この頃夢を見るのだ。
 ひとりの女が出てくる夢を。
 眠ると彼女が向こうから歩いてくる。頭のてっぺんで結い上げた黒くて長い髪の尻尾が、風に揺れている。
 と、思ったら、風などどこにも吹いてはいないのだ。
 なのにどこからか緑の木の葉が舞ってくる。青いにおいのする草が足許で揺れている。無風状態の中で、彼女の髪が揺れている。そして彼女はこう言うのだ。

「レイヴ、恐れなさるな。
 ご心配召されるな。
 よろしいか、わごりょは強い。
 強靭で健康じゃ。
 何事かを恐れるときには、ときにそれを飽和してしまうがよいのじゃ」

 大きな黒い眼は、まるでそれだけで意志を持つかのように力強く、それでいて、そこに映すものを決して薙ぎ倒しては行かぬような、そんな柔らかい光を伴っている。

 久しぶりだ。

 彼はつぶやいた。

 今までどこに隠れていた……。

 彼は、そうともつぶやいた。

 彼女は歯を見せて笑った。

「隠れていたのではないよ。
 身共はもう『おらぬ』のじゃ」

 おまえはここにいるじゃないか。

 彼は思わず力を込めて言った。
 彼女はちょっと困ったようなバツが悪そうな顔をして、笑い顔のままうつむいた。

「でも、身共はもうおらぬのじゃ」

 また彼女がつぶやいた。

 何を言う。
 ……おまえはここにいるじゃないか!

 彼はそう叫んで、彼女の肩を掴もうとした。


 そこで眼が覚めるのだ。
 いつもいつもだ。
 眼が覚めると、そこには窓があって、カーテンの隙間から、晴れには晴れの、雨には雨の光が漏れてきていて、勢いよく引き開くと、瞬間眼の中が真っ白になる。そうして、彼女は一体誰だったのだろうと思い起こす。
 見覚えがあるような、それでいて見知らぬような、定かでないのだ。
 名前も素性も知らないが、それでも「久しぶり」だなどと、いつも懐かしさと悲しさがこみ上げて眼が覚めるのは何故だろう。

 ヘブロン国王の座す宮殿に、貴賓室がある。そこでの食事会の席で、レイヴは少し前にその娘と初めて会った。淡い金色の髪をやわらかくカールさせた娘だった。
 デュミナス帝国の宰相を迎えての食事会であったので、レイヴはその娘もデュミナスの高官が連れてきた娘なのだろうと無意識のうちに思っていた。さして気にも留めず、食事会は終わった。
 その次の日、ヘブロン国王と近侍に呼ばれた。国王は言った。
「そろそろ身を固める心積もりはないかね、騎士団長」
 拝礼のあとで直立した姿勢のまま、レイヴは唇を引き結び、声も立てずに思わず国王を見た。
「昨日、食事会に金髪の娘が来ていただろう。あの子は、このカールスン侍従長の末の娘でな、年もちょうどいい、騎士団長より2つ年下の――」
 傍らに控えている近侍がレイヴを見て笑んだ。
「あ……、はぁ、昨日、お見かけしたような……。デュミナスの方々のお席に近いところにいらしたので、デュミナスの方かと――」
「メリッサは――、カールスンの末の娘御は、デュミナスの文化に詳しいのだ。デュミナス側の方々をもてなすのに、ふさわしいと思ってね」
 そう言うと、国王は身を乗り出して言った。
「カールスンの娘御なら、騎士団長の奥方にふさわしい。家柄も身分も器量も申し分ないと私は思うのだが、どうかね」
「いえ、私はまだ家庭を持つには、若輩ですので、そのことは――」
 堅い表情でそう言ったレイヴの言が終わるか終わらないかのうちに、国王は快活に笑った。
「何が若輩なものか、騎士団長。謙遜には及ばんよ。それに君より年下の部下たちでさえ、もう妻を持っている者が何人もいるではないか」
「ですが陛下――」
 またレイヴの言を国王が遮った。
「それとも、誰か心に決めた相手がいるというのかね」
 レイヴは息をひとつ飲んだ。そして、すぐに国王を見て言った。
「いえ、そういう相手はおりません」
「ならば問題ない。何も今すぐに結婚しなさいと言うつもりはないよ、メリッサの方とて、それには戸惑うだろう。しばらくつきあってみなさいということだ、気持ちが通じ合うまでな。そうだろう、カールスン」
 近侍がうなずいた。
「娘も騎士団長のご雄姿を、式典の度ごとに拝見しているようです。親しくお声掛けくだされば、娘も喜びましょう」
 レイヴの脳裏に、そのとき何故か、カールスンの娘ではなく、黒い髪の尻尾を揺らしている娘の姿が浮かんでいた。

「お疲れなのか?」
 振り向くと、またあの黒髪の女がそこにいた。
 少しだけ振り仰ぐと、薄墨を伸ばしたような空がずっと続いていて、それが遠くへ行くほどに、青く青く伸びていっているのが見えた。
 女は、黒い髪に黒い眼をしていた。白い薄衣を重ねたような衣服をまとい、腰の辺りでそれを一本の帯のようなもので縛っている。いつか見たときと同じように、長い髪を頭の上でひとつに束ね、その髪が、女の一挙手ごと、一束ずつ揺らぎ舞う。化粧の様子のない顔は、それなのに何故かはっきりと輪郭を帯びて光に映え、すっきりと伸びた黒い眉と大きくて深い眼を、レイヴは無意識のうちにみつめていた。紅色の唇は、決して光の中に溶けず、ともすれば儚く見えてしまうであろうそこに降り注ぐ淡い陽光でさえ、彼女の周りでは、むしろ不動の「意志」を持つ光のようにも見えるのであった。
「君は誰だ」
 レイヴは尋ねた。
 女が答えた。
「御身を守護する者」
「守護……? 名前は」
 少しだけ女がはにかんだ。
「名前は無い」
「……俺と、昔、会ったことがあるか?」
 女は、じっと地面をみつめていたようだった。そうして、やおら顔を上げると言った。
「それは、ちょっと、わからない」
「本当か?」
 レイヴは無意識のうちに声を荒げて女を見た。
「俺は、君と会ったことがあるような気がするんだ。それも一度や二度じゃない、もっと長い間、知り合っていたような」
「すまぬが、……身共には、覚えが、ない。ただ、身共はレイヴを守護している。それは、これからもずっと」
 どこか切れ切れにそう言うと、女は少しだけ、その手を差し出して言った。
「……お手に、触れても、よい?」
 レイヴはじっと女の顔をみつめていた。返事をせぬままに、ただじっと彼女をみつめていた。喉の奥で声が詰まり、返事ができなかったのだった。
 知らぬ間に、女の手が彼の手をそっと取っていた。まるで空気のような微かすぎるその感触に、レイヴは息を詰めた。肌と肌の触れ合う実感も、体温のぬくもりも、それら一切のものがそこには存在しなかった。ただ何かが触れている、それに取られ、手が宙に浮いている、そんな感じがするだけだった。
「大分、お疲れじゃ」
 女が言った。
 レイヴは、女の手に載せられた自分の左手をみつめた。
「恐れなさるな、レイヴ。
 何事も、およろしくお計らいになるがよい。
 罪業を恐れなさるな。
 降りかかる火の粉を払うためならば、罪業とて恐るるに足らぬ。
 代われるものなら、身共がすべての業を引き受けてさしあげる。
 わごりょはお強い。
 恐れるな。よろしいか、身共がいつだってお守りしている」
 レイヴの左手を撫でながら、彼の眼を黒い眼でじっと見ながら女は言った。言い聞かせるように、レイヴに言った。そうして眼を落とした。
 そして、やおら彼女は、レイヴの左手の甲に自分の顔を近づけ、左の頬をその甲にそっと当てた。それから何度も彼の指先をゆっくりとさすった。
 空気のような感触で、彼女はレイヴの指先を撫でていく。
 やがてレイヴの眼から、涙が一粒こぼれ落ちた。それが彼の硬い頬を音もなく滑り落ちていった。
 どうして涙が出たのかは、彼にもわからない。
 眼を上げた彼女は、レイヴの涙に気づいて言った。
「お泣きになるな」
 彼は唇を強く噛み締め、一度だけ眼を強く閉じ、そうしてまた彼女をみつめて言った。
「君は、誰だ」
「……誰でもない」
 そう答えた彼女の手には、いつの間にか大きな白い羽があった。その羽を右手でかざし、やわらかな羽毛で彼の涙の痕を撫でた。

 また朝だ。
 気がつくと、ベッドの上で朝を迎えている。
 起き上がり、手を見た。
 何も残っていなかった。
 じっと床の一点を凝視していたが、やがてレイヴは顔を上げた。文机を見やり、その引き出しの中に入っているものが脳裏に浮かんだ。
 立ち上がり、引き出しの中から分厚い日誌を取り出す。それを開き、一枚の白い羽を取り出した。
 いつからこの羽は、ここに挟まっていたのだろう。どこでこれを手に入れたのだろう。
 日誌を書くたびに、レイヴはそう思っていた。いつ頃からそう疑問に思い出したのかさえ、記憶が定かでない。本当に、いつのまにかその大きな羽は、彼の日誌の中に挟みこまれており、彼はこの羽を、どこかで拾った鳥の羽なのだろうと思っていた。あまりに大きくて、そしてやわらかで、純白のようにも見え、ときどき淡い薄桃色をしているようにも見えるのだ。それが美しくて、珍しくて、どこか遠征に行った折にでも自分は拾ってきたのだろうとずっと思っていた。
 この羽がどうかしたのか。
 わからない。
 鳥の羽が、一体どうしたというのだ。
 レイヴは眉根を寄せ、眼を細めてその羽をじっとみつめた。
 手にとって、自分の頬のあたりを、その羽で撫でてみた。
 頭の中が、白濁した霧で覆われるような思いがした。

 メリッサ・カールスンという娘には、もう5度ほど会った。
 そのうち少なくとも2回は彼女の家の夕食に招待されたもので、名義としては、メリッサの父であるカールスン侍従長からの招待ということになっていた。
 カールスンの家は、ヴィンセルラス家とほぼ同じくらいの格式で、使用人の数も見たところ同じくらい、だからレイヴの眼にも、メリッサという女性が、それほど自分とかけ離れた価値観や考え方を持っているようにも見えなかった。どことなく、気安いような思いはした。実際彼女は気取らず、それでいてレイヴが同席しているときもはしゃぎすぎず、ヘブロンの上流階級の娘らしい恥じらいを持っているようにレイヴには感じられた。
 彼女の家の食事に招かれていないときも、何度か彼女をおとなった。国王や侍従長への義理もあったかもしれないが、レイヴ自身がメリッサに対し、嫌悪を抱いていないことは確かだった。
 あるとき彼はメリッサと、騎士団についての話をしていた。
「あの……、騎士の皆さまは、お守りになるものなど、何か、お持ちですの」
 メリッサがそう尋ねた。
「お守り、ですか。持っている者もいればそうでない者も……。まあ、大抵何がしかそういうものを持っているんじゃないかと思いますが」
「レイヴさまは? レイヴさまは、何かお持ちですか?」
「いや、そういうものは、あまり、信じていない方なので……」
 メリッサが笑んだ。
「団長さまですものね。お守りに頼らずともよいくらいのお実力が」
「ああ、いや……、そういうことでもないのですが」
 申し訳なさそうにレイヴは言った。
「でも、それでしたら、今はお守りはお持ちではいらっしゃらないのですね」
「ああ、そう……ですね」
 相槌を打ちながら、レイヴの脳裏にあの白い羽が浮かび上がった。
「あの……、騎士さまは、女性がお贈りしたものをお持ちになるご風習がおありと漏れ聞いたことがあるのですけれども……、本当ですの」
 レイヴはメリッサの言葉に、瞬間虚空を見た。
「あ、ああ……、そう、ですね。そういう習慣は……、まあ、あります」
「まあ」
 何故かレイヴの応えに、メリッサは両手を組んで顔を輝かせた。
「あの、おこがましいようですけれども、今度お会いできるときに、何かレイヴさまのお守りになるようなものをご用意しても……、構わないかしら?」
 恥ずかしそうにそう言ったメリッサの上気した顔をレイヴは見た。
「いえ……、お気持ちは嬉しいのですが、まだそこまでしていただけるような私ではないと思うので……」
 何気なくそうレイヴは答えたが、メリッサはまるで悪いことを見咎められたかのような、悲しそうな顔をした。
「ご、ごめんなさい。そ、そうですよね、まだ、そんな、私、出すぎたことをできるような身分じゃ――」
 うなだれたメリッサに、レイヴは慌てて声をかけた。
「いや、こちらこそ、無粋な物言いをしてしまって。……申し訳ない。あなたがおこがましいとか、そういうことではない」
「いえ、いいんです、私がそう思うのです。すみません、お気になさらないで」
 そう言うと、メリッサはレイヴを見て笑んだ。
「でも、あの……、本当に大変なお仕事ですね、騎士さまって」
 つぶやくようにメリッサが言った。レイヴはメリッサの横顔を見た。
「そう思いますか」
「はい。私たちのこの国をお守りくださる盾であり剣でもある方々ですもの。そうして、私たちの誇りであり、拠り所でもあると思いますわ……」
「……国を守っているのは、騎士団だけではありませんよ。野菜をつくる農夫だって国を支えているし、それを売る店の主人も雇われの店員も、この国の柱だ……。柱のない建物の中で、騎士団が己を鍛えることはできない……」
「あ……、はい……」
 レイヴに言われて、メリッサはまた申し訳なさそうな顔をしてかすかに笑んだ。
 この娘は、素直すぎるのだ。せっかく自分の頭で考えた意見を持っているのに、他人から別の言い方で言われてしまうと、自分の言い分を取り下げてしまう。まるで自分が出すぎたことを言ったりしてしまったように感じてしまうのだろう。貴族の末娘にしては、人並み以上に純朴でやさしすぎる。
「いや、すまない。あなたが、騎士団を『誇り』に思うと言ってくれたので、そのお言葉に甘えてしまって、つい……」
「いいえ、レイヴさまは、正しいと思います! 私だって、農家の方がおつくりになったお野菜を毎日いただいています。私の身体は、農家の方がおつくりくださっていると同じだと思うんです!」
 勢い込んでそう言ったメリッサに、レイヴは少々気圧されながら言った。
「あの……、あなたも決して間違ったことを言ったわけではないと思うので……」
「は、はい!」
 メリッサが嬉しそうに笑った。
 レイヴもその顔を見て、心のどこかでほっとした。
「ああ、そろそろ……」
 懐中時計を取り出して眺め、立ち上がりかけたレイヴを、メリッサの緑色の眼が追いかけた。
「お時間ですか?」
「ばたばたして申し訳ない。演習があるのです」
 傍らの椅子に置いてあった愛剣を腰に挿し、レイヴはメリッサに会釈した。
「あの……、お気をつけて。お怪我、なさらないでください」
「ありがとう」
 もう一度会釈をして、レイヴは辞しかけた。
「あの、レイヴさま」
 メリッサに呼び止められ、振り返った。
「また、おいでてくださいますか」
「……」
 レイヴは無言でうなずいた。
「お待ちしています……。あの、あの……、どんなときでも、私、お待ちできますから、ずっとでもお待ちできます、だから、おいでてください」
「……突然戦が起こらない限りは、また寄せさせていただきます」
 レイヴは静かにそう言った。
「私、もしも突然戦が起こったとしても、レイヴさまがお帰りになるまでお待ちしています、美味しいお料理もつくります、待っています」
 メリッサは懇願するようにそう告げた。
 彼女の顔を、レイヴは何秒間か眺めていた。
 そうして、また改めて深く礼をすると、その客間から静かに辞していった。

 「待っている」と言われたのは、初めてだったな。
 そんなことをぼんやり思っていた。
 いつも待っていたのは俺の方だった。
 最初はそんな気持ちはなかったのに、いつからか待ち続けるようになって……。
 レイヴはそう思いながら、虚空を見た。
 誰のことを待っていたというのだろう。
 いつ、どこで、誰を待ち続けていたのか。
 ふと、彼は跳ね起きた。
 彼女がいた。
 黒い髪のあの娘が眼の前に座っていた。

「お元気か?」
 彼女はよく通る低い声でそう言った。
「……この前より、随分お顔のお色がおよろしい。何か楽しいことでも?」
 草の上にレイヴも起き上がり、彼女の前に跪くように座った。
「俺は君に会ったことがあるぞ……。君を待っていたときがあったような、そんな記憶があるんだ」
 レイヴがそう言うと、彼女は返事をしなかった。代わりにちょっと力無く笑ったように見えた。そして言った。
「レイヴ、ご縁談がおありなのか? お健やかそうな女御じゃ、お相手の方は」
 そうして、彼女はまたちょっと笑って言った。
「ようお似合いじゃ」
 レイヴの顔が何故か歪んだ。唇を引き結び、歯を噛み締めて彼女を見た。
「身共は……、御身をいつも守護している。レイヴが嫁御を娶れば、その方のこともお守りする、お子がお生まれになれば、勿論お子もお守りする。じゃから……、何があっても、レイヴは、ご心配召されるな……」
 静かな声で彼女は言うと、また力なく笑った。
 レイヴは彼女の顔をじっとみつめた。記憶の一部分に、まるでモザイクでもかけられたようになっていて、それを取り出すことができないような思いがした。だがそこに、そのすりガラス状の記憶の一帯に、この眼の前の娘との記憶が眠っている、そんな確信めいたものが彼の中で強まっていた。
「君は……、誰に守ってもらうんだ?」
 レイヴはつぶやいた。娘がレイヴを見た。
「俺は……、もうずっと前に、君に守ってもらったことがあるような気がしているんだ。そのときに……、俺は……、君を、今度は自分が君を守ろうと……、そんなことを思って……、何かを待っていたんだ、そのときには、君を守ることなどできなくて」
「レイヴ」
 大きく見開いた眼で、じっと彼をみつめながら彼女が遮った。
「それは、別の方とのことじゃ。身共とのことではない」
「違う」
 空気を切るような声でレイヴは反駁した。
「君だ。君とのことだ。その黒い髪、眼も髪型も、喋り方にも覚えがある。俺は、何かを待っていた、その時期を、そのときが来るのを。ずっと待っていた、だが」
 レイヴはそこまで一気に告げ、いつしか詰めていた息を吐き出した。肩が大きく上下した。そして言った。
「そのときは、来なかった」
「レイヴ」
「そのときというのは、君と、君と一緒に暮らせるときのことだ。俺は、それができるとずっと勝手に信じて――」
 娘が叫んだ。
「違う、それは違う! 身共とのことではない!」

 そして瞬間、その声が消えた。
 気がつくと、レイヴの眼の前には、誰もいなくなっていた。

 遠い空の向こうから ふたりの天使さまがやってきた
 ひとりは男の天使さま ひとりは女の天使さま
 僕が手を取り膝をつき
 そしたら 僕の手を取って
 ふたりは僕にこう言った
 膝をつくのはこちらの方です 
 さあさあ それはともかくね あなたの世界を均しましょう
 さあさあ それはともかくね やっちゃいましょう それなりに

「あっ、おかえりなさ~い」
 歌うのをやめ、シェリーは如雨露を持った手を鉢植えの上にかざしたまま、その天使に声をかけた。
「ああ。ハナは?」
 水の雫を尻尾の先から落としながら、シェリーは如雨露の先端を上にもたげて答えた。
「お部屋だと思います。お姿を見てませんから」
「ずっと寝とんのか」
「多分」
 シェリーの答えに、彼は白い外套のような上着を脱ぎながら嘆息した。
「具合が悪いっちゅうのんは、どうも本格的なんかね……」
 ラキア宮の長い回廊の向こうに、宮の2階部分へ上がる階段がある。彼とシェリーは回廊の奥へ進んで行った。
「ところで、さっきの歌、ありゃおまえ、何や」
「ぁ、聞こえてました?」
「ああ。ふたりの天使がそれはともかく、みたいな」
「全然違いますよ! それはともかくですけど、それだけじゃないですよ!」
「ああ、そう。けったいな歌やったなあ」
 彼の傍らを軽く旋回しながら飛んでいたシェリーは、おもむろに少し胸を張るようにして言った。
「私がつくったんです」
「……ああ、そう」
「『ふたりの天使さま』っていうのは、勿論――」
「ぅあーーーーーーーーぉう」
 突然奇妙な声を発し、耳を塞ぐポーズをした彼に、シェリーは驚いて眼を見開いた。
「な、何です」
「やめてくれ、おっちゃんとハナを歌にした、とか言うんやったらやめれ。自分のテーマソングをいきなり贈られたら、おまえやってこう、ゾワゾワくるやろ、気色悪いやろ」
「もう~、違いますよ。別に、ベリーランドさまとハナカズラさまのテーマソングをつくってあげたつもりはありません」
 両耳に当てていた手を少し上げ、彼はシェリーを見た。
「なら、何」
「私のテーマソングです」
 彼が虚空を見た。口許だけで笑った。
「ぁぁ……そぅ……」
「退かないでくださいよ」
「いやまあ、何にしても……、個人の自由やからな……」
 シェリーがまた胸を張った。
「当然ですよ」
「しかし何であの歌が、おまえのテーマソングなんかね……」
「秘密です」
 歯を見せて、シェリーは笑って言った。
「ふーん……」
「でもヒントならありますよ。インフォスのときのベリーランドさまとハナカズラさまを元にして、そこからつくった歌なんです」
「ふーん……?」
 回廊の途中に、庭園に出る石段がある。そこの出入り口の棚に、シェリーは如雨露を重たそうに置いた。
「もしもベリーランドさまやハナカズラさまが、人間になってインフォスに降りていたら、あの歌はできなかったと思いますよ、絶対」
 振り返ってそう言ったシェリーの桃色の羽に、陽光が反射して彼の眼を射った。紅い両の眼を細めながら、彼は黙ってシェリーを見た。そして、やおら言った。
「過大評価はするなよ……。人間になったりならんかったりすることが、天使として正しいとか正しゅうない、っちゅうことやないぞ」
 シェリーは小さくうなずいた。
「わかってます。でも、ベリーランドさまは、簡単に人間になれないって、そう思ったんでしょう」
「その覚悟がなかっただけかもしれんぞ」
 彼は眼を更に細めて笑んだ。
「間違ってるかもしれませんけど……、それだったら謝りますけど……、私、ちょっとわかるような気がするんです……。ベリーランドさまは、人間の世界に、人間の中に、天使はいちゃいけないって、思ってる。それは、天使さまが人間よりえらいからじゃなくて、ベリーランドさまは人間に引け目を感じてるっていうか、だから、すごく、一歩、ううん、何歩も……、下がってる……。ハナカズラさまも……」
 棚の上に正座をした格好で、シェリーは彼を見上げてそう言った。
「だから人間の世界を、元あったままで、そっくりそのまま残しておこうとしてる。ご自分が介入することをしないでいようって、そう思ってる」
「シェリー」
「人間の世界に、ご自分がいらしたこと、全部、なかったことにして、人間の世界をそのまま元の形に……、戻したんでしょう。平和になったってこと以外は、昔のままに」
「シェリー、あのなぁ……」
 困ったような顔をして、彼はシェリーの言を遮った。
「おまえがさっき言うたこと、否定はせん。けどな、人間界に介入せんっちゅうポリシーを理由にして、おっちゃんやハナは……、おまえが補佐してる天使はな、結局人間の記憶を操作するちゅう力を行使しとんねや。矛盾してるやろ。結局、そういうことなんや。それを覚えといた方がええ。人間にならんかった天使は、褒められるべき存在でも何でもない。やから、外では言うなよ。よう考えろ、おまえの将来にかかわる。どんな天使の補佐しとったか、誰が言い出してどんなケチつけてくるか、それはわからんからな。おまえが補佐してるこの天使はな、おまえの足をひっぱる天使かもしれんのやぞ。過大評価はするな、くれぐれもな。ええか」
 彼がそう言うと、シェリーはじっと彼を見上げ、眼を見開いたままそれを聞いていた。が、やがて、
「ベリーランドさま」
 そう呼びかけて、彼を見据えるようにして言った。
「私、過大評価なんてしてません。ベリーランドさまやハナカズラさまを褒めてなんかいません」
「……」
「でも、私は、ベリーランドさまやハナカズラさまを見て、そういうのはアリだと思った、アリだって思ったんです。私、『わかる』って思ったんです。それが、いけませんか?」
「……」
 黙ったまま、彼は何事かしばし考えていたようでもあった。そうして、そのままゆっくりとシェリーに背を向けると、回廊の先へ進んで行こうとした。
「ベリーランドさま」
「……どうした」
「……生意気言って、すみません」
 彼はちょっと振り返って言った。
「おっちゃんが、返す言葉が無うてそのまま立ち去るんや。滅多にないことやぞ。謝らんでええ、もっと堂々としとけ」
 そう言って、ニヤリと笑った。
「あ……、はい。はい!」
 シェリーが慌ててそう答えた。そして、やおら声を立てて笑った。
「おい、笑うなよ……」
「だって、ベリーランドさま、変なの、『堂々としとけ』なんて」
「おまえの方こそ、びくびくしてたらおかしい。似合わんくせに」
 どこかおどけたようにそう言うと、また笑って彼は歩き出した。
「あの、仕返しなんて、されませんよね?」
 その背中に、声高にシェリーが問いかけた。
「されたいのか」
 歩みを止めずに、かすかに振り返って彼が言う。
「お断りです!」
 シェリーが大きな声で答えた。

 3度のノックのあとで、彼は口を開いた。
「ハナ? ハナちゃんよ、おい、入るぞ」
 そのまま何秒か待った。扉のノブに手をかけてみると、鍵はかけられていないようだった。
「おまえ、具合があんまり悪いんやったら、エミリア宮でも行って――」
 言いながら部屋に入ったが、ベッドは空だった。
 部屋の中はしんと静まり返り、ただ風が、バルコニーの方から吹き込んできてカーテンを揺らしている。
 彼はその開け放たれているバルコニー口の方へ歩んで行き、そこから外に顔を出した途端、思わず声を上げた。
「おっ……、と、びっくったぁ……」
 そこに、彼の姪がいた。バルコニーの床板は薄氷色のタイルが敷き詰められてあり、その上にコンテナがしつらえられ、この季節にはちょうど金蓮花のオレンジ色の花と朱色の花が咲いていた。明るい緑色をした蔓と丸い葉が、手摺にも床にも伸び、その間に身体を埋めるようにして、姪は座り込んでいるのだった。
「寝よらんでええんか」
 声を掛けながら、彼は姪の傍まで寄り、その隣に屈みこんだ。そのとき彼は、姪が白い着物を着ていることに気がついた。
「おい……、何や、寝巻きにしたんか、白装束を。洒落にならんぞ……」
 それはただの白地の着物というのではなかった。絹糸で織られてあって、よく見てみると表面に鳥や華の紋様が浮き出している。姪はこの着物を気に入っているのか、ことのほか大事にしているように彼には感ぜられた。ただこの着物は、天界の一般的な衣服とは様相を異にする。それでも彼女はこの着物を、自分の「正装」として扱っているフシがあった。原則として、天界には、各天使に義務付けられた「統一の正装」はない。各々が自分の正装を好きに用意する。だが大概の場合、天使の多くはローブ様のものや、外套のついたスーツ、女天使ならローブドレスやチュールワンピースといったものを正装として扱っていた。
 彼の姪が、この白装束を「正装」としているのには、彼女なりの理由のようなものがあるにはあるらしかった。

 彼女が初めて公式の場に、この「正装」を着て出ていったのは、地上界インフォス守護の任務を正式に拝命する式典であったと彼は記憶している。彼自身はいつも白を基調とした外套つきのスーツを着ているが、このときも普段のものより幾分装飾部分のあるスーツを着て式に臨んでいた。隣にいた彼の姪は、女天使にしてはあまりにも簡素ないでたちで、ただの白い単の衣に白い帯、またそれが、天界で誰かがこのような公式の場で着ていたことがあっただろうか、と誰もが思ってしまうような衣服であった。彼女の装束は、居並ぶ天界の高位の女天使の壮麗なドレスやローブ、そして華やかな色の髪、そういうものと同じところに並ぶと、その違いがはっきりとわかり、そしてやはりあまりにも簡素すぎた。しかしそのとき高位の大天使たちのほとんどが、その若い守護天使のいでたちを見て、「みすぼらしい」と思うどころか、別の感想を抱いたことを、彼女も彼女の叔父も実は知らない。
 女天使によく似合っているのだ、その簡素で、一見味気ない白い装束が。ただ垂らしただけの肩までの黒いまっすぐな髪と、はっきりとした輪郭を持つ顔立ち、黒く伸びる眉にじっと見開いた大きな黒い眼、それらのすべてと、その白い装束が、ひとつとなって「彼女」を形成していた。そんなふうに見えた。ただ奇をてらって突飛な格好をしていたり、派手なことを好まないという信念でもって選ばれた衣服というだけならば、果たしてこれほど似合っているだろうか。列席していた大天使のひとり、メタトロンは、彼女を見ながらそう思った。
 式典のあと、園遊会があった。そのとき、メタトロンは、その白い装束のことを彼女に尋ねた。どうしてその衣服を選んだのかと。
『これは……、あの、身共はドレスが似合わぬから……。地黒じゃし、髪も黒いし、かわいらしい色のものがダメなのですじゃ、どうしてもはっきりした色の服でないと。でも、原色や黒っぽいドレスは、ちと……、こういう厳かな場にはいささか不相応な気がするし……。かと言うて、白いドレスというのも……』
 そうなんですか? と、メタトロンが訊き返した。彼女が言うほど「地黒」というようにも見えないが、彼女自身は他人が思うより気にしているのかもしれない。しかし「ドレスが似合わないから」という、そんな単純な理由であるとは、妙に肩透かしを食った思いもしたのだった。
 すると、彼女は俄かに周囲を見回した。傍に誰もいないことを確認すると少し背伸びをし、メタトロンの耳元にそっとささやいた。
『でも、本当は、もっと別の理由がありますじゃ。他の大天使さまには内密に』
 「おや」と、メタトロンは頓狂な声を上げた。
『あのな、身共は自分で見たことはないけれど、どこかの地上界で、亡くなった方をお弔いするときに、その亡くなった方がこういう白い着物をお召しになるんじゃって。祖父が言うておったことがありますじゃ。それで……、祖父は、祖母が消滅したあとで、祖母に着せることはできぬけど、この着物をつくっておったんじゃって』
 彼女はまたつづけてささやいた。
『この白い着物は、亡くなった方が、ちゃんとよいところに行けるようにお召しになるんじゃって。何にも色のついていない、綺麗な衣服で、軽うなって、行くべきよきところに行けるのじゃ。そうしたら、残った者が死んだとき、また同じようにこんな白い服を着れば、先に行った方と同じところに行けますじゃ。また会えるのじゃ。じゃから……、祖父がそう言うておったから、祖父が消えたときも、叔父が祖父の装束をつくって……』
 そこまで言って、彼女はメタトロンから少し離れた。他の大天使が通りかかったのだった。新しい守護天使である彼女を激励し、それからまた去っていく。
 ウリエルも、その装束をちらりと見ていきましたね。
 去っていった大天使の背中を見ながら、メタトロンは彼女に言った。
『へ、変ですかのう……』
 初めて不安そうに彼女は言った。
 よくお似合いですよ。
 メタトロンは言った。そして尋ねた。
 お婆さまのお着物をお召しになっているのですか。
 彼女はうなずいた。
『身共、婆さまとは、お会いしたことないのですじゃ……。でも、これを着ると、身共、何だか……、いつもは薄っぺらい一枚の紙みたいじゃのに、自分が何枚も重なった分厚い紙になったような、な、何か、そんな気がしてくるから……。気がするだけかもしれぬけど、心強いから……。あまり理由はないけど、この着物を正装にしたいと思うのですじゃ……』
 そして彼女はこうも言った。
『でもな、この着物は……、この天界とは違う神さまをお祀りになっている世界の着物なのですじゃ。じゃから……、やっぱり他の大天使さま、いや、叔父以外の方には秘密にしてくださるか、メタトロンさま』
 なるほど、と、メタトロンはうなずいた。
 心配しなくていいですよ。
 そしてメタトロンは言った。
 この天界以外の存在を祀る世界の着物を着てみるのも、粋なことですねえ。
『うん』
 照れたように彼女は頭を掻いた。
『身共、あんまり偉うないなーって、思えてくるよ』
 そう言って、彼女は笑った。

 彼は、バルコニーに座り込んでいる白装束の姪を見た。
 気に入りの「正装」をして、何故ここにこうして座り込んでいるのか、いささか疑問に思った。
「具合は、ようなったか」
 隣に座り、ぼんやりと何かを見ている姪を覗き込むようにして彼は尋ねた。姪の眼の先を少し辿っていくと、金蓮花の緑の蔓の先端が床に転がっていた。
「アイリーンっちゅうのんは、なかなか口のたつ……、けど、まあ、そんなヒネてもないか、あの子は」
 姪の代わりに会ってきた「勇者」の話を彼はぽつりと発した。アルカヤという地上界を、インフォスのあとに守護し始めてから1年ほどになる。いつもは姪が守護をしているアイリーンという少女に、この日、彼は会ってきたのだった。
「おまえが具合悪いっちゅうて言うたったら、『古い菓子は食うな』言うてたぞ。おまえ、アイリーンの前で古い菓子食うたことあるんか」
 冗談めかしてそう言っても、姪は返事をしなかった。
 彼は、姪を今度はじっと見た。そして、やおら姪の肩に手を伸ばし、そして掴んだ。彼女はそこで初めて、驚いたような顔をして叔父を見た。
「おまえ……、気が薄いぞ……。何か力を使うたな?」
 言うと、彼は姪の眼をじっと覗き込んだ。姪の黒い濡れたような眼が、脅えたように叔父の紅い眼を見た。
「部屋に入ってきたとき、ここにおったにしちゃあ、えらい気配が感じられんかったとは思うたんや。何でこんなに気を消耗してる。任務には行ってへんはずやな、何に力を使うた」
 険しい眼をして尋ねてくる叔父に、彼女の眼はいっそう脅えの色を増す。その様子に彼は、姪が何か、気安く説明ができないことに力を使ったのだと確信した。
「おい、ハナ……、言えんことやったら、言わんでええわ……。ただ、このままやと、おまえの気力は尽きるぞ……。消滅こそせんでも、一回気力が尽きて昏睡でもしたら、どっかに後遺症が残ることを知らんわけでもないやろ……」
 姪の眼を覗きながら、言い聞かせるように彼は言った。
 やがて、姪の黒い眼がにじんだ。彼女は言った。
「ベリー……、身共の、夢兆法術を、封印してくれ……」
「何?」
 普段聞きなれないその名前に、彼は瞬間眼を見開き、そして呆気にとられたように姪を見た。
「ムチョウ……、夢兆ておまえ……、そんなん、何に使うて」
「ベリーじゃったら封印できるじゃろう、身共よりずっと力があるから、封印できるよな」
「阿呆、『封印』なんぞ気安うできるか。封印で抑え込まれたエネルギーは消滅なんぞしてくれんのやぞ。どこにどんなに漏れ出て、わけのわからん方向に自分が持っていかれるやらしれん。封印なんぞに頼らんと自分をコントロールできんやつが、そんなエネルギーを適確に扱える道理があるか! 自家中毒で自分の力に飲み込まれていくんが関の山や」
 彼の言葉に、姪は顔を大きく歪ませて何事か言いたそうに見えたが、何も発しなかった。
 彼はその顔を見て言った。
「それに、諦めろ。『封印』は、その法術の力同士を比べたときに勝ってる方が劣ってる方の力を封印することができるんやぞ。おまえは知らんかもしれんが、おっちゃんは『夢兆』は得意やない。大体アカデミア出てからこっち、使うたことがない。おまえの方が夢兆法術の力は多分上や」
 言いながら、彼はその法術の力が強い天使というのは、そもそもこの天界にさほど多くはないと聞いたことがあるのを思い出していた。「夢兆」とは、「預言の法術」とも呼ばれることがある天使の力のうちのひとつの名前である。人間の夢の中に入り、そこで、いわゆる「告知」や「預言」を行う法術のことだった。覚醒している人間の前に現れて彼らと接触するよりも、もっと格段に間接的で、ともすれば「ただの夢」と受け取られてしまうことも多いが、夢の中の出来事ゆえにその神秘性と抽象性が増し、場合によっては直に接触するよりも、人間の意識下に多大な影響を与えてしまうことがある。そしてこの法術は、普通、地上界に直に介入することができる「下級天使」が使うことはない。守護をするにも人間と接するにも、そのまま直接地上に降りることができる上に、また夢の中で「預言」すべき用件も持たないのが下級天使であるからだ。その代わり、地上界に直接介入できない「大天使」は、この夢兆の法術を行使した場合にしか地上界と接することは普通できない。言い方を変えれば、下級天使にはほぼ不要の法術ではあるが、大天使には必須の力であると言えるのだ。さらに、この法術は数多の法術の中でも多大な気力を要する「天使泣かせ」の法術でもあった。だから、力の未熟な下級天使はおいそれと行使してみるわけにもいかない。おまけに、この法術の高い能力を先天的に有している天使は多くないと言われている。先天的にほとんど備わっていない上に練習もできない、だから多くの天使たちは必然的に夢兆の力を使うことがなくなってしまう。今高位に就いている大天使たちは皆、先天的に高い夢兆能力を備えていた天使たちばかりであると言っても、おそらく過言ではないだろう。
 そういえば、と、彼は思い出した。下級天使がもしも夢兆の法術を行使しようと試みても、成功率はかなり低いと聞いたことがある。実際アカデミアでの夢兆の実践実習でも、成功していた級友は数えるほどしかいなかった。自分とて、何度目かの試みでようやく成功したのだが、それでも気が遠くなりかけて、講師からストップがかかったほどであった。それなのに姪は、「封印してくれ」などと言っている。封印が必要なほど、彼女は夢兆法術の行使に躊躇がないということなのだろうか。一体今までどのくらい、その力を使ったことがあるのだろう。
「ハナ……、おまえ、夢兆を使うたこと、あるんか」
 姪はうなずいた。
「何回くらい」
「……6回か、な、7回、くらい」
 うつむいたまま姪がそう答えた。10回は使ったな、と彼は思った。
「いつも、成功するか……? どこの誰の夢に行ってるかは知らんが」
「うん……」
「失敗したことは」
「……ない、と思う」
 彼は息をついた。おそらく10回以上夢兆法術を行使していながら、失敗したことがない。これがどれほど稀なことで、また恐ろしいことであるか、姪はそのことに気がついていないのだ。
「失敗なしで6回も7回も夢兆をやったら……、そりゃ気力も無うなるわ。悪いことは言わん。やめろ」
「やめたい」
 姪が口の中でつぶやいた。
「やめたいんやったら、やめられる」
「……」
 床の一点をじっと凝視している姪を、彼はもう一度覗き込んだ。
「おい、おっちゃんには言えんことか」
 姪は何も答えなかった。
「大体想像つくぞ。インフォスに行ってるな」
 叔父の言葉に、彼女の肩がびくりと震えた。
「身共、女々しいじゃろ。笑うがよい」
「別に、可笑しいことやない」
 少しだけ姪から離れ、そこに腰を下ろしなおして彼は空を見た。
 空の上にもまだ空がある。
 インフォスに降りていた頃、その地上から帰ってきて、この天界から空を見るたびにそう思っていた。一体、あのインフォスのひとたちが見ている空はどこにあるのだろう、どれが本当の空なのだろう。もしかすると、どこの空も本当の空で、自分が思っていた空など、その中のただのひとつに過ぎないのか。
 
『空だけは変わらないわね、100年経っても……』
 そう言っていた。
『空さえも変わっていたら、私は、生きてこられなかったかもしれないわ』
 そうも言っていた。
 言っていたが、彼女は自分がそう言ったことも、忘れ去っているだろう。ただひとつの事実は、彼女の前には自分は「いなかった」が、自分は彼女を覚えているということだ。ただそれだけで、それだから何がどうしたということは、もう今更ないはずなのだ。

 やおら、姪が言った。
「ベリーは……、感情に理由はないと思うか? 強い気持ちがあれば、行動をとめられぬのは、当然じゃと思う?」
 視線を下に戻し、姪を見やると、姪は大きな眼で彼を見上げるようにしてみつめていた。
「理由がないと思いたいときには、ひとは『感情に理由はない』と言う。それが『自制』ができんことの理由になるとタカをくくって自分を甘やかせられるからな」
 言い放つように凛然とそう言った彼を、姪は身じろぎもせずにじっとみつめていた。
「感情と行動は違う。感情のせいにしたいなら、好きなだけ自分の頭の中で喚いたらええ。ただな、他人に向けて何か行動を起こすことは、『感情に理由がない』ことのせいにはならんぞ。他の奴がどう考えるかは知らんがな、おっちゃんは、行動には理由があって然るべきで、理由のない行動なんか平気でしてる奴が他人を幸せにできるはずはないと思うてる。感情に理由がないなんざ、行動の理由を自分で省みることのできん奴の常套句や。そんなんは、そいつのただの――」
 そこまで言って、彼は口をつぐんだ。眼の前で、姪が歯を食いしばって耐えているように見えたからだった。大きな眼から涙がこぼれ落ちそうになっている。その眼で、彼をじっと凝視して、動かすことができなくなっているかのようだった。
「悪かった、おっちゃんが悪かった、言いすぎた……」
 思わずそう発すると、彼は姪の両頬を、自分の両の掌で押さえた。いびつになった姪の頬を、涙がひとつ転がり落ちた。
「悪かった……」
 自分の手が姪の涙を搾りだしてしまったかのように思えて、彼は反射的に掌を姪の頬から離した。
「違う、ベリー、違う……」
 大きくひとつまばたきをして、姪が言った。涙がもうひとつこぼれた。
「身共も、ベリーが言うように、そう思うている。身共は、役に立ちたいとか思いながら、本当は、自分を思い出してほしゅうて、夢兆の力を使うただけ。自分が記憶を操作したのに。ベリーは、我慢しておるのじゃろう? 感情に理由はない、とかいうのを許さずに、自分で自分をずっと律しておるのじゃろう、じゃから身共を見て腹が立つのじゃろう、身共、ようわかる。わかっている。それは、わかっている」
「……」
 しばらくそのまま、身じろぎもせずにふたりは黙していた。
 においのない風が吹いてきて、金蓮花の葉をひっくり返した。
 叔父がつぶやいた。
「レイヴに、何があった……」
 姪が、ひとつ息を呑んでから答えた。
「嫁御を娶る。多分、近いうちに……」
「……もう、インフォスを見ることは、すっぱりやめろ」
「レイヴに約束したのじゃ。人間にならぬ代わりに、ずっとレイヴを守護する、嫁御もお子も守護してさしあげる、そう約束した」
 叔父は俄かに眉を上げ、姪に向き直ると大きな声で何事か言おうとした。が、すぐに声を飲み込むように一度口を閉じ、それから言い聞かせるように姪に言った。
「そんな約束、反古にしてしまえ」
「反古? 嫌じゃ。反古にする約束なら、身共の方から言うたりせぬ」
「おまえは……、これからレイヴが死ぬまでずーっと一生インフォス見てるつもりか。嫁さんも子どもも守る? 阿呆か、孫も曾孫も見るつもりか、そんなことして何になる!」
「あ……、阿呆はベリーじゃ。好きな相手への手向けが長いことに渡るだけじゃ、それの何が悪い!」
 俄かに毅然とそう言い放った姪に、彼は眉根を寄せて顔を歪めた。
「手向けて、おまえ……」
 喉から押し出すようにそう言った叔父に、姪は小さくうなずいた。そして、まっすぐに叔父の眼を見て言ったのだった。
「ベリー、すまぬ」
 叔父は、彼女の眼を受け止めるように、しかし少し驚いたように見返した。
「……何が」
「……身共のすることで、思い出さんでおろうとしておったことを、思い出してしまうのではないか?」
 しばらくの間、彼は姪をじっとみつめていたが、やがて呆れたような顔つきで言った。
「何のことやら」
「ナーサディアの」
 叔父は眼を細めて笑った。
「生憎と、おっちゃんは、それほどセンチメンタルやないもんで」
 姪はなおもじっと彼を見ていた。
「嘘じゃ。身共はわごりょに育てられたからわかる」
「適当に言うな。過ぎたことに固執していられるか」
 そう言った彼の顔は、まるで凝り固まってしまったかのように無表情だった。
「固執……、固執か。いつまでも切り捨てられんでおるのは、身共だけか」
 うつむき、そして、じっと床の一点を彼女はみつめた。叔父がその横顔を眺めていると、ゆっくりと彼女は顔を上げる。そして言った。
「ベリー、あのな、聞いてくれるか?」
「ああ」
 即座に彼はそう答えた。
「身共な……、『夢の女』になろうとしておったのじゃ、多分。今日まで自覚はなかったけれども」
「夢の女?」
 彼が訊き返すと、姪は子どものように小さくうなずいた。
「生身でレイヴにお会いできぬけど、夢でお会いして……、レイヴが、夢の中の身共を忘れずにおってくださったらよいと……。いつか会ったことがある女が、夢の中にいつも出てきたら、レ、レイヴも気にしてくださるじゃろうと、多分、そんなことを考えておったのじゃ、身共」
 そこまで言うと、彼女は口をつぐみ、うつむいてしまった。叔父は彼女の落ちた肩に右腕をまわし、軽く掴むようにして言った。
「夢の中の女は、手に入らん。手が届かん。その分、レイヴの中で美化される。生身の女より、ずっとずっと美化される……かもしれんな。それが昔どっかで会うたことがあるような女やったら、なおさらにな」
 姪は顔を上げようとしなかった。構わずに、彼はその耳元で言った。
「邪魔してやりたかったか、レイヴの結婚を。レイヴが他の女を好きになるのを」
「……」
 姪の肩が震えていた。その肩を、彼は更に強く掴んで言った。
「しっかりせえ。おまえは、こんなことで自分を見失うほど弱うない。おっちゃんは、そんなふうに育ててないし、多分おまえはそんなふうに育ってない。誰にだって嫉妬くらいある。そんなもんに足をすくわれつづけるな、しっかりせんか!」
 それは、ほとんど怒号に近かった。姪の肩が、一瞬びくりと震えた。が、しばらくすると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……レイヴの結婚の邪魔をしたかった。そうじゃ、そのとおりじゃ。じゃけど身共は……、たとえレイヴが結婚しても、他の女を好きになろうとも、その方も一緒に、一緒に守護しようと、それは嘘ではない。レイヴの結婚を、ご縁談を壊せずとも、そんなことは関係ない、レイヴが身共を忘れておることが問題なだけで」
 挑むようにそう告げた姪に、叔父は黙って彼女を見ているだけだった。
「好きになった相手の幸せを願うのがひととして当然の情ならば、身共とてそんな情があると自分で今思うている。じゃがな、そんなのは、本当に本当は綺麗事じゃ。忘れられた自分という身分を思い出すたびに、一体誰の幸せを素直に願える? ベリーは願えるか? 『夢の女』になって、レイヴの頭の片隅にでも身共の指定席があれば、レイヴがこの先どんな女を何人好きになろうが、身共は守ってあげられる、幸せを願うてあげられる、素直にな」
「くだらん」
 叔父が切り捨てるように言った。彼女は眼を見開いて、凍ったように叔父を見上げた。
「そうやって、『指定席』からなら守ってやる、っちゅう、その魂胆が気に入らん。おまえはそうやって、この先レイヴが好きになる女を、『指定席』から見下ろしていきたいだけか。レイヴを守るっちゅうのと引き換えに、その『指定席』とやらが手に入って当然やと思うてるのか知らんが――、結局おまえは自分を慰めたいだけか。生身の女と違うて、レイヴと喧嘩することも罵り合うことも別れることもないからな。綺麗な『思い出の女』になって、生身の女らを見下ろして守ったる、『神棚』に祀られてるのんとおんなじや。そんなんで自分を納得させるなんざ、つまらん女や、そんなんは」
 低い声で彼はそう告げた。彼を見上げていた姪は、凍ったままの表情で、彼の腕を払いのけようと身体をずらした。その姪の肩をいっそう強く掴み、叔父は姪が逃げられないようにして言った。
「おい、聞け。誰がどんなふうに天使を賞賛しようが、天使と人間の恋だの愛だのを綺麗に言おうが知ったことやないがな、あなたの世界は危機に瀕しています、あなたは勇者です、私があなたを守護します、そんな状態で『好き』だの何だの、……ハッ、何をどう考えたら、そんなんが本当の『恋愛』やなんて思えるんや。異常事態の中での、突発的な恋愛ごっこにすぎんことくらい、ちょっと考えたらわかろうが。普通の人間同士の恋愛の、こまごました泥臭さや格好悪さや嫌な部分、そんなん全部とっぱらった、お綺麗で神々しい、おとぎ話みたいな……、それに酔うてるだけや……。種族が違うから一緒になれんかった、そんな『悲しみ』に酔うてるだけや、おぞ気がたつわ」
 今度こそ、姪は叔父の腕を強く振り払った。そして立ち上がり、大きく開いたまま固まった眼で叔父を凝視した。
「ずっと、そんなふうに思うて、おったのか? ベリーは、ずっと、そんな、『おとぎ話』とか『酔うておる』だけ、とか……」
「ああ」
 叔父が表情を変えずに即答した。
 姪の顔が大きく歪んだ。
「ナーサディアとのことも、そんなふうにベリーは思うておるのか?」
「……ああ」
 彼の答えに、姪は大きく息を吸い込むように呼吸した。唇が震えた。そして声高に言った。
「ひとの気持ちを何と……? ナーサディアの望みに対しても、そんなふうに本当は陰で笑うておったのか?」
 肩で息をしながら姪は最後に叫んだ。
「わごりょには、ひとの愛情を論ずる資格などない!」

 また夢兆の法術を使った。
 これが最後、今日が最後、そう思いながら、今まで幾夜彼の夢の中にまで歩いていったことだろう。
 だが今は、もう後ろ暗さを前ほどは感じなくなっていた。何が正しくて、何をすべきで、何が悪くて何を自制すべきなのか、それらすべて、もうどうでもよいと思った。
 首筋のあたりに何かが触れて、そして通り過ぎていった。見上げると白い花びらのようなものがどこからか漂ってきて、それを眼で追うと、いつの間にか消えて見えなくなってしまう。だが風は、どこからも吹いてはいないのだ。
 気に入りの白い装束を着て、素足のままでいつも彼の姿を探した。この白い装束が、一番自分に似合っているような気がしたし、一番自分が綺麗に見えるような気がしていた。だから彼に会いに夢兆を使うとき、いつもこれが最後と覚悟をし、自分が一番綺麗に見えると思う格好で歩いていった。
 見回すと一本の木があって、他に何も目印もないのでそこへ向かって歩いていった。かすかに人影のようなものが木にもたれて座り込んでいるのが見えて、彼女は思わず顔を輝かせて近づいていく。
 そこにいたのはやはりレイヴで、彼女からは彼の精悍な横顔が見えていた。ただ彼は、近づいてくる彼女には気づいておらず、じっとどこか遠くの前方を眺めているような眼をしているのだった。
 彼の視線の前方に自分の眼を辿らせ、そこで彼女はその場に立ち尽くした。
 レイヴがもうひとりいるのだ。
 そして、そのもうひとりのレイヴの前に、女の姿があった。
 もうひとりの、彼女自身の姿が。
 呆然と彼女は立ち尽くし、その「もうひとりの彼と彼女」をみつめた。
 ふたりはまるで、自分たちを見ている「本当の自分たち」の姿が眼に入っていないように、ふたりだけで話したり、歩いたり、笑いあったりしているのだった。
 それは、「ふたりの生活」であった。
 食事をしたり、野菜をつくったり、楽しそうに睦みあっているふたりの姿を見て、彼女は何故か懐かしくて、思わず泣き笑いのような顔をした。こんな日々など送ったことはただの一度とてなかったはずなのに、それはとても懐かしい光景だった。いつかこっそりと自分が思い描いた彼との生活とそっくり同じ光景だったのだ。
 どれくらいの時間そうしていただろう。ふたりの長い長い人生は、終わることなく、そして決して老いることなく、やわらかで楽しく、甘やかに滔滔とつづいていく。
 こんな当たり前の生活を思い描いていたのだ。
 彼女は折節に木の方へ近づいていき、ふたりをじっと眺めているレイヴを見た。
 レイヴは夢でも見ているようなやさしい眼をして、ふたりから視線を逸らそうとしないのだった。まるで、眼を開けたまま眠ってでもいるかのように。
「レイヴ……」
 彼女が声をかけると、彼は少しだけ彼女の方を顧みて、そしてその夢見心地のような眼のままで笑んだ。
「俺は、あんな生活を、想像していたんだ……」
 小さくつぶやくようにそう言ったレイヴに、彼女は彼の隣に膝をつき、前方のふたりを眺めながらうなずいた。
 レイヴが眼を閉じた。そしてまた眼を開き、ふたりの様子に眼を細めた。
「もう、来てくれないのかと思った……」
 彼がつぶやいた。そして、言った。
「見てごらん、子どもが生まれるんだ……」
 前方の「もうひとりの彼女」はいつしか大きなお腹を抱えていて、それを見ていた彼女は少しだけ恥ずかしそうに笑い、それでも前方をじっと眺めていた。
 幸せそうなふたりの様子に、彼女は最初、胸を高鳴らせて眺めていた。想像していた夢のとおりの生活が眼の前にある。そして、彼も同じような生活を望み、想像していたという。
 やはりふたりは、生まれた世界さえ同じなら、きっとこの眼の前のふたりのようになっていたはずなのだ。
 そう思った。そして、何故かそのことを、あまり「悲しい」とは思わなかった。生身では結ばれずとも、精神的なところで自分たちは深く結びついていたのだ、同じものを求めていたのだ。そんなふうに思い、それは生身で結びつくことよりもっと清浄で、そして誇り高く、俗世の多くのものを薙ぎ倒していけるほどの力を持っていることのようにすら感じられたのだ。
 決して揺らぐことのない、色褪せない、深い結びつきだと。
 それは、現世で結ばれないという寂しさをも凌ぐほどの、甘い甘い蜜の味を含んでいて、彼女は頭の片隅で、その蜜の味に酔いしれた。どんな女も、彼とこれほど結びつけはすまい、どんな女にも自分は勝っているのだと、これからもきっとそうだと。
 レイヴの横顔を見ると、彼も今まで見たことのある彼のどんな表情よりもやさしい、本当に楽しい夢を見ているような、そんな顔をして、ふたりを眺めている。
 甘い蜜で蕩けたまま、彼女はまた前方のふたりを見た。そして気づいた。さっきから相当時間が経っているはずなのに、まだ赤ん坊は生まれていなかった。さきほどと同じように、ただ幸せそうなふたりの語らいが延々と続いていくだけで、そしてそこにはまるで、「幸せ」以外の何もないようにすら、見えた。
 やおら、彼女はもう一度隣のレイヴを見た。さっきと同じだ。彼もまた、夢を見ている表情のまま、「幸せ」を眺めている表情のまま、まるでその顔は「夢の幸せ」という石膏で固められてしまったかのように、「表情」がなかった。
 突然、彼女は背筋に冷たいものを感じた。
 叔父の言が脳裏をよぎった。

 嫌なもの全部を取り払ったおとぎ話

 慄然として、彼女は前方を見た。赤ん坊は生まれていなかった。まるでときがそこで止まってしまったかのように、ぐるぐると同じところを巡っているのだった。そしてそこには、どんな苦しみも痛みも悲しみも、そして醜さも煩わしさも、欠片も存在していないのだ。ただ「幸せ」しかそこにはなく、その表情しか彼らにはない。
 決してそんな綺麗な生活だけを思い描いていたわけではない。彼女はそう思った。だが、「幸せな生活」を夢見る者が、どうやって「苦しみ」や「悲しみ」を想像し、盛り込むことができるだろう。誰が望んでそれを登場させるだろう。幸せは望むものだが、苦しみや悲しみを望む者などいないのだ。それらは、望んで手に入れるものではなく、降りかかってきたときに、どうやって乗り越えていくかを考え、そこで初めて自分たちが苦しみ、そして昇華させていくものなのだ。
 そしてそれは、夢のふたりには決して手に入らない、生身のふたりにしか出会うことができないものなのだ。それが、「生命」の血であり、肉であり、あとにつづく生命につながっていくのだ。
 だから、夢の赤ん坊は、生まれない……。
 夢のふたりには、「幸せ」の表皮はあっても、血や肉がないから、赤ん坊に食べさせてあげられるものがないのだ……。
 きっと生まれることができないのだ。レイヴも自分も、そこに至る生活を夢見て想像しているだけで、子どもができたときに感じるであろう喜びや不安すら、今は飛び越えてしまい、自分たちが過去に夢見たことをなぞっているだけなのだから。そこには、「子ども」への愛情も何も育っていないのだ。ただ「ふたり」が存在しているだけで、子どもはふたりの夢の生活を彩る付属物にしかすぎない。だから子どもは生まれられないのだ。
 「人間」と「天使」として出会ったふたりの気持ちの通い合いや、乗り越えてきたことが、「無」であるとか、無価値であるとか、そういうことではないのだ。決してそうだとは思わない。だから、叔父が言ったように「人間と天使の恋愛はおとぎ話」であるとは思わない。何故ならば、そこには「生きている人間」と「生きている天使」の生の情感が通い合っていたからで、その「情感」すら無価値だと言うならば、一体この世の何が「価値あるもの」だと言えるのだろう? 
 彼女はそう思った。だから、自分たちが出会ったことが無価値であるとは思わなかった。ただそこで、一本の終止線を……、はっきりとした境界線を、どこで、どう引くかが問題だったのだ。問題なのは、出会ったことの価値や、恋愛の正否などではなかったのだ。それに理由を求めることではなく、出会って通じた情感をどう封じ込めるか、どう眠らせるか、何のために、誰のために、それが問題だったのだ。
 そうだったのだ……。
 彼女はうつむいて、前方から眼を逸らした。もうふたりを見ることはできなかった。
「レイヴ……」
 彼の名前を呼んだ。彼は最初と同じように、前方を眺めながら、まるで前方の「もうひとりの自分」にすべてを預けてしまったような、抜け殻のような姿に見えた。彼女は思わず大声で叫んだ。
「レイヴ、これは夢じゃ! ただの夢じゃ! わごりょと共に生きるのは、身共ではない! 眼を覚ますのじゃ、レイヴ!」
 彼の肩を掴んで大きく揺さぶった。これはレイヴではない、こんな抜け殻のようなレイヴは、レイヴではない。誰がこんなふうにしてしまったのか、誰が終止線を勝手に踏み越えてやってきてしまったのか。
 レイヴが覚醒したように彼女を見た。
 「夢のふたり」が消えた。
「レイヴ、夢に食われるな。楽しい夢に身を浸すな、よいか、レイヴは生きておるのじゃ、これからも生きてゆくのじゃよ。わごりょを愛する生身の女がきっといる。もう傍におるかもしれぬ。レイヴと一緒に生きて、レイヴが死ぬまで傍におるのは、夢の恋人ではない、生身の家族じゃよ、その家族をレイヴはこれからいくらでもつくれるのじゃよ、つくるのじゃ。心の拠り所だけでのうて、その家族はレイヴが悲しいときや辛いときも本当に傍にいてくれる。夢は、夢じゃ……、そうじゃろ、レイヴ」
 じっとレイヴは彼女を凝視した。
「夢……?」
 彼女はうなずいた。
「……そうじゃ、身共もレイヴと同じ夢を見ていた。それは、決して消えることはない。でも……、それは、絶対に前には進めぬ夢なのじゃよ、レイヴの足枷にも檻にも……なってしまう。その夢から出て、レイヴはもっと広いところに、出なくてはいけないよ……」
 そう言って、彼女は彼に向かって笑った。
 つもりだった。
 そのとき、大粒の涙がぽろぽろと彼女の眼から落ちた。
 彼女は思わず息を呑み、口許を抑え、立ち上がって駆け出そうとした。
「夢なのか?」
 背後でレイヴが声高に言った。彼女の脚が止まった。
「君は……、全部夢だと、夢で終わりだと言うのか? どうして夢だけで終わらせずに、そこから実現させることができないんだ? 君と俺は、どういう関係だったんだ、何が俺たちの邪魔をしたんだ……?」
 レイヴが近づいてくる気配がした。無風状態の中で、彼が掻き分けてくる空気だけがはっきりと感じられた。
「何も邪魔はしておらぬよ。身共が、人間でないという、それだけのことで」
「人間で、ない……。だったら、君は、何だと言うんだ」
 レイヴが前にやってきて、彼女の顔を覗き込んだ。
「どこからどう見ても、人間だ。顔も、身体も、それに、人間でない相手と、俺がどこでどう知り合って、あんな夢を見るまでに――」
 ――愛するようになったのか。
 言葉を飲み込んで、レイヴは彼女をみつめた。見覚えがある、待っていたことがある。それなのに、どうしてずっと忘れていたのだろう、どうして彼女との記憶が取り出せないのだろう。
 彼は歯噛みした。
「君の名前を、思い出せないんだ」
 そうして、苦悶するような顔で彼女の眼から視線を逸らさなかった。
「教えてくれ、君の名前を。最初の音だけでもいい、そうしたら、きっとすぐに思い出す。不思議な響きの名前だった、君の名前は聞いたことのない名前で、その意味も教えてもらったんだ、絶対そうだ。そこまでわかるのに、どうして俺は君の名前を思い出せないんだ!?」
 自らに向かって怒りをぶつけるように、彼は言った。
「……身共は、人間でのうて、鳥、そう、鳥じゃ。人間の姿になって、わごりょと会うて、わごりょを好きになってしもうた。でも、人間と鳥は結ばれぬよな。じゃから……、鳥は鳥で、名前はないよ……」
「嘘だ……」
「嘘ではない」
「ならば、何故おまえは泣く」
 じっとみつめてくるレイヴの言に、彼女は自分がまた涙を流していることに気がついた。
「どうやって、この場から立ち去ればよいか、自分でわからぬからじゃ」
 彼女の割れた声が響いた。
「おまえが立ち去れば、俺はもうおまえとは会えないのか」
 彼女を覗き込んでいたレイヴの顔が少し離れたかと思うと、彼はその手で彼女を抱きしめようとした。
 彼は息を呑んだ。そして、うめくように息を吐いた。
 感覚がない。確かに彼女の身体に触れているのはわかるのに、ほとんどその実感が感じられないほど、かすかな感触しかなかった。
「おまえが帰ってしまうと、もう、終わりなのか。何もかも……」
 もう一度レイヴが低く尋ねた。
「うん……、そうじゃ……」
 小さくうなずいた彼女の声はかすれていた。
「俺はいつも、おまえを待っていた。名前も教えてもらえない。なのに、夢すら見るなと言うのか……。俺には何も、許されていないのか……」
 レイヴは彼女を抱いている手に力を込めた。そして苦しげな顔をして言った。
「鳥なら鳥でもいい、こんな空気みたいな身体でなく、あたたかいおまえの身体を抱いたことがある。今の俺は、それすら望んではいけないか? おまえを待ち、おまえは帰り、すべておまえの意思のままだ。俺は、何だったら許されているんだ、俺もおまえと同じ鳥だったらよかったのか? そうしたら、名前くらいは教えてもらえたか?」
「違うよ、違う、レイヴ! 鳥になぞならないで。レイヴはそのまま人間のままのレイヴでずっといて! 人間はそのまま、すばらしいままでおらねばダメじゃ! 鳥には鳥として生まれたものが宿命をまっとうしよう、人間には人間の生がある!」
 叫ぶようにそう言った彼女を、レイヴがまた力を込めて抱いた。
「あたたかい……」
 レイヴがつぶやいた。
「おまえのにおいだ……」
 彼女の前髪を掻き揚げ、額に顔を寄せて彼は言った。
 そして、彼女に言った。
「まだ消えてくれるな……」
 言い聞かせるようにそう言うと、彼女はじっと彼を見たまま、何も言わなかった。 そしてその胸に顔を埋めるようにして言った。
「会いたかった」
 万感の思いがそこにこもっていた。
 彼女は彼の頭をしっかりと強く抱いた。

 リリィの先導で部屋に入った彼は、足早にベッドの傍らに歩み寄った。
「ベリーランドさま……」
 枕元で様子を見ていたローザが、不安そうに彼を見上げていた。
 ベッドに横たわっている彼の姪は、眼を閉じ、両手を組んだ状態でぴくりとも動かなかった。
 閉じられている瞼を押し開かせ、瞳孔を見る。
 力は尽きてはいないが、それも今だけかもしれない――。
「お呼びしても、起きてくださいません。ハナカズラさま、どうして――」
 ローザの嘆きに、彼は表情を変えずにぽつりと答えた。
「気力を消耗して、昏睡状態になってる。眼が覚めるかどうかは、もう本人次第でしかない」
「法術での手立てはないんですか、お薬や食べ物とか――」
「ない」
 即座にそう答え、彼は妖精たちを見てつづけた。
「すまんが、しばらくハナを見てやってくれるか。出かけてくる」
「ベリーランドさま、どこへ行くんですか!?」
 部屋を出て行く彼に、リリィが慌てて尋ねた。
「何かあったら、メタトロンさまのところに言伝してくれ!」
 それだけ言うと、彼は淀みない足取りでラキア宮をあとにした。

 大天使レミエルの座すプレア大聖堂の最深部に、「潔斎所」がある。
 ここで禊をし、衣服を改めれば、更にその奥の「祈祷所」に進むことができる。
 巫役の天使が常駐しているのは潔斎所までで、そこから先は祈祷を申し込んだ天使がひとりで入っていくことになっている。
 この日、ベリーランドという男天使が飛び込みで祈祷を申請してきたので、潔斎所の巫役天使は急いで祈祷所の鍵を開けた。ベリーランドは、アルカヤという地上界の守護を遂行中の天使であったから、彼がその守護にかかわる祈祷を行うためにやってきたのだとその巫役天使は考え、彼の険しい顔つきから、きっとアルカヤで何か重大な事件でも起こったのだ、手立てがなく、母であり父なる神に最後には祈りを捧げに来たのだ、そう解釈した。だが、ベリーランドが今までにこの祈祷所にまでやってきたことがあったかというと、その覚えはなかったのだった。
 純白のローブに着替え、ただひとり薄暗い祈祷所に入ったベリーランドは「神体」の前に跪き、深々と一礼した。
 この祈祷所には、何もない。あるのはただ、「神体」のみで、その姿すら見えない。ただの闇の中で天使の姿を浮かび上がらせるのは、たったひとつの蝋燭の灯り、それだけだった。
 ベリーランドはそこで膝をついて座り、神体があると言われている前方をみつめて言った。
「神よ、八重なる雲垣の中にましますところ、私の声に耳をお傾けください」
 凛然とそう告げて、彼は身じろぎもせずにつづけた。
「私は地上界の守護を仰せつかっております天使のひとりです。ですが、本日はそれと関係なく、個人的なお願いのために参りましたことをお詫びいたします。地上界のことなれば、私以外にも心を痛め、お願いに参ります天使はおりますでしょう、ですが、私の姪のことを神にお願いするならば、それは私以外にしてやれる者がいないのです」
 ひとつ彼は息をついた。そしてまたよく通る声で言った。
「神はご存知であらせられるでしょう。私の姪は、人間を愛し、そのために己の気力を使い果たすという愚かなことをいたしました。神のお眼には、いかように映ったでしょうか。愚かな娘とお嘆きになりましたでしょうか。お怒りになりましたでしょうか。もしそうであらせられるならば、神のご意向は、私の姪をこのまま目覚めさせず、また何かの罰をお与えになるということでしょうか。ですが神よ、お許しください。ひとの情というものは、天使にも自制が利かぬものなのです。これは、インフォスにて人間と接し、ひとを愛したことのある私からも、申し上げたいことなのです。私の姪の行為は愚かな行為とおうつりにもなりましょうが、ひとを愛することで贖罪が必要だと思し召すならば、その義務はどうか私にお与えください。姪は自分の気持ちに苦しみながらも正直に行動し、そしてまた私が姪に申したことで苦しみ、またここで罰を受けようとしています。しかし私とて、姪と同じ立場であり、ただ気力を使い果たす行動に出なかっただけなのです。罰を受けるのは、私でもよいと神がご裁断くださるならば、どうか姪の罪業も贖罪も、すべて私に課してください」
 そう言って、一心に彼は祈った。
「もしも私に姪の贖罪を引き受けさせていただけるのでしたら、お許しください、もうひとつお願いがございます。私は口を塞がれようとも、身体が動かなくなろうとも構いません。ただ、姪は、私が申したことに、ひどく傷ついていると思うのです。私は人間と天使の交わす情愛はおとぎ話だと申し、姪に向かい、おまえはそれに酔っているだけだとも申しました。私の考えが愚かだったのです。私は私の言に拠り、姪が夢兆法術の力を使うことを止め、想いを交わした人間の許へ今後は逢いにいかなくなるだろうと考えました。また、姪がそうしてくれるよう望んでいた私の気持ちが、そう言わせたのであるとも思っています。本心とそうでないものを織り交ぜて申した私の言は、姪を却ってかきたてただけでありました。私にも責任があるのです。私への反発心とともに、私の言が決して正しくはないことを確かめたい、そんな気持ちで姪は動いたのでしょう。そして本心は、叔父である私の物言いに傷つき、私に失望しているはずです。神よ、私は贖罪により、もしも口がきけなくなったとしたら、私は姪の傷を言葉によって癒すことがきっとできません。どうかお願いです、いかなるご慈悲でも、少しでも姪にお与えくださいますならば、神のお心で、姪の傷をお癒しください。ひととの情愛を私に踏みにじられた形で終わらずともよきように、神のお心で、神のご意向のままに、何かの形で姪の傷を……お癒しくださいますよう……」

 ――メリッサ
 
 誰かが呼ぶ声がする。

 どなたですか。

 彼女がそう返事をしようとしても、声が出ない。起き上がろうとしても、身体が動かない。ただ、眼だけが暗闇の中をさまよい、声がしたと思った方に泳がせる。
 寝台の上で横たわったまま、メリッサは頭上に浮かび上がる人影を見た。
 息を呑んだ。
 白い大きな羽を背中に持ち、白い衣服をまとい、そして黒い髪の毛を揺らし、メリッサを見下ろしている。女のようであった。
 眼を見開いたまま、メリッサは硬直する身体を横たえてその女をじっとみつめた。

 ――メリッサ
    よう聞くがよい
    身共はレイヴ・ヴィンセルラスを守護する者じゃ
    身共は 今後 彼の者を支える者をも守護していく旨 彼の者に伝えてある

 滑らかに響くその声は、一体どこから聞こえているのか、まるで天上から降ってでもいるかのような不思議な音になり、メリッサの耳に流れ込んだ。

 ――メリッサよ
    汝 レイヴ・ヴィンセルラスの盾となり懐剣となり 表となり裏となり
    支えてゆく心積もりがあるか?

 メリッサは動かない頭を無意識に動かそうとし、声にならない声を上げて言った。

 あります……。
 レイヴさまさえご承諾くださるなら、わたくしはいつでもお力になりたいと、願っています……。

 ――レイヴが承諾せぬ場合は、いかがするのじゃ?

 翼のある女が静かに尋ねた。
 メリッサは息を呑み、そしてまた声にならない声を出そうした。そのとき、声がはっきりと出た。

「わたくしは、レイヴさまが好きです。レイヴさまがわたくしをお望みくださらずとも、わたくしはレイヴさまが好きです。レイヴさまが他の方をお選びにならない限り、レイヴさまがわたくしを遠ざけようとなさらずいてくださる限り、わたくしはレイヴさまのおそばにいさせていただけるように、自分がよいと思うことをします。レイヴさまがわたくしの方を見てくださるときまで、諦めません。わたくしは、レイヴさまをお慕いしています」

 女が黙ってメリッサを見た。
 そして、やおらこう言った。

 ――よい
    その心意気 認めよう
    身共は汝を祝福する
    よき娘よ 幸せに暮らすがよい
    生きることを恐れるな 身共が汝を祝福する

「天使さま、あなたは天使さまですね。どうしてわたくしを祝福してくださるのですか? レイヴさまのご人徳に、何故わたくしがあずかれるのでしょう」
 メリッサが希うように尋ねた。女は答えた。

 ――身共と同じ男に惚れた者への手向けじゃ
    受け取れ

「えっ? 天使さま、お待ちください。天使さま――」

 メリッサの呼びかけには応じず、かすかに笑みを浮かべて女は消えた。

 彼が階段を上がっていくと、大天使メタトロンが入れ違いに降りてくるのが見えた。
「おや、綺麗な花ですねぇ。ハナカズラのお見舞いですか」
 彼の手の中の白い芙蓉の花を見ると、メタトロンは眼を細めてそう言った。
「何だかその花、ハナカズラの白い着物を思い出しますよ。真ん中の赤いところが、ハナカズラの唇みたいでね、そこだけポッと赤いんですよね」
 黙ったままメタトロンを見た彼に、メタトロンは少しいぶかしそうに尋ねた。
「少しお元気がないようですね」
「……ハナが、メタトロンさまに何か?」
「いいえ。あなたのことですよ。何か気になることでもありますか? 昏睡していたといっても、ハナカズラには何も後遺症は残っていないようですよ、運のいい子です。これを幸いとして、もう激務には気をつけていただかないと」
「そうですね」
 ぼんやりとした笑みを浮かべ、どこか他人事のように彼はメタトロンに答えた。
「本当に、あなた、ちょっと変ですよ。嬉しくないんですか。それとも、看病疲れですか?」
「まあ、そうかもしれませんね」
 それ以上、メタトロンは何も尋ねなかった。代わりに最後にこう言った。
「何かあれば、ひとりで抱えなさんなよ。私のところにいらっしゃい。喝を入れてさしあげます」
 大天使はそう言って、彼の肩をぽんとひとつ叩き、供も連れずに衣擦れの音をさせて階段を降りて行った。
 その背中を見送って、彼は扉をノックした。小さな声が聞こえ、彼は部屋の中に入って行った。
「花瓶はあったか。空いてるやつ」
 言いながらベッドを見やる。寝巻きの姪が横たわり、彼を見上げて文机の方を指差した。
「あまり大きゅうないけど、空いておる瓶ならある」
 彼は姪が指差す方を見やり、そしてすぐに肩をすくめるようにしてまた姪を見た。
「小さいな。あとで下から持ってくる」
 言いながら芙蓉の大きな花のついた枝を姪に見せる。姪は手を伸ばしてそれを受け取ろうとするので、彼は姪の掛け布団の上に置くようにして手渡した。
 少しだけ起き上がり、芙蓉の花を覗き込んでその香りを嗅ぐ姪の顔色は、ここ3日の間に随分赤みが差して、見やすくなった。
 3日前、祈祷所から帰還すると、まさにちょうどそのときリリィがラキア宮から飛び出してくるのとぶつかった。リリィは彼女らしからぬ息せき切った様子で叫ぶように言った。
 早く来てください、ハナカズラさまが眼を覚ましたんです。
 リリィを追い抜くほどの速さで宮の二階に駆け上がった彼は、既に眼を覚ましていた姪の真っ青な顔を見て息を呑んだ。叔父の姿を見て、彼女は言った。
 ベリー、全部終わった、もう大丈夫、終わらせた……。
 それから3日経った。
 あれから込み入った話を、姪も彼も言い出そうとしなかった。
 ただ、メタトロンが遣してくれた医官天使の診断に拠ると、姪には後遺症が見られない、今後も安心してよい、ということだった。非常に稀なことであると、医官天使は驚きながらも祝福するように笑みを浮かべ、そして安定剤を置いて帰っていった。
「ベリー、あのな、身共、今朝、妙な夢を見たのじゃ」
 不意に顔を上げ、姪がこちらを見て言ったのがわかった。
「夢? 何や?」
「すごく強い光が見えて、その中から声がするのじゃ。それから、身共、名前を呼ばれて……、叔父に、ベリーランドに伝えよと」
「何を……?」
「『願いは受け取った。贖罪は誰にも課さぬ』」
 姪の言葉に、彼はその場で楔を打ち込まれたかのように硬直した。
「ほんまに、そう言われたのか?」
 姪がうなずいた。
「そのお声は、『ベリーランドに直接言えば、彼の者は自分の望みが見せた幻と受け取り、決して信じようとせぬことが見えている。だから、姪であるおまえに申し伝える』と……」
 そう言った姪の顔をじっとみつめ、それから何か見えないものに拝礼するかのように、叔父はうなだれた。
「この夢に、ベリーには心当たりがあるのか……?」
「ああ」
 短くそう答え、彼はベッドの傍らで姪をじっと見やって言った。
「大分顔色がようなった。もう一寝入りしたらええ」
 姪の手から芙蓉の枝を取り、彼は部屋の扉に向かった。
「ベリー、ひとつ訊いてよい?」
 うしろから声をかけられ、彼は立ち止まってベッドの方を見た。
「この前、ベリーが言うた。嫉妬は誰にでもあると。ベリーも、嫉妬したことが、ある?」
 大きな黒い眼で、じっと姪が彼を見ていた。
 その眼を見つめ返し、どこか遠くのものを一緒に見ているような眼をして、彼は答えた。
「ああ」
 姪は眼を細めて叔父を見た。
「……ベリーは、ナーサディアのこと、好きじゃった?」
 じっとみつめてくる姪の眼から自分の眼を逸らさずに、彼はぽつりと答えた。
「ああ……」
 それから手の中の芙蓉の花びらに眼を落とし、小さく言った。
「他の男の話さえ全部うなずいて聞いてやりたいと思いながら、聞いたら腹が立つくらいには、好きやった」
 姪が口の中で言った。
「よかった……」
 そう言って、姪は眼を閉じて身体をゆっくりと横たえた。

 白い芙蓉が咲いている。
 ラキア宮の庭に佇み、彼は懐から取り出した煙草に火をつけた。
 土の色を見る。
 この下に、あのインフォスがあるというのか。
 彼は俄かに顔をしかめ、そしてまた顔を上げ前方を見た。
 空を見上げる方がマシだ。
 空の高みに舞い上がる手段なく、空を見上げる方がマシだ。
 翼があり、夢兆の力も持ち、そして降りようと思えば降りられるところに逢いたい相手がいることは、そして逢ってはいけないと自制しなくてはならないことは、残酷だ。
 煙を細く吐きながら、彼はまたもう一度地面に眼を落とした。
 姪は「夢の女」になりたかったのだと言った。
 その姪に、「『夢の女』になって、他の女を見下ろしていくのか」と自分は言った。
 だが本当に姪がレイヴの「夢の女」として、レイヴの心の中で不動の存在になっていたとしても、姪はきっといつの日か、今より大きな虚無の前で立ち尽くさねばならなくなっただろう。
 精神的にレイヴを支配しているかのような「夢の女」になっていたとして、他の女より自分はレイヴに大事にされていると最初は思っていても、レイヴは決して「夢の男」ではない。生きて生活し、ひとと出会い、そして老いていく。夢の女はすべてを超越しているように見えながら、実は生身の何者にも及ばない。人間としてのレイヴの生活の中で、傍にいるのは夢の女ではない。いつかきっと、夢の女はレイヴの中の片隅でうずくまるしかできなくなってしまうかもしれない。
 ――そんな未来であの子が泣くかもしれぬのなら、どれほど憎まれようが……。
 そう思って、告げた言葉もあった。
 彼には、今でもわからない。
 もしかしたら、人間と天使の情愛を否定する言葉ではなく、肯定し、姪の苦しみに背中を撫でてやり、その上で待っているかもしれない残酷な未来の可能性を告げるべきだったのだろうか?
 そう思ったあとで、彼は唇の端で笑った。
 思い上がりだ。俺が姪の一生を操作できるとでも思っているのか。
 あとは、いや、元から、彼女自身の問題でしかないのかもしれない。
 乗り越えていくのは、姪自身だ。
 
 ふと、虚空を見た。

 乗り越えていくのは、本当に姪だけか?
 最初から、姪だけの問題だったのか?

 しばし、虚空を見たまま、彼は身じろぎもしなかった。

 やおら、傍らの芙蓉の枝を静かに折り取った。
 音もなく歩いていく。蓮が茂る池の畔にまで出ると、彼はその水面を覗き込んだ。

 ――「守護者」としての道を選んだ姪に。

 芙蓉の花をひとつ枝から摘み取り、池の中に投げた。

 ――レイヴに。

 ふたつめの花が池の中に落ちた。

 最後の花を摘み取り、手の中のその花をじっとみつめた。花びらの端に、唇を近づけて、そっと触れた。

 ――ナーサディアに。

 みっつめの花が弧を描いて行った。
 自分には、「真実」だ。人間との情愛を否定はしないが、決して肯定もしない。そうでないと、自分の眼が、この足の下を見てしまいそうになる。
 自分の情愛を否定しないが、絶対に肯定しない。
 感情にだって、理由がある。
 その理由を理解すれば、その感情とうまく付き合っていけるに違いないのだ。
 姪の幸せは願うが、自分の情愛は眠りに就かせる。それこそが、彼の「真実」だった。
 それから彼は自分自身に向けて笑った。我ながら、格好つけているなと思ったのだ。こんなふうに笑えるのなら問題ないとも思った。

 書斎の文机の上に頬杖をつき、レイヴはその大きくて白い羽を眺めていた。
 扉がノックされ、湯気の立つカップを載せた銀盆を抱えた妻が入ってきた。
「またその羽を見ているの?」
 レイヴの手許を覗き込みながら、妻は楽しそうにそう言った。
「こんなに大きな羽の鳥は、どこにいたんだろうと思ってな……」
 妻のメリッサはカップを机の上に置くと、指先でその羽に触れた。
「鳥の羽じゃないわよ。多分、守護天使さまがくださった羽なのよ」
「またそんなことを……」
 半ば呆れたようにレイヴは息をつき、カップに手を伸ばして口をつけた。
「若いときに、君の夢の中に出てきたという天使さまか」
「あなたを守護しているとおっしゃってたもの。違いないわ」
 確信を持っているような妻の口調に、レイヴは笑って反駁した。
「俺の守護神は、鳥なんだ。彼女はそう言っていた。そうだな、きっと彼女の羽だ」
「私が天使さまですかって訊いたら、否定なさらなかったわ」
 またレイヴは笑った。
「鳥でも天使でもいい。きっと彼女の羽なんだろう」
「あなたの宝物なのね」
 しみじみとメリッサはそう言った。
「ああ……、そうだな。宝物のひとつだ」
「今度の遠征にも、それをお持ちになってね。遠征のときには、私はその羽に、あなたをお預けしているの」
 夫が帰ってこられるように。
 遠い地でも、家族の声が聞こえるように。
 白い羽に届かないすべてのものを預け、どうか守ってくださいと。
「いつもすまない……」
 レイヴはメリッサに言った。
「謝らないで。『ありがとう』って言ってもらえたら、わたくしは、いつも大丈夫――」
「ありがとう」
 メリッサは、可笑しそうに笑って部屋から出ていった。
 何がそんなに妻は可笑しいのだろうといぶかしんだが、レイヴはまた机に向き直り、白い大きな羽を見た。
 いつからこの羽があるのか、記憶にない。
 それなのに、何故か思い浮かぶひとりの女の顔がある。
 その女と、自分がどういう関係だったのかもわからない。
 しかし何故か、この羽を見るたびに、彼女のことを思い出せるような気がしてくるのだ。
 「鳥」だと言った、その女のことを思い出せそうで思い出せない。
 だがこの羽がある限り、どれほど遠いところへ行こうとも、妻の待つこの家へ、無事に帰ってこられるという確信が生まれ、そうして胸の奥がいつもあたたかくなってくるのだ。
 彼女の声だけが耳に残る。

 恐れるな
 罪業を恐れて立ち止まるな
 身共が守護している それを忘れてくださるな
 レイヴの罪業なら 身共が引き受けてさしあげる
 それを忘れて 立ち止まってくださるな
 
 それが 身共の願いである

・ 私の願い/終 ・



 お読みくださってありがとうございました。

 この話、当初はハナカズラがレイヴを「守護天使」として鼓舞するだけの、まあ、いわゆる「幻想的な後日譚(?)」のような感じを想定して書いていただけだったのですが、あまりにもそれが薄っぺらくて、書いていて嫌んなってきてしまって、ついつい長々と続いてしまいました。

 私なりに、『FAVORITE DEAR』の世界を下敷きにする場合、一番書きたいことというのは、こういうテーマかなという気はします。タイトルの「私の願い」は、何となく、「あ、これにしよう」と思ったのですが、この話には、ハナカズラの願いとレイヴの願いとベリーランドの願いとメリッサの願いと、あと、ナーサディアの願いも実は内包されているんだという、私の中の意識からつけてもいます。しかし何か後で手入れがてら読んでみると、コントみたいだなと思いました。特にハナカズラがメリッサの前に出てくるところ。ドリフかぁ~……と言いたくなります。ドリフの神さまコントってありませんでしたっけ……? 覚えてないなあ、あったようななかったような(笑)。