男天使ベリーランドはナーサディアに肩を貸し、酒場の二階へつながる階段をのぼっていた。いつかの店と同じように、この酒場も二階が宿屋になっている。そしてナーサディアは酔いつぶれて自分の足でまったく歩こうとしないし、階下はむさくるしい酔っぱらいの声で騒がしいし、これは本当にいつかの夜と同じだと思い、ベリーランドは嘆息した。
 ここ最近、こんなふうにナーサディアが前後を失うまで酒を飲み、彼が部屋まで送り届けるということが増えた。実体化して人間の姿になっているベリーランドにとって自立歩行をしないナーサディアの身体は、浜辺に打ち上げられたトドのように重い。トドを持ち上げたことはないが、トドは酒を飲んで酔っ払うことはないので筋肉は弛緩しない、よってトドの方がもしかすると軽いかもしれないと、ベリーランドは勝手に仮説を立てた。
「ナーサディア、おい、鍵。鍵をくれ」
 うなだれているナーサディアの耳元にこのセリフを言うのにも、ベリーランドは慣れてしまった。ナーサディアがもぞもぞと出した鍵を受け取って客室のドアを開け、灯りもつけずに彼女をひきずって中に入る。少し本気を出せば人間の姿とはいえ、彼女の身体を抱え上げるくらいのことはできる(はずである)が、ベリーランドはそこまでサービスする必要はないと思った。引きずられても文句を言う気が起こらぬほどに自分を失っている彼女が悪い。
 ベリーランドはそう考えていたが、何故ナーサディアがこれほど飲むようになったのか、その理由の見当がつかないこともあながちなかった。が、もう少しときが経てば、彼女の心のありようも少しは落ち着いてくるだろうとも思ったので、何も言わずに酒につきあい、部屋まで送り届けるということをくりかえしているのだった。
 その夜もナーサディアをベッドまで運んでお役御免のつもりでいたが、前かがみになって彼女の身体を降ろそうとしても、何故か全然降ろせない。ふと胸元を見ると、指先に透明ネイルの光る彼女の手が自分のシャツをぎゅっとつかんでいる。背中にも、もう片方の手がまわっているのが感じられた。
「あのー、業務妨害せんでもらえます?」
 さっさと寝なさいや、とベリーランドはことさら軽い調子で言いながら、胸元からナーサディアの手をひきはがそうとした。が、ナーサディアはまったく動じない。それどころかなおさら彼に掻きつくように身体を密着させてくる。
 ベリーランドの眉間に、深いしわが寄った。
「ねえ、ベリーランド」
 気がつくと、ナーサディアは彼の肩口に顔をおしつけている。くぐもった声で名を呼ばれて、ベリーランドは「何よ」と低い声で尋ねた。
「いいにおいね」
 ナーサディアがそう言うと、ベリーランドはため息をつき、少ししてから額をぼりぼり掻いた。何がいいのかしらないが、体臭を嗅がれた上に感想を言われて恥ずかしくない人間(おそらく天使も)は多分いない。
「ほんまにもう寝ろって」
 というか寝てくれ、と心の中でベリーランドはつけくわえた。
「寝る。寝るけど」
 ナーサディアがちょっと顔を上げる。そしてまたぐっと彼のシャツを力強くつかんだ。
「一緒に寝ましょう」
 ナーサディアが言った。冗談めかしたふうもなく、切実な様子もなく、ただあっけらかんとそう告げた。
 ベリーランドは眉をひそめ、眼を細めてナーサディアの顔を見た。ナーサディアは、酔っぱらい特有のどろりとした眼で笑う。ベリーランドも口角をあげて笑んだ。そして次の瞬間、彼は自分のシャツをつかんでいた彼女の手をつかみはがし、またたくまに体勢を入れ替え、ナーサディアの身体を背面からベッドの上に投げ落とした。天界では「ローリング・ビッグストーン」という垢ぬけない名前で呼ばれる柔術の一技であるが、ある地上界では「JUDO」という格闘技のうちの「背負い投げ」と呼ばれる技であった。
 ナーサディアの身体はベッドの上で小さく数度バウンドしただけで済んだ。彼女は仰向けの姿勢で、眼を大きく見開いて天井を見ていた。それからゆるゆると上半身を起こし、茫然とベリーランドをみつめて言った。
「何……。何なの、これ……」
「しょうもないことぬかしおって。ちっとは眼ぇ覚めたか、酔っぱらい」
 ベリーランドはベッドの傍らに仁王立ちになり、ナーサディアを見下ろしながら言った。
「足りんかったらもっぺん投げるか。いくらでも相手するぞ。こっちはベッドには上がらんけどな」
 ナーサディアは身震いした。
「冗談。何で投げられなくちゃいけないの。何をそんなに怒ってるのよ」
「何を怒ってる? やかましい。自分自身と他人に対する恥を知れ」
 重い声で一喝すると、ベリーランドは大股で部屋の中を縦断していき、音がしそうなほど激しい勢いで背中から翼を出した。そして、ふりかえりもせず窓から外へ出て行った。
 ナーサディアは、また茫然とその後ろ姿を見送った。


 店の外に出ると、ベリーランドは空に向かって呼んだ。
「グレアム」
 ただ名前を呼んだだけだが、雲は悪事を見咎められたかのようにおののき、そうして人型になってベリーランドの傍らにまで降りてきた。観察役天使のグレアムだった。
「ああ、今日おったんや」
 ベリーランドは観念したような顔でため息をついた。
「はい、今日はあなたを観察する日だったものですから……」
 心なしか、申し訳なさそうな顔をしてグレアムが言った。
「さっきの見てたか」
「は、はあ……。見て……おりました」
「ガブリエルさまへの報告はこらえてくれ。あんなんは、大天使さまに知らせるようなことやない」
「まあ、その、はい……、そうですね……」
 言葉を濁しながら、グレアムはバツが悪そうに口許を押さえた。
「頼む」
 苦いものを食べたような顔で、ベリーランドは頭を下げた。
「しかし、珍しいですね。あなたが怒りをあらわになさるなんて」
 グレアムは、何かをうかがうような落ち着かない表情で、ベリーランドをちらちら見やった。
「あの、ところで、あなたは何故あれほどお怒りになったんでしょうか」
「あぁ?」
 まだ頭を下げた姿勢だったベリーランドは、眉間に深いしわを刻んで顔を跳ねあげた。
「いっ、いえ、その、お気に障ったのなら謝ります。ですがその、私の不勉強ゆえにわかりかねまして。いつものあなたなら、冗談だとおぼしめして受け流すくらいのことはなさったのではないかと」
 両の掌を見せた「降参」のポーズで、グレアムはおろおろと言う。
「馬鹿を言うな」
 ベリーランドは凄みのある眼でグレアムを見据えた。グレアムは小さく首をすくめた。
「冗談には性質の良い悪いがある。その分別もつかんなったやつに、つきおうてられるか。ああいう冗談をナーサディアが言いなれてるかと思うと怖気がたつ。またそれを自分も言われたかと思うと、あの女をしばきたおしたくなる」
「おそろしいことを言わないでくださいよ……。あなた、そんな攻撃的な方じゃなかったでしょう」
 グレアムが本気で心配しているような声を出したので、ベリーランドは顔をしかめ、大きな息を吐いて頭をガリガリ掻いた。
「確かにちょっと短気を起こしたかもしれん。イラついてたのもあった」
 そしてうわごとのようにつぶやいた。
「実体化してもトドくらい軽々抱えられるよう、本腰入れて鍛え直そう」
「え、何です?」
 グレアムが訊き返したが、ベリーランドはそれには返答せず背中の羽を大きく動かし、すいっと上昇すると、そのまま天界へ帰っていった。


 朝になった。
 ナーサディアは、日が高くなるまでベッドの上で仰向けになり、天井をじっと見ていた。窓にはカーテンが引かれていなかったので、時間がたつにつれ部屋に挿しこむ陽光が眼に痛いほど強くなった。彼女はのそりと起き上がり、衣服を直し、ふらつく脚で階下へ降りて水をもらい、主人にもう一泊することを伝えてまた客室へ戻った。
「頭痛い……」
 彼女はこめかみのあたりを押さえながら前夜のことを反芻しようとしたが、余計に鈍い痛みが走るようになり、うまく思い出せなかった。
「だけど、どこかで見たような気がするのよね。あれって何だったっけ……」
 ふと、ひとりごとが口をついて出た。何のことを言っているのか自分でもわかりかねたが、頭の痛みに任せて眼を閉じているうちに、ふと、彼女の脳裏にはっきりと浮かんだものがあった。
「わかった……。アレだわ。白蛇……」
 ナーサディアは無意識のうちに、ごくりとひとつ息を飲んだ。いつか立ち寄ったどこかの街に「自然公園」というものがあり、その中の動物保護施設でアルビノの蛇を見たことがある。アルビノとは、生まれながらに色素が欠乏した生体だとナーサディアは聞いたことはあったが、実物を見たのはこのときが初めてだった。少し黄色がかったような白色の身体に紅い血色の眼を持った蛇は、一緒に飼育されていた普通体のニシキヘビと比べると、どこか痛々しげに見えた。が、彼女の隣で見ていた子どもがふざけて飼育場のアクリル板をたたくと、途端に蛇の様相が一変した。蛇たちは鎌首をもたげて一斉に威嚇の体勢をとった。そのときナーサディアは思わず息をひそめたのだ。ニシキヘビに混じったただ一体だけのアルビノの蛇が、鋭い毒牙を見せているさまはどの蛇よりもいかめしく、何だかこの世のものではない存在が怒っているような神々しさすら感じたからだった。
「あの顔に似てるんだわ。昨日の顔」
 ナーサディアは前夜のベリーランドの形相を思い出し、小さく身震いした。白髪に赤眼の男天使の色味は、あのアルビノの蛇とまったく同じだ。怒ると、意外に鋭い犬歯も見えた。
「だけど、あんなに怒らなくたっていいと思うのよ……」
 つぶやきながら、ナーサディアは枕を握りこぶしで何度も殴っていた。
「あんなの、冗談に決まってるじゃない。それくらいのこともわからないくせに、あの男何て言った? いつもみたいに『アホか』で済ませりゃことは足りるのに、それを、あの男、あの男……」
 うわごとのようにくりかえすナーサディアの眼には、いつしか涙がたまっていた。あまり自覚していなかったが、それでもうっすら気づいていることが彼女にはある。最近こんなふうに、ちょっとしたことでも涙ぐんでしまうことがたびたびあるということだ。以前は――すくなくともラスエルがいなくなってから数十年経ったここ数年の間には、そんなことはなかった。近年の彼女は、他人のことも自分のことも常に客観的に眺めることを身につけていたので、他人の喜びも悲しみも、そして自分のそれも、いつも薄い膜の向こうにあるように捉えていた。だがそれが、何故かここ最近は、急に生々しくなってきたというのか、客観的に捉えるより先に感情の方が自分に向かって逆流してくるような気さえするのだった。
 ナーサディアの意志に反して、眼の端の涙はゆっくりふくらんでいく。それがしずくになって落ちそうになった頃、窓の外でかすかな物音がした。顔を上げて窓の方をみやると、猫よりもさらに小さな豹柄の尻尾がひょこひょこ見え隠れしている。
「リリィ?」
 ナーサディアが小声で呼ぶと、窓枠にぴったり貼りつくようにして隠れていたらしき妖精のリリィが、おそるおそるといった様子で顔を出す。
「おはようございます。あの、お取り込み中では……」
「いいえ。いいえ、全然。入って」
 ベッドの上に座ったまま、ナーサディアは枕を端へ片付ける。
 リリィは頭を下げながら、遠慮がちに部屋へ入ってきた。
「なぁに。急ぎの用事でも?」
 両手で顔をあわててこすり、ナーサディアは少しだけ笑んでみせた。
「いえ……」
 言い淀んだリリィは、じっとナーサディアの眼のあたりを見ている。
「さしでがましいとは思いますが、気になりましたので。ナーサディアさま、昨夜、ベリーランドさまと何かおありでしたか?」
「何か? 何かって?」
 リリィに問われて一瞬顔がこわばりそうになったナーサディアは、それでも明るい声でそらとぼけた。
「いえ、何もないのでしたらいいんです。私の思い過ごしだったかもしれませんね」
 リリィは心底恥ずかしそうに口許を押さえ、ナーサディアに向かって頭を下げた。その律儀な様子に、ナーサディアの心が少しだけ痛んだ。
「どうしてそんなふうに思ったの? そっちこそ、何かあった?」
 リリィは苦しげに笑った。そして、少し考え深げに視線を落として言った。
「いえ、むしろ何もなかったんです。いつもならベリーランドさまは、夜遅く帰って来られても、必ず甘いものを召し上がってからおやすみになるものですから。昨夜は何も召し上がらないですぐおやすみになったので、妖精一同気味悪がって」
「ま、まあ……」
 ナーサディアは返答に困って愛想笑いを返した。そんなことで気味悪がられるとは、ベリーランドはよほどの甘党らしい。
 それにしても、と彼女はふと思う。普段と様子が違ったということは、ベリーランドも昨夜のことは何事か心に引っかかってはいるのかもしれない。
 そんなことを考えていると、リリィが何かを読み取ろうとするかのように、自分の眼をじっとみつめてきていることに彼女は気づいた。
「まあ、そうね。確かに何もなかったの。そう、むしろこっちも何もなかったのよ。だけどね……」
 そこでナーサディアは言葉に詰まった。涙が眼の端にぶり返してくるような気がして困ってしまったのだ。
「ナーサディアさま?」
 リリィが気遣わしげな声を出す。その声に、ナーサディアの琴線が揺れた。
「恥を知れ、って言ったのよ。あのひと、私に恥を知れって言ったの。どう、その言葉」
「まあ」
 リリィは絶句して口をあけたまま、眉根を下げた。
「私、なさけなくて。そんな言葉使われたの、初めてだったから」
 我ながら女々しいことを口走っていると思いながら、ナーサディアはそれでもリリィに言わずにいられなかった。天使の補佐妖精の中でも、もっとも思慮深くて落ち着いていて、何事も長期的な眼で見るリリィのことを、ナーサディアは無意識のうちに頼りにしていたのかもしれなかった。
「何がおありだったのかはわかりませんが、何がおありにせよ、その言葉はきついですね」
「うん。そうなの……、きつかったのよ……」
 リリィが詮索も否定もせずに返事をしてくれたので、ナーサディアは思わず鼻をすすりながら涙声を出してしまった。


 午後からベリーランドは、ベテル宮の庭にある大木の枝に足をかけ、逆さ吊りの姿勢で腹筋運動をしていた。勇者のところから帰ってきて昼食をとったシェリーとフロリンダが、遠巻きにそれを見ている。
「シェリーちゃん、フロリン心配ですぅ……。ベリーランドさまが冷蔵庫のプリンもババロアも食べないで、あんなに運動しちゃってるなんて、もしかしてインフォスの危機は、本当はもっともっとやばかったりするんじゃないかってぇ……」
「いやーフロリン、それは思い過ごしだと思うなー。ベリーランドさま、ひょっとしたらお見合いでもするつもりかも。それか、急に女のひとにモテたくなった」
「う~~~~ん。あるかもぉ。あと、単にお腹が出てきたとかぁ」
 益体もない会話をしているふたりの横を、リリィがすうっと飛んでいく。
「あ、リリィちゃん、おかえりなさいですぅ」
「おつかれー。ごはん食べたー?」
 ふたりの声に、リリィはちょっと片手を挙げて答えてみせただけで、ベリーランドのいる大木まで一直線に飛んでいった。
「ん。あぁ、リリィか」
 逆さの格好で静止し、ベリーランドはリリィに声をかけた。リリィはベリーランドの顔がよく見える位置まで飛んでいき、にっこり笑って言った。
「ベリーランドさま、『恥を知れ』はきついですよ」
「え?」
 ベリーランドが声を上げたときには、もうリリィは少し離れたところまで飛び退っていて、そこで小さくお辞儀してつけくわえた。
「私だって、男の方から言われたら、びっくりして泣いてしまいます」
 リリィはそう言うと、また深くお辞儀した。そして、ふりかえらずに静かに遠くまで飛んでいった。
 ベリーランドの足の力が抜けた。そうして頭からゆっくり地面にずり落ちた。
「泣くかねえ、あの程度で……」
 草の上に仰向けの姿勢で、ひとりごとを言う。ナーサディアの泣き顔を想像してみる。ベリーランドが彼女の泣き顔を見たのは、それまでにただ一度しかなかった。ラスエルのことを訊かれ、彼のことを話して聞かせた日のことだ。そのときの様子を思い出し、ベリーランドは顔をしかめて堅く腕組みをする。
「いかん、頭痛うなってきた……」
 そうつぶやくと組んでいた腕をほどき、胎の底からため息を吐いた。


 再び夜が来た。
 ナーサディアは、宿屋の階下にある酒場で食事をとっていた。
 相変わらず店の中は騒がしい。紫煙がこもり、酒のにおいが壁にまでしみついている。その中に、ふと憶えのあるにおいが混じったので顔をあげると、ベリーランドがテーブルの脇に立っていた。
「ここ空いてる? 空いてるよな」
 ベリーランドは一応ナーサディアの向かいの席を指さしたが、勝手に自己完結して椅子を引く。
「何しに来たの」
 少し険のある声で、ナーサディアは尋ねた。
「晩飯」
 メニューを開きながら、顔も上げずにベリーランドが答えた。
「ここ、甘いものないわよ」
 ナーサディアが言うと、ベリーランドは片眉を上げて彼女を見た。
「寝る前のおやつ? 食べなかったそうね」
 フン、と鼻を鳴らしてベリーランドはメニューをめくる。
「アップルパイぐらい置いといてほしい」
「私、別にいらない」
 そう言ってから、傍を通りかかった店員にナーサディアは酒の追加注文をする。彼女の注文のあとに、するりとベリーランドが入ってきて、自分の分の酒と食べ物を注文した。
「酔いつぶれられる前に言うとくけど」
 テーブルを人差し指でコツコツたたきながら、ベリーランドが口を開いた。
「昨夜は別に、そっちを痛めつけようとか思うてたわけやない」
 ベリーランドは言葉のリズムに乗せるように、テーブルを指でたたきつづけた。
「確かに言葉はきつかったかもしれんが、こっちは別に腹立たしい気持ちばっかりで言うたわけやのうて」
「そのコツコツするのやめてくれる? 男のひとにそういうことされると、居丈高に思えるのよ」
 遮るようにナーサディアが言うと、ベリーランドは指の動きを止め、口を押さえてため息を吐いた。
「男とか女とか関係ない。もうちょっと素直に聞け」
「素直。どういうのがあなたの言う『素直』なの? 私は素直に、率直にやめてほしいって言ったの。素直に聞くべきはあなたの方じゃなくて?」
「やめよう。水掛け論になる」
「やめません。だいたい水掛け論って何よ。私は自分の気持ちを言ったの。理屈じゃないの、そのままとってほしいのよ」
「じゃあ、こっちも気持ちを言おう。素直に聞いてくれ」
「何よ」
「ああいう冗談は、俺は好きやない」
 ベリーランドの言葉尻が消えるか消えないかのタイミングで、店員が注文の品を持ってきた。しばらくふたりとも黙り込む。ベリーランドは自分が注文したウィスキーを口に含み、ナーサディアはフォークをいじくった。
 店員が去ると、ナーサディアはフォークを置いて言った。
「じゃあいつでも本心で喋れっていうの? 冗談のひとつも言っちゃいけないって?」
「そんなことは言うてない。あの手の冗談と言うたはずや」
「なら、本気だったらいいって言うわけ?」
「あぁ」
 ベリーランドはこともなげに即答すると、鶏の手羽先を手際よく折り、長い指で口に運んでするりと綺麗に食べた。
「本気やったらええ。言われた方も、真剣に受け止めて考えることができるからね」
「本気だったって言ったらどうするの」
 少し意地悪い気持ちで、ナーサディアは思わずそう言ってしまった。
「心にもないことを言うもんやない」
 ベリーランドはふたつ目の手羽先を折りながら、気を悪くしたふうもなく笑った。そして折りたたまった肉片でナーサディアを指し、いっそう眼を細めた。
「ここんところの深酒の理由、当ててみようか」
 ナーサディアは眼を瞠った。そして数秒空中を見たあと、ベリーランドをにらむように見た。
 ベリーランドはそれには動じなかった。肉片を口に入れ、それから骨をまたするりと出すと、
「やっぱりやめよ」
 と、ぬけぬけと言った。その態度はナーサディアの癇に障った。
「言ってみて。判定してあげる」
 挑発めいた語気で彼女が言うと、
「それはどうも」
 と答えながら、ベリーランドはテーブルに備え付けのナプキンで手を拭く。そして、ぱっと眉を上げた。
「少し、リミッターがゆるくなってるかな。ラスエルの話してくれてからこっち」
 ナーサディアは顔をしかめた。
「どういうこと?」
「自覚がないんやったら、それでも構わんが……。ただ、こっちから見た限りでは、ラスエルとのこと話してくれてからのそちらさんは、なんかちょっと、浮足立ってるように思える」
「浮足立ってる、って……」
「いや、これも言葉が悪かった。責めてるわけやない。戸惑ってるように見える、と言うた方が正しい」
 右手を立てて額の前にかざし、謝るような仕草を見せてベリーランドはつづけた。
「ずっとラスエルとのことを誰にも言わずに秘めてきた。それを何十年か経ってはじめて他人に話した。大変なことやったろうと思うよ、多分ね」
 まるでここにいない人間のことを言うような、不思議な口調でそう言ったベリーランドは、どこか同意を求めるような眼でナーサディアを見た。ナーサディアはベリーランドの眼を見てからゆっくり視線をおろし、しばらくテーブルの上をみつめた。
「くやしいけど、認めるわ。あなたの言うこと、あながちまちがってはいないから」
 ベリーランドは眼を細めてナーサディアをみつめつづけた。
「栓が」
 不意に脳裏に浮かんだ画の一部を、ナーサディアは言葉にした。
「うん? 栓?」
「ええ、栓が、池の底にあった栓が抜けたの。そんな感じ」
 テーブルを凝視したままうわごとのように言うナーサディアの顔を、ベリーランドはのぞきこんだ。
「栓が抜けたら、水が渦になるわよね」
「うん」
「泥も舞い上がるわよね」
「うん、そうやな」
「知らなかったわ。栓がされてる状態が普通だったから」
「あぁ」
 ベリーランドは何度も小さくうなずくと、腕組みをして眼を閉じ、それでもなお小さくうなずきつづけていた。
「詩人やな」
 茶化すふうでもなくそう言った彼に、ナーサディアは眼が覚めたように顔を上げた。
「詩人なら、もっと綺麗なたとえをつかうわよ。泥とかじゃなく」
「いや、綺麗なものしかうたえん詩人は、そりゃ本当の詩人やない」
「あらそう……。でも私、別に詩人になろうとは思わないから、もうちょっと使い古されたいいまわしに変えるわ」
「どうぞ」
「……世界が動き出したの。ラスエルとのことが夢じゃないって確認できて、またインフォスの中に自分が戻ってきた感じ。ひとの声が、今までより何倍も大きく聴こえるような気がする。いろんなものが勝手に眼に入ってきて、勝手に何か感じてしまう」
「なるほど」
 ベリーランドが腕組みを解いて眼を開ける。
「が、世界は別に変わってなんかない」
「わかってる。私が変わってしまったのよ」
 顔をしかめると、また涙がわきあがってきそうに思えて、ナーサディアは唇を噛んだ。テーブルの上に置いた右の掌がふるえていた。
「ナーサディア」
 ベリーランドは少しだけ身を乗り出し、彼女の右手の指に触れるか触れないかのところに自分の左手を置いた。
「変わったわけやない。さっき自分で言うてたやろ。泥が舞ってるだけや。ずっと誰にも言えんものを抱えて生きてきた、そういう状況で沈殿したものが、今びっくりして踊ってるんや。汚れた泥やない。ひとは生きれば生きるほど、自分の中に何かが溜まる。その泥があるからこそ、得られるものもある。わかるか? もうちょっとしたら、また落ち着いてもとにもどる」
 ベリーランドは左手の指先で、まるで鍵盤のひとつひとつに指を載せるように、ゆっくりとテーブルをたたきながら諭すように言った。ナーサディアは、今度はそれをやめてくれとは言わなかった。触れそうで触れない男天使の指から生まれるかすかな振動が、そのときの彼女には不快ではなかった。
「もとにもどるなんて、そんな簡単に言えるかしら」
「ひとの芯のところなんて、そんなそうそう変わるもんやない。いくら池の水だの泥だのが舞うたとて、それは地表から上の話や。地盤は変わらん」
 そう言うと、ベリーランドは自分がテーブルをたたいていたことにやっと気づいたらしく、一瞬自分の左手を注視し、膝元までひっこめた。
「実際変わってないやろ。ラスエルのこと、おぼえてるよな」
「おぼえてるわ……」
「ああ。それに、ラスエルへの気持ちも」
 ベリーランドに問われて、ナーサディアはゆっくり彼の眼を見た。彼の眼は、笑っているようでもあり、遠くを見ているようでもあった。
「ええ、そうね。変わって、ないわ……」
 ナーサディアが答えると、ベリーランドは眉根を下げて眼を閉じ、笑んだ口許に手を当てて何度もうなずいた。
「そうか」
 ナーサディアには、ベリーランドのその相槌の声は、決して笑ってはいないように聴こえた。が、彼の顔は確かに笑っていた。まるでいつか見たどこかの神像みたいに、ここではない別の世界を見ながら、或いは昔を思い出しながら、また或いは誰もまだ生きたことのない未来を想像しながら笑っているようだった。
「野暮なことは承知の上で、敢えて言おうかと思う。老婆心からと思うて、笑うて聴いてくれ」
 ふと笑顔を消してベリーランドが言う。
「……何?」
「身体というものは、確かに自分がどう使おうが、減るもんではないかもしれん。ただ、ふと過去をふりかえったときに、自分が自分の身体を大事に扱うてきたという自負が持てれば、それは自分の心を支えてくれることもあるんやないかと思うんや」
 ベリーランドは一拍置いて、こめかみのあたりを掻いた。
「まあ、大事に扱う云々よりも、せめて粗末には扱うなと、自分の場合は姪がおるもんで、姪にもそう教えてきたつもり。教えてきたというか、願うてきたというべきか……」
 そう言うと、ベリーランドは頬杖をついてナーサディアを眺めた。「願ってきた」という彼の言葉が、ナーサディアにはヒリリと痛かった。それは彼女に向けられた体裁の言葉ではなかったけれど、ベリーランドが遠まわしに何かを彼女に伝えようとしていることは明らかだった。
「私も老婆心から言うわ。聴いてくれる」
「うん?」
「あなた、いつだってもってまわった言い方をするのね。もっとはっきり言ってくれていいのにと思うことがあるわ」
「今も思うたの?」
「まあね」
「じゃあ、それでええよ。こいつはっきり言えよと思うてもらえたら、それでええ」
 憎たらしい、と思いながら、ナーサディアは苦笑した。
「目論見通りというわけ?」
 皮肉をこめて訊いてやっても、ベリーランドはただ笑うだけで答えなかった。それからウィスキーをひとくち飲み、テーブルの上で両手を組みあわせた。そのさまは、まるで彼が自分に何かを願い出ているようにも見えたので、ナーサディアは一瞬どきりとした。
「どうも自分はやっぱり根が野暮らしゅうてね、今後も例の類の冗談には、簡単に切り返せるような気がまったくせん。自分の身体を安売りしとうないし、ほんでそっちの身体のことも自分の身体と同等やと思うてるから……」
 あぁ、とナーサディアはひそかにため息をついた。本当にこの天使は遠まわしに言う。もっとわかりやすく言おうと思えば、いくらでも言えるのだろうに。「もうあの手の冗談は言わないでくれ」とか「自分の身体を大切にしろ」とか……。
 そこまで考えて、ナーサディアは苦笑した。「自分の身体を大切にしろ」と言われたところで、「してるわよ」と自分はきっと答えただろう。こういう反駁も見越してまわりくどい言い方をしているとしたら、なかなかしたたかな男だわと思った。だから、わざわざ言ってみようと思った。
「私にも、自分の身を大切にしろって言いたいんでしょう。それはわかるわ。でも、あなたほど大袈裟にとらえるひとも、そうそういないと思うの。あれくらいの冗談、いちいちそんなふうにつきつめて考えたらキリがないわよ」
「それはこっちにもわかる。が、冗談も安売りしたらとんでもないことになるぞ」
「安売りって、さっきから気になってたけど、その言葉。私は自分の身体を安売りしたこともないし、冗談だって安売りなんかしてないわよ。私のこと、娼婦みたいな女だと思っているの?」
 思わず熱くなったナーサディアの口から出た言葉に、ベリーランドは一瞬絶句したように眼を見開いた。それから心底悲しげな顔をして、低い声で言った。
「馬鹿を言うな……。そんな簡単に、言い合いのついでみたいに出す言葉やない。あんなに危険な商売はないぞ。丸腰で、自分より大きな男の前に身体をさらすんや。運悪う相手が悪党やったときには、命を落とすこともあるやろう。その覚悟ができてるひとが、あの商売をやっとんねん」
 そこまで言うと、ベリーランドは両肘をテーブルにつき、両手で額をおさえたまま黙ってしまった。彼のこんな様子をこれまで見たことがなかったナーサディアは、自分が思いがけず彼の心に刺さるようなとんでもないことを言ってしまったのだと感じ、無意識のうちに歯をかみしめた。
 やがてベリーランドは顔を上げた。もとより紅い彼の眼は、さらに充血し濡れたように光っていた。そうして気を取り直したように座り直して言った。
「まわりくどい言い方はやめて、はっきり言おう。自分がいくら冗談のつもりで言うたことでも、それにつけこまれたら最後、取り返しのつかんことになる危険性もあると、こっちは言いたいんや。邪な相手に行き当たった場合、体格差がある限り男と女は決して対等やない。危険にさらされてる度合いが高いのは、普通、女の方や。やから冗談でも、簡単にあんなことをよく知りもせん男に言うなよ。命を大事にしてくれ。言いたいことは、結局それに尽きる」
 淡々と、だがナーサディアに言葉を挟ませず一気にそう言うと、ベリーランドは空中に視線を上げ息をついた。そして椅子を引き、
「帰る」
 と静かに言って立ち上がる。
「待って」
 ナーサディアは思わず声をかけた。
「もう少しいて。今帰られたら私、心の整理がつきそうにない」
 ベリーランドは椅子に手をかけたまま彼女を見た。
「冗談なんかじゃないの。本気で頼んでるの」
 苦しげな顔で、ベリーランドは椅子をまた引いてゆっくり座った。
「そんな断りはせんでええって……」
「だって、あなた怒ってるから」
「冗談かどうかくらい、顔を見たらわかる」
「私だって、あなたが怒ってるの、顔を見ればわかるわ」
 消え入りそうな声でナーサディアが言うと、ベリーランドは顔をしかめて嘆息した。
「怒ってるというか、あきれはててる。言われたとおり、自分は本当にまわりくどいなと思うて。今回の件なんて、昨夜あの場でさらっとはっきり言うとったらよかったんや。そんな冗談命取りになるからやめてくれって、それで済んだのに、わざわざ遠回りして、そっちの心の整理が必要な状態にまでさせて」
 うなるように発されたベリーランドの言葉に、ナーサディアは面食らった。
「もしかして、あなた……、自分に対して怒ってるの?」
「あぁ、なさけなくてな」
 ベリーランドはじっとテーブルの一点をみつめてしかめ面をしている。身じろぎもしないその様子に、彼の自責の念は自分の推量より遙かに大きいらしいことが、ナーサディアには想像できた。
「ごめんなさい……」
 急に、彼女の口からそんな言葉がついて出た。思いもかけず、するりと素直に押し出された。
「ごめんなさい、本当に」
 もう一度そう言うと、胸の芯から何かが遡ってきて目頭が熱くなった。
「いや。おい、泣くな」
 ベリーランドが慌てたように彼女をのぞきこむ。
「泣かれたら、こっちが謝れんなる」
「何を謝るの」
「あぁ、その、きつい言葉で言うたことと、あと、投げたことを」
 ベリーランドの言に、ナーサディアの胸の逆流がふと止まる。
「そうだったわ……。よく考えたら私、投げ落とされたんだったわ……」
「あれ……。ひょっとして、そっちは忘れて、た……?」
 ベリーランドは口に手を当て、明後日の方向に視線を泳がせた。
「よく考えなくても、あれは、ひどい、わよね……」
 じとっとナーサディアがみつめると、ベリーランドは苦笑いの顔でますます視線を四方へ泳がせる。
「反省してる……」
 やがて観念したようにナーサディアに向き直り小さく頭を下げると、ベリーランドはその姿勢のまま食べさしの手羽先の皿をナーサディアに差し出してきた。
「どうぞ」
「ってこれ、一本しか残ってないじゃない!」
 ナーサディアは不思議に胸がすいた気分で、いつものように怒ってやった。
 二階の客室へつづく階段を、ふたりでまた上がる。
 ナーサディアは久しぶりに自分の足で階段を踏み、自分の手で部屋の鍵を開けた。きしむ扉を開けながら、彼女はためらいがちに言った。
「どうぞ。入って」
 背後でベリーランドがうごめいて答えた。
「いや、ここで」
「まだもうひとつ、聴いてほしいことがあるの。悪いけど、すぐそこまででいいから入って」
 階下の酔った男たちの声と、自分の声が廊下で混ざって響いている。彼女はその場で話をする気にはなれなかった。
 ベリーランドとふたり、部屋の中へ入る。扉を閉めると、戸口で灯りもつけずにナーサディアは言った。
「さっきは、娼婦なんて言葉を軽々しくつかって悪かったわ」
「いや……」
「だけどあのとき、私が本当に伝えたかったのは、ああいうことを誰にでも言っているわけじゃないってことだったの」
 ナーサディアは空気にとけるほど小さな声で言った。ベリーランドは黙っていた。
「もし、誰にでも言ってるなんて思われてたら、それはあんまりにも辛いから……」
 ベリーランドはかすかにうなずくと、
「そういう心配は御無用」
 と静かに言った。ナーサディアは少し息を吐くと、眉を下げて笑んだ。
「念押しだけど、これは冗談でも何でもないですからね」
「わかってる」
 困ったようにベリーランドも笑った。そしてふと、眼を細めてナーサディアをじっとみつめて言った。
「こっちもそういえば、言い忘れてたことがある」
「あら、何を」
「さあ。言おうかな、どうしようかな」
 急に楽しげに自分をうかがい見てきたベリーランドに、ナーサディアはいぶかしんで言った。
「どうしようかな、って……。前振りしておいて言わないつもりなの? 気持ち悪い」
「そうか。じゃあ、言おう」
 ますます眼を細め、その奥の奥から彼女を捕らえるような顔をしてベリーランドは言った。
「男が女の涙に弱いというのは、多分あれは半分本当で、半分は嘘や。確かに眼の前で泣かれるとこっちは困りもするが、ときと場合にもよる」
「え? ……何の話?」
「涙の危険性の話。ええかな、おそらく一番厄介なのは、男のした話によって女のひとが泣いた場合。そういう場合、男は自分が泣かせたことにどこかしら満足する。うぬぼれる。そういう生き物らしい。やから涙を見られた相手の男には、まちがってもあの手の冗談は言うもんやない。理性のタガを外されたくなかったらな」
 そう告げると、ベリーランドは満面の笑みを見せた。
 ナーサディアは、返答に困って眼を見開いていた。
 するとベリーランドは、ふっと一瞬だけ真顔に戻り、
「冗談」
 と言ってからまた眼を細めた。それから、
「起きてる?」
 とのたまって、ナーサディアの顔の前に手をかざして上下に振った。
「あなたの冗談と本気の境目がわからない」
 眉をしかめて言ったナーサディアに、ベリーランドは喉の奥で笑って、「帰るよ」と言った。
「そうね。ええもう、帰って帰って。じきに寝るわ。おやすみなさい」
「はいよ」
 軽い調子で手をあげたベリーランドを、少し憎く思いながらナーサディアは言った。
「そうだ、この前私が寝ている間に、部屋に入ってきてたでしょう」
「何のことや」
「勝手に花を活けていくなんて、あなたしかいないわ」
「ああ、花か」
「もうあんなことしないでよ、変態って呼ばれたくなかったら」
「ちょ……、ひ、ひどい。こっちはそんなつもりは全然……」
 ベリーランドがつぶやいたので、ナーサディアは、「何か言った?」と訊き返した。
「いや。そんじゃ、また明日。任務の話持ってくる予定やから、昼前には起きといて。さすがに変態と言われるのには抵抗がある」
「私だって、さすがに昼まで寝てるとは思われたくないわよ」
「寝てるやん」
「昼には起きてます」
「あー、水掛け論。そんじゃ、本当におやすみ」
 ひらひらと軽薄そうに手を振って、ベリーランドは部屋の扉から出て行った。
 ナーサディアは、明日は昼前といわず朝になったらすぐ起きてやろうと、こぶしを握りながら心に決めた。

・ 朝をはさんでまた夜/終 ・



 お目通しありがとうございました。
 「夜のはざまもまた夜」という話の後日譚でありました。

 ナーサディアはイメージ的に、女性勇者の中では「お色気担当」「大人部門担当」「恋を知っている女担当」みたいな立ち位置のお姉さまキャラだと思うのですが、彼女に限らず、或る程度長く生きてきた大人だからこそ、ためらったり深く考えてしまったり、魔がさしたり、そして子ども以上に無様な姿を見せてしまったりということもあると思います。大人だからこそ、いつも格好つけてはいられない。いきがってばかりじゃいられない。そういう意味ではベリーランドという男もまったく同じで、無垢な天使ではないだけ、いろんなことを考え、格好もつけ、そらとぼけてみたり素直になってみたり、子どもの部分もあったり大人の部分もあったりすると思います(うちの天界は人間の思念からできたというふうに私が措定していますので、天使も人間と同レベルの思考や欲求や感情を持っていると私自身は設定しています。ですのでベリーランドは比較的年齢が高いということを抜きにしても、そもそもが人間と同じような私欲を持ち感情を持っている天使だと捉えていただけますと幸いです)。そういう、決して「少年少女」のような若者ではない男女が、友情とも愛情ともつかない感情を持ちながら、どういうやりとりをするかなということを、フェイバリットディアの世界観の中で今回考えてみました。

 人間の男女(今回は人間と天使ですが)の間には、必ずしも友情とか恋とかそういうわかりやすい名前のつく感情ばかりが生じるわけではないとも思うんです。何かわからないけれど、このひとには悪く思われたくない、このひとだったら信じてみてもいい、或いはこのひとの前だと何故か他のひとには言えないことが言えてしまう、とか、でも好きとか嫌いとか、そういう言葉で言い表すこともできない、そういうこともあるんじゃないかと思います。そういう相手に出会ったとき確実に言えることは、「会えてよかった」ということなのかもしれません。バスの運転手さん同士がすれ違うときに手を挙げ合うように別れればいい。友情でも恋でもないが相手の幸せを願っている、そういうなんとも不可思議な関係があってもいいと思いますし、実際あると思いますし、ナーサディアとベリーランドはそういう関係かなあと思います。何じゃ、このあとがき(笑)。