであると、物語に深みとリアリティが欠けてしまうのです。主人公が今まで生きてきた環境の中で得てこなかった価値観や考え方を、先輩刑務官が示してくれることで、読者も「刑務官とは、こういうことを日々思っているのか」と知ることができる。いや、『モリのアサガオ』では、先輩刑務官はちゃんと主人公にいろんなことを示してくれているじゃないか、とお思いの読者の方もいらっしゃるかもしれませんが、上記のように、私は以前読んだ本の記述を思い出したりなどし、そうすると、『モリのアサガオ』の先輩刑務官の描き方はあまりにも浅薄に思え、これでは刑務官とは、死刑囚が自らの罪を反省しているかしていないかという「区別」をするだけの存在にしか思えないような描かれ方の作品であるような気がして仕方がないのです。つまり、私にとって『モリのアサガオ』とは、主人公が死刑囚たちを「反省している」か「していない」かということで区別化し、反省している者は死刑にするにはしのびない、しかし反省していない者は死刑にしてよい、という「自分ルール」で結論まで無理やり出してしまった漫画にしか思えない、ということでもあります。そしてこの描き方は、刑務官という職業に従事している方々に対して、大変失礼ではないかとも感じるのですが……。長くなるので、つづきはまた次回お書きしようと思います。お目通しありがとうございました。