明け方に、歯が抜け落ちる夢を見た。
 この夢はよくないといつか聞いたことがあるので、誰かに話さねばとロクスは思ったが、その相手がいない。宿を一歩出れば、往来にはひとがあふれているというのに。孤独とはこういうことかと、ふと思った。
 「天使」でも呼んでみようかと思ったが、彼はすぐに苦虫を噛んで頭を振った。彼の「守護天使」は残念ながら、取り立てて何の面白みもない女だったからだ。彼女はロクスに「アルカヤを救う」という使命をもたらして以来、数日おきに彼のもとへやってきている。しかしいつだって、「任務」以外のことなど口にするのも億劫といわんばかりに無口だった。
 ――あれは女の出来損ないだな。
 ベッドの上で身支度をしながら、ロクスはひとりごちた。実際、あれほど愛想というものが欠落した女は見たことがない。昼間に来るときはまだいいが、夜、盛り場で遊んでいるロクスのもとへやってくるときなど、その無愛想ぶりが一層際立つ。戯れる女たちの嬌声、イカサマだ殺してやると喚くカードの敗者の怒号、それらの喧騒の中で、天使は眠たそうな顔をしてただひとことこう言う。
『では、身共は外でお待ちしておるから』
 今は任務の話など聞きたくない、あとにしろと手を振ったロクスに対する答えである。答えたあと、彼女は未練の様子を少しも見せずに踵を返し、嬌声や怒号の主の間をふいっとすり抜け店の外へ消えていく。その後ろ姿を、ロクスはぼんやり見送る。女天使の頭の上で結いあげられた黒い髪が、まるで馬の尻尾のように揺れ、店の中にたちこもる紫煙を少しだけかき混ぜていくようにも彼には思えたが、おそらくそれは気のせいにちがいなかった。ロクス以外の誰にも見えない、誰にも触れられない、そんな彼女はそこに「いない」のと同じことだった。
 ――そうだ、いないのと同じはずなんだ。
 天使の姿が完全に視界から消えると、ロクスは自分に言い聞かせるようにそうつぶやき、常に前夜の自分を超える勢いで酒を飲み、女たちとはしゃぎ、賭けに興じた。これは他ならぬ、自分自身のための時間だ。天使が待っていようがいなかろうが、知ったことではないと思った。
 そういうわけで、いよいよもって自制の必要性を感じ得ない彼は、夜ごとだらしなく酔いつぶれる。意識がおぼろになり、いつのまにか周りの女たちが退散していることに気づいて、深夜にようよう腰を上げ、老いた野良犬のようにおぼつかない足取りで店を出る。不思議なのは、泥のような意識の中でもいつだって「天使はまだ待っているか」という期待とも不安ともつかぬ気持ちが、彼の胸を一瞬チクリと刺すことだった。
 最初の晩のことも、ロクスは一応覚えている。店を出ると、風に甘い花のにおいが混じっているように感じたので、おそらく春先のことだったろう。ひとけのない通りの向かい側にある靴屋の立て看板に天使が腰かけ、両の脚をぷらぷら揺らしているのが、ぼうっと浮かび上がるように見えた。彼女はスカート状の衣服のポケットから何やら取り出すやいなや、下を向いてもぐもぐと口を動かしはじめた。
 ロクスはそのとき、我知らず素早く周囲を見回してしまった。あの女、何故こんな夜更けに、あんな目立つ灯りの下で暢気にものを食っているのかと。酔った無法者の2、3人でも来てみろ、明日の朝はどこの路地のあばら家で目覚めねばならないか、わかったもんじゃない。
 そこまで考えて、ロクスは気がついた。あれは灯りなどではない。灯りがついているのは、その通りではロクスが今しがた出てきた酒場の軒先のみであり、あとはただ闇ばかりが、この世の底に沈殿するかのようにこごっている。あれは、天使の身体からたちのぼっている光だ。いや、「たちのぼっている」とまで言えない。まるで彼女の身体がこまかな綿毛に覆われていて、それがかすかに発光している、そんなふうにロクスには見えるのだった。
 ついでにロクスはもうひとつ気づいた。いつのまにか、真っ黒な野良猫が、天使のそばまでやってきていた。猫は、くらがりに浮かぶ琥珀色の眼で確かに天使を見ていた。彼(或いは彼女)は、尻尾を立てて飛び上がった一瞬ののち、天使が腰かけている立て看板の上に着地した。このときの猫の顔が、ロクスには忘れられない。眼をビー玉のようにまん丸くして、悪い夢でも振り払うかのように、激しく左右に頭を揺すっていた。
『くふふ』
 と、天使が笑ったのがロクスには聞こえた。彼女は看板の上に腰かけたまま口許を押さえ、笑いながら別の手を猫に伸ばした。ロクスの眼には、ちょうど彼女の透けた腹の部分に、猫の身体が納まって見えていた。まるで猫を孕んだ女の化物か何かのようだった。
 ――化物が、無法者にやられるなんてことがあるものか。
 要らぬ心配をしてやったもんだ、とロクスは眉をしかめた。思わず、
『馬鹿』
 と口をついて出た。自分に言ったのかもしれなかった。
 通りの向こうで、天使が耳聡く顔を上げた。ロクスに気づいて看板から下り、
『お帰りになるのか?』
 と言いながら、淀みない足取りで彼のもとへ向かってきた。ロクスは答えず、横眼で天使を見ながら問うた。
『何を食っている』
『飴』
 ロクスは短く鼻息を吐いて歩き出した。頭の一番奥の辺りが痺れているような気もするが、大丈夫だ、宿まで行ける。
『まるでガキだな』
 いつのまにか天使はロクスの隣に並び、歩調を合わせていた。そして、クンクンと鼻を鳴らして言った。
『ワインか。赤じゃな。それとウォッカ。バーボンも少し混ざっておるか』
 ロクスは眼を瞠り、ぴたりと歩みを止めた。ワインとウォッカとバーボンで痺れていた頭が、一気に冷めた。息をひとつ飲んで、また歩き出す。「ハズレだ」と言ってやろうかと思ったが、もう遅い。この一瞬の沈黙が、天使の言が当たっていることを示してしまったと悟り、ロクスは歯がみした。
『おまえは犬か』
 彼はそれだけ言ってやった。
『犬? あ、まことに』
 天使が言った。ちょうど毛の短い野良犬が、ふたりには眼もくれず、ロクスの傍らを通り過ぎていった。
『あぁ~……』
 脇目もふらず去っていく犬の尻を見ながら、天使が妙に名残惜しそうな声を出した。
『触りたかった……』
 こいつ、僕に対するよりも、犬相手の方がよっぽど未練ありげにするじゃないかと、ロクスはひそかに片頬をふくらませた。天使はそれには少しも気づかず、
『さて、次の目的地じゃけれども』
 と言いながら、合わせ衿が特徴的な衣服の懐から、くしゃくしゃの地図を取り出した。
『断る』
 ロクスは即、言い放った。一旦引いていた酔いがぶり返してきて、頭の芯がズキズキした。
 天使は元より大きくて黒々した眼を、更に大きく丸くしてから眉根を寄せた。
『何故じゃ。先刻、わごりょは『受ける』とおっしゃった』
『覚えてない』
 天使が自分を待つのに費やした数時間を無にしてやろうという企みの気持ちで、ロクスの頭の疼痛が、妙に甘やかなものに変わっていくようだった。
『覚えておいででない。それは、お酒のせいで?』
『さぁな』
『ワインとウォッカとバーボンじゃな?』
『さ、さぁな。……知るか!』
『ふむ……、ロクス、しっかり歩いておいでのようにお見受けするけれども……』
 いかんなそれは、と天使はうめくように言った。
『ご記憶を失くすというのは、存外に危ういぞ。小脳、或いは海馬の麻痺じゃもの。もはやそれは酩酊とは言わぬ、泥酔じゃ』
『だから何だよ』
『早う宿へ。担いでいってさしあげようか』
 天使が真顔で言った。ロクスは身震いした。まるで「荷物を持ってやろうか」とでもいうような口ぶりの天使に対してだ。
『冗談を。僕はカバンや頭陀袋じゃない』
『ん? それはそうじゃ。案じなさるな、身共、筋力には自信ある。途中で御身を取り落としたり引きずったりはしない』
 表情を変えずに主張する天使を見ながら、ロクスは思わず自分の頭をかきむしった。
『ハナカズラ』
 と、天使の名前を呼んだ。歯ぎしりしながらだったので、「ハナカズゥルァ」と、妙に巻き舌になった。
『君は一応今、僕と同じ言語を使って会話しているんだよな?』
『うん、言語? ああ、まぁな』
『あきれたな! 君、どうやら言葉ってのは、発音や文法さえ合っていれば相手に通じるものだと思っているんだろう』
 あきれたあきれた、と、ロクスは呪文のようにつぶやきながら、更に頭を掻きつづけた。天使は少しの間黙っていたが、やがて、
『ロクス、やはり泥酔なさって……』
 と、得心したようにうなずいた。それを見て、ロクスの堪忍袋の緒が切れた。彼は怒鳴った。
『うるっせえ!』
 その声は、しんと静まり返った石造りの町に響いた――はずだった。しかしちょうど、すぐそばの細い路地から、耳をつんざくような猫の喧嘩の声がし、ロクスの怒声は完全にかき消された。
  そんなことがあった。



 いつものことだが、前夜はしこたま飲んだ。
 そうしてロクスは明け方に、また歯が抜け落ちる夢を見た。
 ベッドの上でゆっくり身を起こしたとき、彼はまるで、自分が棺桶の中でよみがえった亡者であるような気さえした。
 気分は最悪だ。頭蓋骨まで響く痛みが、首から上をかけめぐっている。その上、前夜の賭けで、懐から蒸発するように金が出ていったことを思い出し、ロクスは吐き戻しそうになった。虫唾が走るとは、こういうことかと悟った。だが、何に対してこんな気持ちを覚えているのか、彼には特定できかねた。
「何だ、え、何なんだよ」
 ロクスは歯をきしりながら唸った。彼の脳裏には、二日連続で見た夢の光景が浮かんでいた。いや、本当は「二日」だけではない。同じような夢を、遠い昔にも見たことがあった。あのときは誰に話したのだったか? いや、話さなかったのだ、ただ怖かったと思って泣いて、悪いことが起こりませんようにと祈っただけで。何に祈ったのだったろうか、とうの昔に忘れてしまった。あの夢の内容を誰かに話していれば、何かが変わっていただろうか。この夢が、何かを失う予兆であるならば、その「亡失」は、誰かに話して聞かせることで避けることができるのだろうか。
 馬鹿馬鹿しい、と、ロクスはすぐに頭を振った。骨の芯までズキリと痛んだが、彼は口端に笑みを浮かべた。おかしかったのだ。一瞬、あの愚鈍な女に話そうかと思った自分のことが。愚鈍ではあるが、彼女は天使だ。天使なら、いともたやすく夢解きをしてくれ、この不安とも悲しみともつかぬ気持ちをどうにかしてくれるのではないかと彼は思ってしまった。
「愚かだ」
 ロクスは自分に聞かせるように、わざと声に出した。不安に足をとられるあまりに、あんな何を考えているかわからぬ女に、泣きつくような真似はしたくないと思った。頬が異様に熱くなっているのを感じた。



 その夜も、ロクスはしこたま飲んだ。彼はいつもの酒場で、自分が3杯目の蒸留酒を飲んだところまでは覚えている。その後、胃の奥から熱いものがせりあがってきて、口の中に焼けるような痛みを感じ、その次に感じたのは、頬に触る冷たい布の感触だった。
「痒いぞ」
 ロクスは癇癪を起こすように叫んだ。だが、声がかすれて最後が尻切れになった。
「お目覚めか」
 と、女の声が言った。
「この宿、カバー類によう糊が効いている。痒ければ、ずらそう」
 女の掌が、ロクスの後頭部を包むように持ち上げ、その下に敷いていた枕を少し動かした。
「わごりょな、多分お風邪を召しておる。飲み屋で吐き戻して倒れておったよ」
 女の言葉を頭の中で咀嚼すると、ロクスは眼を強く閉じ、小さく舌打ちした。
「もうあの店には行けないな」
「また別の町に行けば、よい店があろう」
「僕はどうやってここに帰ってきた」
「あぁ。言うたじゃろ、身共、筋力には自信があると」
 何でもないことのように言ってのけた彼女に、ロクスは小さく歯がみして、そっぽを向くように寝返りを打った。壁に額を軽く押しつける。
「引きずってきてないだろうな」
「ない」
「地べたに落としたりしてないだろうな」
「ないよ」
 フン、とロクスは鼻を鳴らした。その拍子に、自分の衣服から石鹸のにおいがすることに気づいた。彼女が着替えさせてくれたものとわかったが、どうしても口から礼の言葉が出てこなかった。ロクスはこのとき決意した。吐き戻した姿を見られるなどという「弱み」をこの女に握られたのだ。どうにかして、この女の弱みをみつけ返してやろうと思った。そうでなければ、割に合わない。そう考えながら、眼の前の壁をじっと見た。
「面倒くせぇなぁ……」
 思わずロクスはそう漏らした。
「何が面倒くさい」
 女が訊いた。壁に映るランプの火影の中で、ほの黒いものがぼわぼわと蠢いた。彼女の羽だった。
「答えるのも面倒くさい」
 吐きだすようにロクスは言った。ややあって、背後で大きな息がひとつ聞こえた。
「なら、よい」
 そう応じた天使の声には、珍しく怒気が含まれているようにロクスには思えた。その瞬間、彼は眉間に皺を寄せたが、すぐに口角にうっすら笑みが浮かんでくるのを感じた。
「面倒がってるのはお互いさまだろ。君はいつだって、僕の話を聞くつもりがない」
「何?」
「僕なんかよりも、犬や猫の方にずっと興味がある」
「何の話じゃ」
 もう寝たらいい、と天使は言った。ロクスはその言に抗い、掛け布を弾くようにめくった。
「うるせぇな、寝ないよ。寝たらまた夢を見る。くそ忌々しい夢をな」
 言いながら、ロクスは掛け布の中で足をじたばたさせた。頬が拒火のそばにいるかのように熱かった。自分の声が、頭の上から降ってくるみたいに聞こえた。
「夢? 忌々しいとは?」
 天使の手がロクスの胸元ではだけた掛け布に伸びた。ロクスは反射的に、その手指をまとめて何本もつかんだ。天使はギャッとつぶれた声を上げた。
「おい……、ロクス、離せ……」
 天使はロクスの手から自分の指を引き抜こうと力をこめたが、それ以上の力でロクスが握りつぶした。
「聞けよ、ハナカズラ」
 ロクスは低い声で天使の名を呼んだ。天使を仰ぎ見ると、彼女の顔は、湯でのぼせたように真っ赤になっていた。心なしか、眼まで充血している。
「昔と同じ夢を見る。何度も見る夢というのは、何か意味があるのか?」
「昔と同じ? どんな」
 真っ赤な顔のまま、天使はロクスの手から逃れようと、懸命に腕を引っ張っている。
「それは言いたくない」
 ロクスは天使の指を、いっそうの力を込めて握った。
「いぃぃ、イタ、イタ、痛い」
「犬に食いつかれるよりマシだろう」
「猫に、噛まれるよりは、痛い!」
「猫に噛まれたことがあるのか」
「あああ、ある」
 白眼がちの顔で言う天使を見て、ロクスは何だかだんだんどうでもよくなってきた。猫に引っ掻かれるならともかく、噛まれたというのは、この女、一体猫に何をしたのかと頭の隅で考えた。その瞬間、激烈な痛みが右手に走った。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁあああ」
 自分でもびっくりするほどの大きな呻き声がロクスの喉奥から出た。天使が、自分の右手指を握りつぶしているロクスの右手を、空いていた左手で握りつぶし返しているのだった。
「離せと申すに離さんからじゃ。何遍もお聞きになりたいか、身共、筋力には自信が」
「わ、わがっだ、わがっだよ、わがったがら」
「遅いわ、おわかりになるのが。一遍言うたらもうそこでさっさと」
 言いながら、涙まじりの声を出したロクスを憐れんだのか、ハナカズラが左手の力を抜いた。ロクスはその瞬間を見あやまたず、即座に自分の両手を抜き取るようにして引っ込める。そして、一呼吸置いてから、その手を口許にあて壁に向かって崩れるように身体を前方へ折り曲げた。
「あ。おい」
 背後でハナカズラが慌てて蠢いたのが、ロクスにはわかった。
「いかがした。ご気分が悪いのか?」
「よかぁない」
「水でも飲むか」
「酒の方がいい」
「懲りぬなあ、わごりょ」
「ああ、一番嫌いだね、『懲りる』なんて言葉は。口にしたくもない」
「……ふむ。差し出がましいがひとつ、自論を申し上げよう。多くの場合、『懲りる』というのは、『学習する』とほぼ同義ではなかろうか」
「何が言いたい」
「つまりな、『懲りる』のが妥当な場でちゃんと懲りることができる者は、『学習』できている者というわけで」
 ロクスは鼻をスンと鳴らした。笑ってやったつもりが、嗚咽を押しだすような音に聞こえて不本意であった。だから天使の方へ向き直り、殊更皮肉をこめて言った。
「説教か」
「そうおとりくださってかまわない」
 天使はあっさりとそう返した。ロクスはもう一度鼻を鳴らした。今度はちゃんと乾いた音が出た。
「僕の方こそ、君にどうとられようと一向にかまわない。それに、学習ならしている」
「ほう……。何を」
 天使が片眉を上げた。
「君と僕とは、相性が悪いということをだ。ただ悪いんじゃない、根本的に、絶望的に、おまけに度合いは現在進行的に」
 ロクスが言ってやると、天使は一瞬胸をつかれたように眼を大きくした。が、すぐに顔を元に戻しゆっくりと腕組みをすると、そばにあった木椅子に沈み込むように腰を下ろした。
「委細うかがおうか」
「あぁ? 委細だ?」
「そう。何を根拠にそうおっしゃる」
 ロクスは鼻で笑ってこめかみのあたりを掻いた。
「自分の胸に訊けよ。わかるはずだ」
「自分の? いや、わからぬ。それに、ロクスの口から聴きたい」
「へーえ……。初めてそんな言葉が出たな」
「なに?」
「お初だってんだよ、『聴きたい』なんて、そんな積極的なお言葉。いつだって君は、僕に興味がまるでない」
 吐くようにロクスが言うと、天使は大きく眼を瞠り、黒眼を少し震わせた。
「じゃから訊いている、何を根拠にそのような」
「救いようがないな、思い至らないのか。君は随分なご都合主義だ。最初に君は何て言った。ごたいそうなことを言ったじゃないか」
「最初? 初めてお会いしたときか」
「そうだ、呆けてなけりゃ覚えているはずだ、あれから一年しか経っていない」
「何とは、じゃから依頼を引き受けてくれと」
「違う。いや違わないが、言葉だよ言葉。すごい言葉を使って僕を呼んだ、あー、呼んだというか表現した」
 天使は空中をねめつけるようにじっとしていたが、やがて腕を組み直し、
「何のことやら」
 と言ってから長い鼻息を吐いた。
「すごいな君は。あれほど気色の悪い言葉をつかっておきながら、まるでその自覚がない。『勇者』だよ、勇者」
「えぇ?」
「いいか、勇者なんて呼称はな、人間の世界では、何事か成し遂げた者に対してつかうものだ。僕は世間知らずな人間かもしれないが、それでも二十数年息をして、それなりに物事は見てきている。まだ何にもしていない人間に『勇者』だなんて名前をつけるのは、それはもうその人間を馬鹿にしているとしか思えないね。常識的な感覚で言えば、その人間を揶揄しているか、或いはうまいこと踊らせて使ってやろうという魂胆があってのことだとしか思えない」
 天使は大きく眼を見開いて黙っている。ロクスは構わずつづけた。
「ああ、君の言いたいことはわかっている。天使さまのおわす天界とやらに、ただ人の常識なんてものを当てはめるのはナンセンスだってんだろう。天罰がくだっちまうか? いや、それでも僕ぁかまわんね、この際だから言っとこう。ただ人の僕から見れば、天界の論理の方こそナンセンスだ。大概の人間は、自分自身を疑うことをまだ知っているからな。それがどうだ、え? 天使さま方ときたら、ご自分たちの手先に使う者を選んでおいて、それに『勇者』の呼び名を押しつけることに何の疑いも抱かない。そいつは逆にいえば、自分たちの選択、自分たちの行いには決して間違いがないと考えているということだ。びっくりするね。僕は面の皮が厚い方だと自分で思っていたが、天界の皆々さまには到底及びそうにない。思い知らされるよ、世界は上下合わせれば、僕が思っていたよりずっと広いんだな。ま、君らから見れば下半分の世界なんざ、お茶会のテーブルの端っこにでも載せてる箱庭みたいなもんだろうが」
 言葉が泥ででもあるかのように、胃の中から吐き出すみたいに一気にそう言うと、ロクスは口をつぐんだ。
 天使はぴくりとも動かず彼の方を見ている。が、視点はどうも空中にある。
「おい、眼を開けたまま寝てるのか? 何とか言ったらどうだ」
 やっと天使は身動きして、眼のピントをロクスに合わせたようだった。
「よう噛まずに言えるなと思うて……」
 天使のくだらない感想に、ロクスは今度は本当に口から泥が出てくるような気さえした。
「あぁ……。もういい。もういいよ、本当。君に言ったのが間違いだった。もういいんだ、同じ言語を使っているからって、言葉が通じると思っちゃいけないんだったな。忘れてたよ」
「いや、待て。そう早まるな」
 眉根を寄せた思案顔で、天使が片手をあげて掌を見せた。
「さっきロクスがおっしゃったこと、身共なりに咀嚼してみている。一理あるやも……。『勇者』とは、確かに胡乱な言葉かもしれぬ」
 ロクスは眼を瞠った。天使は虚空を見ながら、空気の中から何かをさぐりあてようとしているようにロクスには見えた。
「たとえば……、こういうのもある。ロクスのお好きな盛り場には、客引きの男が結構おったりするじゃろ」
「あぁ? 何の話だよ。それに、僕が好き云々は余計だ」
「ちなみに客引きのことは何と言うたか。パ……パン? ピン? んんー? ペン? ペン引き?」
「ポンだよ、ポン引きだ。天使がそんな言葉覚えて一体どうしたいんだ!」
「そう、そのポンじゃ、それがお客のことをいろいろに呼ぶではないか」
 そこですっくと天使は立ち上がり、明後日の方向を見ながら、
「ヨッ、ソコノ社長サン、滅多に見ないオトコマエだね、ウチノオンナノコタチがヨロコブヨ。シャッチョサンシャッチョサン、チョットデイイカラ寄ッテッテヨ~」
 人まねのオウムよりも抑揚のない調子でそう言い放つと、くるりとロクスの方を向いた。
「こういうことじゃろ」
「何がだ!!」
 こいつはとんでもない馬鹿だということが今判明したかもしれないと、ロクスは危機感を募らせながら、天使から一歩離れた。
「いや、じゃからー……、『名前』を与えてうまい方へ持っていこうという話。社長とか男前などと呼び立てて、お客をよい気持ちにさせて店へ引き入れようとするのと、身共がロクスを最初から『勇者』などとお呼びして、依頼を引き受けてもらおうとするのと、要は同じことじゃろう、という」
 暢気そうな声音でそう言うが、天使は妙に据わった眼つきをして、ロクスの方に一歩進み来る。
「おい、僕をポン引きの客と一緒にするつもりか?」
 ロクスは思わず髪の毛をかきむしった。天使は、「おや」と声をあげた。
「ちがうのか?」
 大きな黒眼で穴があくほどじっとロクスをみつめる天使のまなざしには、変な凄みがある。やっぱりこいつは女の出来損ないだと思い、ロクスは身震いした。そして自分の置かれた状況を察し、奥歯を鳴らない程度にギリリときしった。眼の前のこの女はそれほど馬鹿ではない、ある意味狡猾であり、かつ無鉄砲なのだ。彼女は「勇者」という呼称に文句をつけたロクスを、ポン引きの餌食となる客と同列に語ってみせ、それにまた不満を唱える彼から何事かを引き出そうとしている。
「答えられないね。どうせ君は言うんだろう、僕が、ポン引きにひっかかる客と自分はちがうだなんて言えば、ほら見ろ、おまえの方こそ自分自身を特別扱いしてるじゃないか、とかな」
 どうだ、と言わんばかりに、ロクスは真正面から天使を見据えてやった。暢気そうに見せていながら、その実こそこそと内で算段していることを見抜かれた気分はどうだ、と。しかも一応「女」の身で、男である自分に見透かされた気持ちを聞かせてもらいたいもんだ、とロクスは胸の中で冷笑した。
 すると天使は、斜め上の空中を少し眺めるような顔をしてから、
「バレたか」
 と、目線をロクスに戻して屈託のない声で言うと、ブシュンとくしゃみをひとつして、鼻をこすりあげた。
 ロクスはあっけにとられて天使を眺めた。
 ――こいつ、ノーダメージだ。
 そう思った途端、急に吐き気が戻ってきたような気がして、思わず口を押さえて身体を前に折った。
「おい、いかがした? 吐きそうか?」
 天使が背中に手をかけてきたのを感じた。触るな、とロクスは言いたかったが声が出なかった。自分の背から感じるのは、確かに女の手のやわらかさだったが、こいつの中身は女じゃない、きっと女じゃないんだ、という声がロクスの身体のあちこちにこだましていた。そうだ、この女は女じゃない。なぜなら、こいつは僕に興味を持っていないからだ。なぜそれがわかるのか? そりゃあそれくらいわかる、僕はロクス・ラス・フロレスだからな。僕のことを次期教皇次期教皇と会うたび呪文のようにくりかえす聖職のじじいどもの、何倍、何十倍という数の女たちを見てきた。口紅でてらてら光る唇からどんなに甘ったるい言葉が吐かれようとも、本当に好かれているかいないか、彼女たちが一体自分の何を見てそう言っているのかぐらい、すぐにわかるのだ。毛の生えそろったばかりの子どもじゃないのだから。女たちが見ているのは、なめらかな光沢を放つ紫色の法衣、薄汚れた酒場の壁に立てかけられた錫杖、そして決して見栄えの悪くない自分の顔。
「そりゃそうだ、僕はロクス・ラス・フロレスなんだからな!!」
 矢庭にそう宣言したい気持ちになって、ロクスは立ち上がろうと手足を掻いた。だが、まるで綿の中でもがいてでもいるように、いくら掻いても身体は地面に触れなかった。
 いや綿じゃない、羽根だ、こいつの羽根の中でもがいているようだ。冗談じゃない、どこでどう間違ったんだ。
 ロクスは無意識のうちに自分の髪をひっぱりながら反芻した。ハナカズラからの要請を受けて「勇者」になることを承諾したとき、自分は彼女に何と言ったか。はっきりとは覚えていない。覚えていないが、なんとなく見当がつく。それほど自分には口からするするといつでも引き出せる言葉があるからだ。
 うつくしいとか素敵だとか知り合えてうれしいとかなんとかかんとかするするするする……。
 ロクスは想像しただけで、身ぶるいが起こるのを感じた。馬鹿野郎、いらんこと言うんじゃない、1年前の俺! 正直に、本当正直に言ってしまおう、もちろん心の中だけで。ハナカズラと初めて会ったとき、これは今までに会ったことのないタイプの女がやってきたぞと直感して、さあどう料理して食ってやると一番うまいのだろうかと値踏みした。「食う」というのにもいろいろバリエーションがあって、一方的に噛みちぎるのは自分の趣味ではないが、お互い納得づくで歯を立て合うのはアリだし、そこまでではなく歯を当てるだけのこともあるし、舐めてかすめるだけのこともある。何にせよ、女という生き物を自分の血肉にしようなんて思ったことは今まで一度もなく、従って自分も相手の血肉になろうなどと思ったこともない。噛んだり舐めたりしてお互いに味わって通りすぎていけば人生はそこそこ楽しいものだと思っているので、眼の前の天使のことも「毛色の変わった女」だとしか思わなかったし、その変わった女とはどうつきあえば一番楽しかろうと算段しただけにすぎない。
 それがどうだ。楽しいなんてもんじゃない。これほどイライラさせられ脱力させられるとは思っていなかった。
 ロクスはそこまで一気に胸の中でひとりごちた。それから唐突に、頭の中で何かが音もなくちぎれたような気がした。視界が暗くなる。
「ロクス? おい……、ロクス!」
 ハナカズラがまるで男みたいに呼ぶ。女の声をしているくせに。それが遠くで聴こえた。


 はるか昔にも、歯が抜け落ちる夢を見た。
 現実では、乳歯が4、5本くらい抜けていた頃だったとロクスは記憶している。子どもの歯が抜けたあとに、ちゃんと堅い大人の歯が順番に生えてきていたのに、夢の中では全部の歯が抜けてしまったのだった。
 そんな夢を、三夜ばかり立て続けに見た。三日目の朝には、怖くなって少し泣いた。鼻をすすっているとベッドのそばに母がやってきて、今日は川に行きたくないの? と笑って自分の顔を覗きこんだ。そうだ、その日は近所の年上の少年に泳ぎを教えてもらうために、小さな丘をひとつ越えた先の川原へ行くことになっていたからだ。
 母の背中越しに台所のテーブルが見えていた。そのテーブルには、母が早起きしてつくってくれたのだろう、弁当が入っているらしい籠がちんまりと載っていた。だから怖いなんて言おうと思わなかった。川が怖いのではなく、夢が怖かったのであっても。
 その日は予定どおり川へ行き、平泳ぎもどきをマスターして帰ってきた。泳ぎの練習中に抜けてしまった乳歯を1本、弁当包みにしっかりくるんで。
 ――下の歯だから、丈夫にまっすぐ伸びるように屋根の上にね。
 母はそう言って父を呼んだ。父が腕を大きくふりかぶって、乳歯を屋根の上に放り投げた。空には星が見えていて、庭には月見草が咲いていた。それは前に上の乳歯を埋めた場所から咲いていたので、きっとあの歯から芽が出たものにちがいないと、ロクスはひそかに思っていた。じゃあ、今日放った屋根の上の歯は、一体何になるんだろう?
 それは芽が出てのお楽しみだと思っていた。けれどその確認をすることは、ロクスには叶わなかった。
 そこからあとの故郷での記憶は、ロクスの頭に残っていない。
 次に乳歯が抜けたとき、ロクスは教皇庁の自分の部屋で、ぶかぶかの法衣を着て本を読んでいた。
 ――上の歯だ。
 と言ったら、そばにいたお付きの小者は、そうですねと言っただけで、その歯を見せてくれとも言わなかった。
 ロクスはひとりで中庭へ行き、何も植わっていない隅のひなたにその歯を埋めた。けれど何日経っても、そこからは何の芽も出てこなかった。
 


 かなしい思い出の夢を見たと思いながら、ロクスはベッドの上で眼を覚ました。
 胎の奥から嗚咽の卵を追い出すみたいに、ふるえる息を吐く。
 何がかなしかったのだろう? 歯を埋めても何も出なかったことか。あぁそうだ、きっとそうにちがいない。無知だった自分がかわいそうになっただけだ。歯なんか埋めたって何もそこから生えてきはしない。もうそんなことは大人になっているのだから重々承知している。だが、今でもわからないことがある。歯が全部抜け落ちてしまう夢の意味。何故あんな夢を見るのかということだ。また何かを失ってしまう予兆なのだろうか。昔、帰る家を失くしてしまったように。
 生き物の気配を感じて首をもたげた。壁際に、ハナカズラが座っている。木椅子に浅く腰かけて、行儀よく背筋を伸ばし、まるで女みたいに脚をそろえて眼を閉じている。
「寝てるのか」
 何気なく声をかけると、
「今は寝ている。さっきまでは起きておった。突然寝込んだどなたかの様子を見るためにな」
 と低い声が返ってきた。ロクスは鼻でフンと笑い、一度唇を噛んでから言った。
「君、夢占なんかできないよな」
 かまをかけてみた。できるだけ、期待していない風に聴こえるよう、軽い声で。
 ハナカズラが眼を開ける。鈴を張ったようなというのはこういう眼のことかと、ロクスはそのとき初めて思った。
「夢占が必要なのか?」
 鋭くはないが、どこか凄みのある声でハナカズラは問い返してきた。
 質問に質問で返す無礼さに、ロクスは奥歯を噛んでから言った。
「できるのか? できないのか?」
 天使は丸い瞳をいびつに細めて、今度はどこか心細そうな声で言った。
「ロクス、ひとを一番手っとり早う『病気』にさせる方法をご存じか?」
「いきなり何だよ……。そりゃ……、ひょっとして、呪詛とかか?」
 律儀に答えてしまってから、ロクスは自分の口を手で軽く抑えた。
「呪詛。うん、近いかもしれぬ。隠れた言葉か表立った言葉かのちがいはあるけれども。それはな、そのひとに向かって、『顔色が悪いね』とか『大丈夫?』とか、一見善意に見える言葉を故意にかけつづけることだそうじゃ。言われた方はたとえ健康体であっても、そういう言葉を受けつづけていると、自分は身体を害しているのだと自分の頭に入力してしまう。そうすると、身体も頭に従ってしまうから、ついには本当に病気になってしまうことがある。刷り込まれるのじゃ」
 淡々と語る天使の声が、ロクスの耳朶をくすぐるように通りすぎた。
「君は、何が、言いたいんだ……?」
「身共は占うことはできる。が、占えば、吉が出るか凶が出るかわからない」
「凶の予言ごときで、僕が我を失うとでも?」
 教皇庁から追い出され、天使にはこき使われ、これ以上何の凶事があるというのか。あったとしても、どのみち現実に従うだけだという気持ちがロクスにはあった。ただ意味を知りたいだけだ、同じ夢が出てくることの。
「身共は、ロクスに刷り込んでしまうかもしれぬ立場になりとうない。ロクスがどうおなりか、それ以前の話じゃ」
 ハナカズラは床を見据えて言った。それから少しだけ頬を上気させ、怒ったような顔でロクスを見る。
 ロクスはなんとなく虚を衝かれた気がして、空中をちょっと見た。そして言葉に困ってこう言った。
「案外、臆病者だな」
「ん……。な、何とでもおっしゃるがよい」
 天使の眼が「負けないぞ」とでもいうようにロクスをじっと見る。ロクスはバツが悪くなり、さりげなく視線を外して窓を見た。
 窓の外には星が出ていた。乳歯を屋根に放った日の空が、唐突にロクスの脳裏に浮かんで消えた。
「君は、天使のくせに、肝心なときに難癖をつける。あれが嫌とか、これがダメとか、そんなのでよく天の御使いが務まるな。僕のことだって苦手なんだろう。だから夢占をしたくない、深くかかわりたくない」
 そんなことを言いながら、ロクスは内心驚いていた。こんな真夜中に女とふたりきりでいる。なのに、これほど真昼と同じような会話をするとは、そんな相手に、彼は今まで出会ったことがなかったのだった。嘘だろう、夜に女と過ごすというのはこういうことじゃない、こういうことじゃなかったはずだという声が胸にこだまする。
 これまでロクスは、女相手なら、それがただの社交辞令であろうとなかろうと、ある程度の麗句をならべて会話をすべきだとずっと思っていた。そうすればその女も悪い気はしないはずで、そうなるとこちらにもマイナスはないはずで、だからこそ、それからなし崩し的に発生する或る種の「楽しい夜」がいくつもあった。それはロクスがこれまで生きてきた中での「法則」でもあったのに。
「夢を占うのが、深くかかわりあいになるということなのか?」
 不意に、天使がうめくように言った。いつのまにか両腕を組んで思案顔をしている。
「臆病者でもよいよ。身共は嫌じゃ、自分がロクスに何事かを思い込ませてしまうのは。背負いきれぬな、そう、臆病者じゃから」
「……あてつけかよ」
「否定はせぬ」
 自覚しているのかいないのか、天使は少しふくれっ面になっていた。
 まるで欲張ってひまわりの種を口にいっぱいつめた小動物のようだとロクスは思った。詰まっているのはこの場合、こちらへの不満なのだろうが。
「吉でも凶でもおよろしいではないか。どちらにしても、身共がお守りいたすから」
 ふと、ふくれっ面をやめて真顔になった天使がそう言う。ロクスはその瞬間、何と言われたのかよく聞き取れなかった。
「何? 何だって?」
「じゃから……、あのなあ……、もう一度しか申さぬぞや。身共がロクスをお守りすると申しておるのじゃ。力の及ぶ限りではあるがな。除ける災厄は除けて、かかる火の粉は消火して」
 おまえは消防団か、とロクスはぼんやり思った。天使の言うことが、まだよく理解できなかったのだった。
「何で君が僕を守る? 君は僕のことが苦手だ。苦手な奴のことをどうして守れるんだ」
 うわごとのようにロクスが尋ねると、天使はさっきより大きく頬をふくらませてから、「ソレじゃ!」と言って立ち上がり、ロクスに向かって人差し指を出した。
「ロクスには霊感がおありなのか? 身共はわごりょを苦手なことを一所懸命隠しておったのに、何故それをおわかりになる?」
 今度はロクスが上半身を起こした。
「ばっ……、おまえ、隠せてると思って……、いや、どこから突っ込んだらいいんだ、やっぱり僕のこと苦手で、っていうか、丸わかりなんだよ、よくそれで隠してたとか言えるもん……、だっ、オイやめろ、指さすのはやめろ!」
「いや、納得いかぬな! 身共はロクスの悪口を言うたことはないし、たとえ物陰からであろうと呪ったりしたこともない!」
「当たり前だ、天使に呪われてたまるか! 呪わなくたって何か考えてただろう、僕に対して」
「石にけつまずいてしまえとしか思ったことはない!」
「な。十分だ。おい、僕が一体何をしたっていうんだ、はっきり言ってみろ、今ここで!」
 ベッドを掌でバンバン叩きながらそう言ったあと、ロクスは不意に恥ずかしくなって口を手で覆った。そして、声をひそめて言った。
「言ってみろ、聞いてやるから。僕だって、自覚なく何かやらかしているかもしれないから」
 ハナカズラは、まだロクスの方に向けていたままだった人差し指をゆっくり下ろし、杭を打ち込まれたみたいな顔をして彼を見た。
「それは、その、たいしたことでは、ないのじゃ」
「たいしたことでもないのに苦手だと思われてるんじゃあ、こっちはますます割に合わない」
「でも、本当に、多分、たいした、ことでは――」
「煮え切らないなあ……。さっきまでの勢いはどうした」
 うつむいてしまった天使の頬が真っ赤に染まっていることに気づき、ロクスはなんだか胸の中にあった氷の塊のようなものがドロリと融ける予感さえした。
「お聞きになれば、お笑いになる」
「何だよ、何か愉快なことか?」
「愉快ではない。少なくとも身共にとっては」
「じゃあどうすればいい。約束すればいいのか、笑わないって」
「信用できぬ……」
 遠慮なく発された天使のつぶやきに、ロクスはもはや怒る気も失せて喉の奥で笑ってしまった。
「ほら、もう笑うておいでじゃし」
「笑わせるからだ。徹底してるな、そこまで僕を嫌ってるなんて。いよいよ理由が訊きたい」
「誤解しないでいただきたい。身共は別に、ロクスのことが嫌いなのではない」
「同じことだ、この現状じゃ。違うというなら説明してみろ」
 ハナカズラは一度ぎゅっと眼をつぶり、それから意を決したようにまぶたをぱっと上げた。
「じゃあ、言おう」
 ロクスは思わず天使の方に向き直り、耳をそばだてた。
「わごりょは、身共の『勇者』になってくださることをご承諾くださったとき、何とおっしゃった」
「僕が? 何を言ったかって? 1年前か?」
「そう」
 額に手をあててロクスは考え込んだ。先刻にも、これを思い出そうとしてはっきりとは思い出せなかった記憶がある。が、やはり見当はつく。言い慣れている言葉のうちのどれかであったはずだと。
「よくはわからんが、君のことをいろいろ言ったことか。そのう……、綺麗な女天使さまだとか、会えてうれしいとか、そういう感じの」
「う……」
 尻切れのような唸り声を出すと、天使は黙り込んでしまった。が、否定はしなかったので、どうやら当たらずとも遠からずといったところらしい。
「み、身共は……、そういうの、苦手なのじゃ……。そ、それは、自らの未熟さのせいでもあろうが、何というか、その、そ、そもそもが、身共は別にロクスが殿御じゃから勇者になってくれとお頼みしたのではないし、じゃから、お、男とか、女とか、そんなに大事なことか?」
 まばたきもせずに言い終えると、ハナカズラは眼を見開いたまま床の一点をみつめていた。
『大事なことじゃないのか?』
 と、ロクスは思わず口に出しそうになったが、ふと、その言葉を飲み込んだ。
 自分がそれを大事なことだと思っているとしたら、どうしてそう思っているのだろう。
「その、もうロクスは覚えておいででないやもしれぬが、以前わごりょは、『癒しの手の持ち主だから、自分のところにスカウトに来たのだろう』と身共にお尋ねになった。そのときもお答えしたが、身共はわごりょにそんなお力がおありだとは知らなかった。次期教皇というお立場であることも存じ上げなかった。『気』がおよろしかったから、スカウトに参ったのじゃ。そ、そりゃあ、殿御であることくらいは存じておったが、気がおよろしいことと殿御であることには何の因果関係もない。その、ロクスは、もうロクスでいらっしゃるということで既に身共の中で完成されている存在であるというか、まあ、ええと、本当に、何と申し上げたらよいのか、言葉がみつからぬけれども……」
 またどもりながら息継ぎもせずにそう言うと、貯めていた分を吐き出すかのように、天使は何度もまばたきをくりかえした。
 そのまばたきが伝染してしまったのか、ロクスも意味なくまぶたを数回閉じたり開いたりし、うなるように言った。
「完成……。意味がわからないな。完成なんてまったくしていない。僕という人間は、そもそも、何ていうか、次期教皇であるということで成立している存在だったんだ。……たとえれば、この世の中には腐るほどの衣服があるだろうが、僕が人前で着られる服は法衣しかないんだよ。だが、その法衣すら脱がねばならないかもしれない状況になって……、だけど今更それを脱いでしまえば、僕はもう丸裸だ。服もなければ、靴もない。帰る家もない……。家がなければ、渡り歩けばいいだろう。だが、歩いていくには服がいる。そうだろう? 泊めてくれる家に入るには、服を着ていなくてはならないんだ」
 言いながらロクスは、心のどこかで自分と同じ顔をした人間が、「とうとう認めてしまった」とつぶやいたのが見えた気がした。教皇になれない自分に何の存在意義があるのか、そんなふうに自分が自分自身に対して思っていたということが、とうとう眼の前に引き出されてしまったようで、軽い絶望を感じた。
 そうか、もしかすると服だったのかもしれないとロクスは思った。法衣の下にロクスが二枚目の衣服として着込んでいるのは、「男」であるという服であり、同時にそれは堅い鎧なのかもしれなかった。法衣を脱いでも自分には「男」であるという鎧が残っている。その鎧さえまとっていれば、女たちは自分の方をふりむいてくれるのだ。大丈夫だ、教皇でなくとも、教皇になどなれなくとも、自分はうつくしい男なのだから。きっと女たちは自分の方を見るだろう。だから自分はいつでも「男」として女たちに接するべきなのだった。それは言いかえれば、ロクスは女たちをいつでも「女」として見るべきものだと思って生きてきたということでもあった。
「おっしゃりたいことが、わかるような、わからないような……」
 ハナカズラは唇を指でいじりながら、考え込んでいる。ロクスは苦笑した。天使を責めるつもりはない。自分だって、我ながらよくわからないようなことを口走ったなと思ったからだ。
「しかし身共にも、なんとなくわかることがある」
 そう言うと、ハナカズラはロクスの正面に向き直り、居住まいをただして椅子に座りなおした。
「ロクス、わごりょは丸裸になるのが怖いのか?」
 問われてロクスは思わずのけぞるような姿勢になって息を飲み、何とも答えなかった。
「ようわからぬが……、わごりょはもしもご自分が教皇におなりになれなんだら丸裸におなりじゃと思うておいでやもしれぬが、しかしわごりょが裸だとおっしゃるなら、他の人間も同じように、実は元から皆、裸をさらして生きておるのやもしれぬぞ。じゃから……、裏を返せば、たとえ教皇におなりになったとしても、きっとロクスは裸ということではないかと身共は思う。でも、自分が衣服をまとうていると思うている限り、他人も皆衣服を着ているようにしか見えぬのじゃ」
 そう言い終えると、ハナカズラは何とも言えない難しい顔をしてロクスを見ていた。ロクスはしばらく考えてから、やがて静かに言った。
「僕もひとのことは言えないが、君は話が下手だな」
「身共もそう思う……」
「ちっとも意味がわからない」
 本当はそこまで思ってはいなかったが、ロクスはとりあえずそう言っておくにとどめた。
「急がずともよいじゃろう。そのうちお互いに意味がわかるときも来よう」
「運がよければな」
「ふむ……。身共が思うに、ロクスは運のおよろしい方ではなかろうか。この前の戦闘のときも、敵の切っ先がギリギリのところをかすめていったし、それから消費期限の切れた牛乳を召し上がっても平気でいらしたし、あと熟しすぎてつぶれかけたイチゴもおいしいとおっしゃって――」
「やっぱり君、僕を馬鹿にしてるだろう!」
 ひとつふたつと真面目くさった顔で指を折って数えていた天使に、ロクスは人差し指を思い切り向けて言った。
「とんでもない。悪運がお強いのはロクスの徳じゃと申し上げたいのじゃ。それでも危険な目に遭いなさるときには、身共が力の及ぶ限りお守りさせていただくゆえ、ご安心召されということなのじゃ」
 そう言ってロクスを見たハナカズラの眼の奥が笑っている。
 ロクスは無性に腹が立ってきた。そういうつもりならこっちにも考えがある。そう思って右手を天使の前に差し出した。
「わかった。じゃあ、これからもひとつよろしくということで」
 ロクスが穏やかに笑ってみせると、ハナカズラはまったく何の警戒心も抱いていないのが丸わかりな顔をして、
「うん」
 と言って右手を出してきた。その手をロクスは最初、男同士でするようにがっしりと握ったが、天使が屈託なく笑っているうちに、彼女の手の上に自分の左手を載せ、つまり両手で彼女の手を包み込んで逃れられないように抑え込んで、セクハラおやじがするように撫でてやった。
「んぎゃあぁぁぁあ!」
 ハナカズラが身体に電気でも走ったかのようなつぶれた声を出してとびあがる。彼女はロクスの手を振り払おうとぶんぶん振りまくったが、ロクスは一向に構わず押さえつけてやった。
 女の手を握って、これほどときめかなかったことはかつてないとロクスは思った。それどころか面白いとさえ思っていた。天使は甘いのだ。これが苦手だと言われたら試してみたくなるのが男というものなのに、それをわかっていない。男だの女だの関係ないと言われたところで、この原則に変わりはない。自分の弱みを告白してしまったこの女が悪い。
 そう開き直ってしまったロクスの内心を知る由もなく、ハナカズラは懸命に手を振りつづけていた。無駄だよと思いながらにやついていたロクスは、彼女が耳まで真っ赤になっていることに気づいて、自分も顔が火照ってしまった。馬鹿だなこの天使は。こんな反応を示されたら、男は自然に血流がよくなることをまるでわかっちゃいないらしい。
『君も修行が足りないな。悪い男につけこまれるなよ』
 と、ロクスは心の中だけで言った。代わりに口からは、別の言葉が思わず飛び出た。
「ゆでダコみたいだ、まずそうなタコだな」
 そのとき抵抗をつづけていた天使の努力が実り、彼女は自由になった右手でロクスの顎にアッパーカットを決めた。

・ 噛まないように噛む話/終 ・



 お読みくださいましてありがとうございました。この話は「首吊りの木」という話の後日、という感じで書いております。
 結局ロクスも天使もアホだな……というだけの話のような気もします……。ちなみに私自身は、ロクスとクラレンスは、そんな外見のイメージほどには女好きじゃないんじゃないかと思います。それほどスケベではないんじゃないでしょうか、あの手のタイプは多分……(笑)。

 しかしどうでもいいけど、こんなに騒いで大丈夫なのだろうか、この宿屋。それだけが心配です。