大天使ガブリエル配下の下級天使グレアムは、青くて裾の長い衣服を身につけていた。加えて彼の髪の毛は、藍色で長かった。だから彼は、地上界インフォスに降りてくるのには、昼よりも夜を好んだ。夜の方が、インフォスの守護天使であるベリーランドやハナカズラにみつかる心配が少ないと考えたからだった。が、一度ベリーランドにみつかってしまったことがあった。それ以来、グレアムはことさらにベリーランドを警戒し、もう決してあの男天使にはみつからないぞと肝に銘じ、いつも物陰に隠れ、小さな眼鏡の奥の鳶色の瞳で彼の仕事ぶりを観察し、逐次ガブリエルに報告しているのだった。
 その夜も、グレアムはインフォスに降り、ベリーランドがいるはずの酒場の上空で待機していた。ベリーランドはその店に、女勇者のナーサディアと共に入っていき、それから既に3時間は経過していた。だが、何時間経とうがグレアムには関係ない。彼は様々な地上界の守護任務に就いている下級天使たちを日替わりで見守る――言いかえれば「監視する」という重い役目をガブリエルから拝命しているからだ。今日はベリーランドを尾行すると決めた日は、徹底的にベリーランドを追う。それがグレアムの仕事であるので、彼はただそれを遂行するのみなのだった。彼には苦痛も疑問もない。彼はいつでも底抜けに真面目で、馬鹿がつくほど真面目で、本当に真面目なだけの男なのだった。


 酒場の入り口近くの席で、ベリーランドはウィスキーの入ったグラスに口をつけながら、ぼんやりと考え事をしていた。
「ねえ、チーズ食べない? 乳製品もとらないと」
 ナーサディアが言ったので、彼は「食べる」と、うなずいておいた。
 片手を軽く挙げたナーサディアのところに、若い男の店員が注文をとりにくる。
 ベリーランドはナーサディアの横顔を見た。彼女は酒が好きだった。だから酒のある酒場が好きだった。それから踊り子である彼女は、自分の「仕事場」である酒場が好きだった……ように見えた。それは、昼間の街や郊外の緑の中を散策している彼女の姿を、彼はほとんど眼にしたことがないからかもしれなかった。
「何がおかしいのよ」
 言われて見ると、ナーサディアがチーズの欠片をつまみながら眉をひそめている。
「何が?」
「今、こっち見て笑ってたじゃない」
「いや?」
「笑ったわよ」
「そうかな」
 それだけ答えると、ベリーランドはチーズをつまんで口に入れた。
「何か、腹立ってきたわね」
 言うなりナーサディアはやおら手を伸ばし、ベリーランドの左頬を緩くつまんで引っ張った。
「おい、おっちゃん、マゾやないんです、これでも」
 さして表情も変えず言った彼に、ナーサディアは「面白くもない」といった風情で手を離した。
 手持ち無沙汰なのだろう、と彼は思った。
 先刻から、店の奥で男たちの歓声が響いている。ナーサディアは、それをことさら無視するかのように、顔も上げずに酒を飲む。
「新ジャガの季節かー、追加で頼んでもええ?」
 メニュー表を取り上げて眺める彼に、ナーサディアは「ご自由に」と答える。片手を挙げてさっきの若い店員を呼びとめ、ベリーランドは追加の注文を告げた。その際、身体の向きを変えたのに乗じて、眼だけで店の奥の方を見やった。笛を吹いている男と、ピアノを弾いている店の主人らしき男、それから一段上ったステージ様の場所に、女がひとり踊っていた。女は薄様の衣を何枚も重ねたドレスを着ていて、まるでどこかの古代の女神のようでもあった。
「お上品な踊りね……。田舎に行くほど、お上品か下品なのか、どっちか極端なのが喜ばれるのよね。この町は、お上品なのが好みなのね」
 店員が去ったか去らないうちに、ナーサディアがそうつぶやいた。彼女は覇気に乏しい表情で、それでも品定めするような眼つきをして店の奥を見ていた。
「どうかね。まあ田舎って、信仰的な何がしかの特色があったりするやん。そういう意味で伝統的な踊りとか、喜ばれることもあるんかね。そういうのって『上品』に見えるのやもしれん」
「『伝統』なんて、所詮ひとの好みで決まるのよ。残って体(てい)の悪い伝統なんて、誰も残さないんだから。だけどそもそも人間なんて、自分一代だと長く生きたってせいぜい100年なのよ。そのくせ自分に至るまでの歴史全部を連ねて、自分のものにしたがるの」
 言いながらナーサディアは顔を元に戻し、それからもう店の奥を見ようとはしなかった。
「今日は、いつもより辛口なようで」
 ベリーランドは薄く笑って酒をひとくち飲んだ。
「そんなことないわ」
「そう。わかった」
「何がわかったの」
「『そんなことない』ってことが」
 ナーサディアは不満そうな顔をしている。
「私が愚痴っぽいから嫌なんでしょう」
「いやぁ、別に」
 ベリーランドは両の眉を上げ、おどけたようにナーサディアを見てから訊いた。
「今日は仕事はせんの?」
 頬杖をついた姿勢で、彼に挑むような眼をしてナーサディアは言った。
「他人の縄張りは荒したくないの」
「ほう。猫みたいなもんか」
「猫は喧嘩で済むでしょうけど、踊り子はブラックリストに載るの。裏で有名人になっちゃうのよ、縄張り荒しは」
「シビアやね」
「そうね。それにリスクを犯して縄張り荒らしたところで、この店では私は歓迎してもらえないわよ。ああいう踊りが好みなら――」
 すうっとナーサディアが口をつぐんだ。店員が湯気の立つ皿を持ってやってきたからだった。彼女は声を低めて続けた。
「私も古風な衣装をあつらえてくるしかないわね。天使の羽も貸してくれる?」
 彼は小さく笑った。ナーサディアの顔が、思ったよりも真剣だったからだった。
 店員が皿を置いた。新ジャガイモを蒸したものに、塩とバターが添えられているだけの料理だった。その若い店員は、「お待たせしました」と小さな声で言って伝票に記入をした。「ありがとう」と彼も応えて、テーブルに置かれた皿を中央に寄せようと手をかけた。皿は思ったよりも熱かった。
「あっ、熱いので、やけど、しないでください……」
 恐縮したように店員が言った。店員の指は真っ赤になっていた。
「ああ、お兄さん」
 去っていこうとする店員に声をかけ、彼はコインを渡した。店員は最初面食らっていたようだったが、やがて何度も何度も頭を下げて、どもりがちに礼を言って去っていった。
「この手の店でチップ渡す客なんて、泥酔してるのかと思われるわよ。店を出るときにはひとが変わったみたいに『さっきのチップを返せ』って言われるんじゃないかって思ったかもしれないわね、彼」
 ナーサディアの言に、彼は思わず眉根を寄せて笑った。
「やから、逆らわんと貰うとかなあかん思うて、受け取ったわけかな」
「そうかもね。固辞しちゃ、却って機嫌損ねる人間もいるみたいだから」
「そんなふうに言われたら、自分、何かすんごい厄介な奴になったみたいな気がしてくるなあ……」
 ジャガイモの皮を剥きながら彼は言った。皮はするりと綺麗に剥がれていくが、やはりひどく熱い。
「酒場には厄介な男が多いものよ」
 熱くて皮を剥けないのか、両の手の中でジャガイモを転がしながらナーサディアは言った。
「厄介な女は?」
 ナーサディアに向かって、彼は手を差し出した。ナーサディアが彼を見た。彼は、彼女の手の中の皮つきジャガイモを指し示す。ナーサディアは自分の手の中のジャガイモと彼の顔を少しだけ交互に見た。
「厄介な女? いい女なら、いたと思うわね」
 言いながら、彼女はジャガイモを彼に渡した。それを左の手で受け取ると、彼は右手に持っていた皮を剥いだジャガイモを彼女に渡した。
「……ありがとう」
 ナーサディアが言った。彼はまた両の眉を上げ、それが答えの代わりだった。


 一時間後、ベリーランドは無意識のうちに、自分の歩数を数えながら歩いていた。肩を貸しているナーサディアの足が動こうとしないので、余計に自分の足に意識が集中した。
 きしむ階段を上っていくと木の扉があって、錆びかけた鉄製の鍵穴がついている。彼はナーサディアの耳元に口を寄せ、うなだれて表情の見えない彼女に尋ねた。
「鍵は自分で持ってるか? それともフロント?」
 今しがた辞してきた階下の酒場から、どっと笑い声が響く。さっき道化のようなショウをやる芸人の男がいた。その男がきっちり仕事をしたのだろう。
「ナーサディア、おい、鍵」
 笑い声に負けないように彼は言った。ナーサディアは返事をしなかったが、うつむいたまま自分の腰の辺りを探り、細い玩具のような鍵を差し出した。
 受け取った鍵で扉を開け客室の中に入ると、ベリーランドは灯りもつけずに奥のベッドの方へナーサディアをひきずりながら、
「生きてるひと、手ぇ挙げて」
 と、歌うように言った。ひきずられながらナーサディアが弱々しく右手を挙げたので、ベリーランドは声をたてずに肩を震わせて笑った。ベッドの傍らに到着すると、「お荷物おろしますー」と言いながらナーサディアの身体を静かに下ろす。ナーサディアはもぞもぞと少しだけ動いてすぐに丸くなった。
 その様子を見下ろしてから、ベリーランドは窓の方を見やった。水あとでまだらになった窓ガラスの向こうから月の光が射しこんでいて、それが街のガス燈と混ざり、青く鋭く見える。向かいの店先の街灯には小さな虫がたかっていた。
 彼はゆっくりと部屋の中を見まわした。酒場の二階が宿屋になっているのだが、この部屋には洗面台すら備わっていなかった。階下であれほど飲み物や食べ物が溢れているので、余計にこの二階の様相が物さみしいように彼には思われた。
 ベッド脇の小さな台の上では、空っぽの一輪挿花瓶が、月明かりを受けてほの白く浮かんでいる。
 丸くなったナーサディアの髪の間からかすかに見える頬も、花瓶と同じ色をして冴え冴えと光っていた。
 ベリーランドは身じろぎもしないナーサディアを見やりながら、眉間にうすく皺を寄せて立ちつくした。しばらくしてから眉間をほぐすように揉むと、水を汲んでこようと思いたち、静かに部屋を出て一階へ向かった。
 階下の客は、まださほど減ってはいなかった。奥のテーブルでは先刻の踊り子が、身をちぢめるようにして食事を摂っていた。よく見てみれば、まだ少女と言ってもおかしくないような、いとけない雰囲気の残る横顔だった。同じテーブルでは、さっき笛を吹いていた男も静かに食事をしていた。男は踊り子の父親くらいの年格好に見えた。
 ベリーランドはカウンターの中に声をかけ、水がほしいと頼んだ。店の主人とおぼしき男が近寄ってきてくれたが、主人はふと何かに気づいたように動きを止めて尋ねてきた。
「お客さんは、あのお嬢さんの部屋のお連れさんかね」
「あーいや、一緒に飲んだだけで。部屋に泊まるのは彼女ひとりです。もう少ししたら、私は帰りますので」
 ベリーランドが愛想よく答えると、主人は複雑そうな顔をした。
「そうですか、そんなら、いいんですがね」
 主人としては、ひとり分の料金でふたり泊まられるわけではないと安心したのか、それとも、ふたり分の料金をとれずがっかりしたのか、どちらかそれは定かでなかった。
 そんなやりとりをしているうちに、先刻彼がチップを渡した若い店員が、水の入った水差しとグラスを用意して持ってきてくれた。店員は無言だったが、「どうぞ」というように水差しを手で指し示したので、ベリーランドも微笑して片手を挙げてみせた。店員はうなずいて、すぐにまた自分の仕事に戻っていった。
 水差しとグラスを載せた銀色の盆を持ち、ベリーランドは二階の部屋に戻った。ベッドの上でさっきと同じ格好で丸くなっているナーサディアを見て、花瓶台の上に盆を置いた。空っぽの花瓶がまた眼に入る。この店の主人には、妻や娘がいないのかもしれない、とベリーランドは思った。野菜を仕入れ肉を切り、酒樽を運びシーツを洗い、そんな作業を毎日あの若い店員とふたりだけでこなしているのかもしれない。ふたりには、花を摘んで飾るような時間も余裕もないのかもしれない。
 ふと、シーツのこすれる音がしたので、ベリーランドは再びベッドを見た。ナーサディアが仰向けの姿勢で眼を開いていた。
「水、もろうてきた」
 ベリーランドは、ナーサディアにも花瓶台がよく見えるように、身体をずらした。
「ここに置いてある。気持ち悪かったら飲め。それから出せ、トイレに行け。トイレは廊下の突き当り」
 言いながら、上着の内ポケットから細い鍵を出し、それも台の上に置いた。
「ドアの内側から鍵かけてる。鍵は、ここ」
 ナーサディアはそれには返事せず、ぼんやりした顔を月明かりにさらしながら小さく言った。
「――帰る?」
「帰るよ」
 ベリーランドは静かな声で即答した。
「そう。じゃあね」
 ナーサディアが言った。
「あぁ。じゃあね」
 ベリーランドも言った。それから彼は、窓に溶け入るようにして外へ出た。


 そろそろ日付の変わる時刻だった。気がつけば、さっきより街燈の光が減っているようだった。実体化をやめ、天使の姿に戻ったベリーランドは、いましがた自分が出てきた宿屋兼酒場の方を顧みる。この店だけは洋上の浮島のように、ぽっかりと明るかった。
 彼は天界に帰る前に一服しようと、店の裏手にまわり、上着のポケットから煙草をとりだしマッチで火をつけた。そして煙を吐きながら、月がさっきより暗いことに気がついた。雨雲のような雲がふたつにわかれ、黒い綿でも被っているかのようだった。この雲はさっきはなかったように思えるが、とぼんやり考え、ふと眉を寄せて煙草を消した。
「グレアム」
 ベリーランドは空を仰いで呼んでみた。空気に向かって言ったのではないという確信があった。
 空は黙っていた。ベリーランドも再び呼びかけはしなかった。その代わり、じっと空中の一点をみつめていた。しばらくすると、黒雲に手が生え足が生え、髪の毛が生まれ人型になって喋り始めた。
「任務遂行妨害ですよ……」
 藍色の髪の毛を月明かりにはっきりとさらし、グレアムが地面近くまで降りてきた。苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
「怖いで、顔」
 ベリーランドが指さして言うと、
「あなたのせいです」
 と、グレアムはにらみ返してきた。そして荒い鼻息をひとつ吐くと、咳払いをしてつづけた。
「今日も勇者と豪気に酒盛りですか。威勢のよろしいことで。しかし最近多すぎやしませんか。守護天使の仕事のうちにそんなものが含まれていたとは、今まで存じ上げませんでしたね」
「じゃ、今から憶えといて」
 のんびり返しながらベリーランドが煙草を差し出すと、グレアムは即座に「結構です」と断った。
「憶えるより先に、ガブリエルさまにご報告させていただく。私の一存で、何事をも判断することはありません」
 グレアムが言う。さっきよりも強い語気を帯びている。天使が酒を飲んだことに対して嫌悪を抱いているのではないな、とベリーランドは思った。むしろここで自分に呼びとめられ、姿を現してしまったことに腹を立てているのではないかと思った。何せグレアムはお役目大事な石頭のくせに、妙なところで間が抜けているときがある。
「おまえな、アカデミアのときから全然変わってへんよ。呼ばれたからいうて馬鹿正直に出てこんでも、さらっと知らんふりしてやりすごしたら済むんや」
 自分のアカデミア時代の一年後輩であるグレアムに、ベリーランドは諭すように言った。途端にグレアムは顔を赤くして反駁した。
「そういうあなたは変わりましたよ。寡黙で聡叡で、いつも規則をただのひとつだってやぶらなかったあなたは、一体どこへ行ってしまったんです」
「どこへも行ってへんよ。世の中の全部と同じで、経年変化しただけ」
 頭を掻きながらベリーランドは言うと、
「ちょうどよかった。そういや、まだ返事してもろてないことあったわ。この前頼んだ件」
 そう付け足し、グレアムをじっと見た。グレアムは顔をしかめ、口を引き結んでいる。
「何で固まっとんの」
「固まってなんかいませんよ」
「ひょっとして、おまえの一存では答えにくいか、ラスエルのことは」
 「ラスエル」と聞いて、グレアムのしかめっ面がさらにきつくなったようにベリーランドには見えた。
 彼がナーサディアからラスエルの名と、ラスエルと彼女との間にあったいきさつを聴かされたのはひと月ほど前のことだった。その数日後にグレアムの姿を発見し、自分と姪に「観察役」の天使がついていることを知った。そして自分にみつけられ狼狽しているグレアムに、ラスエルのことを調べてくれと頼んでおいたのだった。観察対象の天使に発見されるという失態をおかしたことをガブリエルに知られたくなかったらな、と少々の脅しもつけくわえて。
「答えにくいというよりも、そもそもお伝えできるような情報に乏しい。自分でも得心していないのです」
 グレアムは諦めたように軽く眼を閉じ、嘆息まじりに言った。
「それでもラスエルが、今天界におるかおらんかくらいはわかったやろ」
「それはわかります。天界にはいません。行方不明という扱いです」
「やろうね。アカデミアのときからこっち、全然見たことないもん」
「ええ、確かあの方は、あなたより二年先輩でしたよね。卒業して一年しないくらいで地上界の守護に就かれたのでしたか。それを伝え聞いてからあと、私もお姿をお見かけしたことがありません」
「そのときの『守護』ちゅうのが、前回のインフォス守護やったわけよね。それはもうとっくに終わってたはずやのに、俺らがあのひとを見かけたことがないっちゅうことは、そもそも天界には帰ってきてへんかったということか」
 ベリーランドは少年時代に見かけたことがあるラスエルという男天使の顔を思い出そうとしたが、いくら懸命に試みても思い出せなかった。しかしラスエルのことは、アカデミアの学生だった頃に見かけたことはあるはずだった。アカデミアの校長自慢の成績優秀な天使で、在学生一の有名人だったことは憶えている。ラスエルがインフォス守護に着任してからは一度も顔を合わせたことはなかったが、自身がその何年かのちにインフォス守護任務を拝命することになった際、ベリーランドはぼんやりとラスエルの名を思い出した。同じ地上界に何度も天界が介入するといった事例が、それまでなかったわけではない。しかしラスエルが守護に就いてから天界時間で10年ほどしか経っていないのに、今度は別の天使が同じインフォスを守護するといったようなことは、やはり異例のことであった。しかも今度は、天界は守護天使としてふたりの天使を投入した。ベリーランドとその姪のハナカズラである。大天使からはたいした説明がないにもかかわらず、ベリーランド自身は、何かあるなと漠然とではあるが勘ぐっていた。第一、あのラスエルは一体どこでどうしているのか、それがまったく耳に入ってこないのだった。
 天界は、あの優秀な青年天使を忘れてしまったかのようだった。それでもベリーランドは、いつか大天使の口からラスエルについて聞くだろうと思っていたのだが、ガブリエルもミカエルも、そのほかの大天使たちも、揃って口裏を合わせたようにラスエルの名を一切出さなかった。ベリーランドがラスエルを知っているということを、大天使方は当然把握していたはずである。その大天使の沈黙ぶりは、ベリーランドにはいささか鼻につくような気もした。鼻にはついたが、うっかり薮をつつくと、もっとキナ臭い火事場が顕れるかもしれない。だからベリーランドは、ラスエルという天使を憶えていないふりをした。
 だがある日、自身の勇者から思いがけずその名を聞いたとき、彼はまるで他人事のように少しだけ懐かしい思いがした。それからややあって、今まで自分が眼をそむけていた何かのピントが合ってくるように彼は感じた。
 ナーサディアは言った。
 私はラスエルの勇者だったのよ、と。
 ラスエルは、地上で一緒に暮らしてくれると言ったのだ、と。
 虫食いのパズルの絵が一箇所だけ埋まった。だが、他のピースはまだこの世のあちこちに散り散りになっている。ベリーランドは、それを少しだけでも集めてみたくなった。その気持ちは、彼の中の純粋な好奇心からくるものでもあった。
「なあグレアム、ラスエルは、ナーサディアに『地上に降りる』いう約束をしたらしいが、そんな簡単にそんなことできるもんかね?」
 グレアムはゆっくりと腕を組み、首をかしげたあと静かに言った。
「簡単に、とは言えないと思いますが、私が聞き及んでいる限りでは、それは特例措置としては比較的ポピュラーな事例に入るものであると言うことはできると思いますね」
「ポピュラ~? ポピュラーな特例措置?」
「ええ」
「何ちゅう矛盾まみれの言葉や」
 グレアムの眼が、小さな眼鏡の奥で光る。
「矛盾、していますか」
 グレアムのような手合いは、「矛盾」といった言葉に恐らく過剰反応する。自身にとって、それは最高ランクの恥だと思っているからだ。ベリーランドは慌てて話をそらした。
「まあ、たとえば、どんな手順でそれができることになっとんのかね」
「手順ですか」
 宙を見ながらグレアムは、気を取り直したように言った。
「ミカエルさま、ガブリエルさま、その他、大天使さま方各位にご承認をいただくことは勿論です。それから聖餅を拝し――、それが天界での最後の食事となります」
「そんだけ?」
「あとは、私もよくは存じ上げません」
 グレアムは小さく答えて唇を噛んだ。
「まあともかく、大天使さまのところに打診には行くわけよね。ラスエルが、『地上に降りたい』ちゅうて申し出てきた記録とかはないか?」
「それはありません」
 グレアムは即答する。
 ベリーランドは黙り込んだ。顎を右手でしばらく撫で、夜気を見据えてぽつりと言った。
「ナーサディアは、騙されたんかね」
「どうでしょうね」
「もしそうやとしたら、そうとう悪趣味やな。ラスエルというひとは」
 グレアムも黙り込む。その暗い顔を見て、ベリーランドはふっと表情をやわらげ、なんとなく慰めるように言った。
「ただ確かなんは、今ラスエルはのうのうと天界で暮らしてるわけやないっちゅうことやろ。ということは、何かあったんや。ナーサディアに嘘をついてなかったとしたら、約束を遂行できんなった理由があった。本人にとっては不可抗力の。そう考えるんが妥当やろ?」
 グレアムは説得された小さな子のように何度もうなずいて、
「妥当です」
 と大きな声で言った。ベリーランドは思わずふきだしてしまい、
「俺、おまえ好きよ」
 と言った。途端にグレアムは顔を真っ赤にし、そしてすぐに真っ青にして狼狽しきった声で言った。
「何ですか、その言葉は。何か含みがあるのですか」
「何も含んでない。嫌いやないし、興味ないわけやないという意味」
 この手の軽口は相手を見て言うべきだったと反省し、ベリーランドは話を元に戻した。
「まあなぁ……、『地上に降りる』こと自体がそもそも禁忌やないんなら、ラスエルは本気でナーサディアに約束した可能性が高いかもしれん。それが守られんかったのには、やっぱり何ぞ訳がありそうな気もするちゅうか、訳がない可能性の方が低いかな」
「……そう考えると、ラスエルという天使、さほど悪いことは」
「してない、ちゅうことに」
「なりますね」
「そうね」
 とにもかくにも、大天使を詰問すればパズルのピースは出てくるはずだ。だがベリーランドは、そこまでのことをしようとは思わない。インフォス守護というこの任務が、天界の構えた「盤」であるとしたら、自分や姪はそこに立つ一番下級の「駒」だと思っている。その駒が知っても害にならない程度のことだけ把握しておけばよいと思っている。
 ただ、これを「盤」だの「駒」だの思うのは、天使である自分の理屈であって、人間にとってはそんな話ではないだろう。もしラスエルが本気でナーサディアと共に生きることを約束したというのなら、ラスエルの眼にもインフォスはもはや盤上に描かれた絵などではなく、自分の生命ごと預ける生々しい大地に見えていたことだろう。
 ベリーランドは我知らずため息をつく。そこまで強い気持ちを想像するだけで、彼は疲れてしまう。疲れるのならラスエルのことを考えるのをやめればいいが、そうもいかないのがナーサディアのはずだ。彼女はラスエルを忘れることはできない。考えることをやめることもできない。何故なら彼女が今の姿で生きているのは、他ならぬラスエルに起因していることであると考えられるからだ。
「……一服したし、そろそろ帰ろうかね」
 もはやグレアムとラスエルについて話すことはない。ベリーランドはグレアムをじっと見て、それからちょっと笑って言った。
「これからも、呼んだら返事してくれるん?」
 グレアムは、ぐっと息をひとつ飲むような音を立てた。
「わかりません。ですが、返事をした方がよいと思えることがあれば、します」
「助かるわ。天界で声かけるわけにいかんもんな」
「また私に間諜まがいのことをさせるつもりですか」
「人聞きの悪い。上司に肝心なことを教えてもらえん兵隊に、ちょっとだけ味方してくれっちゅうことよ。気が進まんかったら、俺が呼んでも無視しとったらええ」
「無理ですよ。そうしたらあなたは私の失態を、ガブリエルさまに報告なさるでしょう」
「なあ、さっきも言うたが、俺はおまえが嫌いやない。姪を観察するんも、おまえやったら構わんと思てる。従って、俺はおまえが観察役から下ろされることは望んでない」
 真顔でベリーランドが言うと、グレアムは押し黙った。こいつは何を考えているのかなとベリーランドはグレアムを見ながら算段したが、いずれにせよ、こういうときに軽々と返事のできない堅さがグレアムの好ましいところであると彼は思った。
「どういう返事をすればよいのかわかりませんが、とにかくあなたがそれほど意地の悪いひとではないということだけは理解しました」
 声をようよう押し出すようにグレアムが言ったので、ベリーランドは眉根を下げて苦笑しながらことさら軽い調子で返した。
「こういうときは、『あーはいはい』って返事しといたらええのよ。わかってのうても『はーい、わかりましたー』って」
「そんな軽剽な返事をするくらいなら、いっそ黙っていた方が、まだ相手に対して少しは誠切ではないでしょうか」
「おまえのその無言の内側にあるものを、想像してくれる相手やったらね。たいていのひとは言葉をほしがるもんやぞ。そういうひとからすると、黙ってるのは不誠実に見える」
 我ながら先輩風を吹かしているなと思いつつ、ベリーランドは耳のあたりを掻いた。
 グレアムはちょっと鼻を吸い込むような音を立て、
「そういうものですか」
と、小声で言った。
「うん、まあ別に、誰にでもぺらぺら喋れというわけでは勿論ないが」
 言いながらベリーランドは、自分の足許に白い小さな花が咲いているのをみつけた。二輪あった。このままだと誰かに踏まれてしまうのではないかと思った。だから摘んだ。
「お疲れさん」
 そう言って、一輪をグレアムに渡した。グレアムは眼を瞠って尋ねてきた。
「何です? これ」
「ヨメナの仲間かなあ、見たところ」
「品種ではありません。何のつもりです」
「何と言ってよいのかわかりません」
 ベリーランドは「無言」をつらぬくことにした。特に意味はない。グレアムが首をかしげる姿がおもしろかっただけなのだった。


 ナーサディアは、男天使が部屋から出ていったのを感じ、ベッドの上で身を起こした。
 花瓶台の上には、水の入った水差しとグラス、それから鍵がきちんと並べて置かれてあった。昼間この部屋に着いたとき、この台の中央に置かれてあった空っぽの花瓶は台の端にどけられていたが、月明かりを受け、部屋中の何よりも白々と冷たく光っていた。
「水飲め。それから出せ」
 ナーサディアは男天使の言を真似てつぶやいてみた。
「酔ってないっていうのよぉ!」
 枕を高く持ち上げて勢いよくベッドの上に落とすと、自分の顎のところまで跳ね返ってきて、ナーサディアは馬鹿馬鹿しくなってしまった。
 彼女は、何故今日自分はこんなに酔ってしまったのだろうと思った。明るかった階下の店の様子が脳裏に浮かんだ。薄様を重ねたドレスをまとった若い踊り子の姿が浮かんで消えそうになって、けれどそれは消えなかった。
 綺麗だった。
 そう思った。階下で見た若い踊り子に彼女は嫉妬した。自分より年下だったからではなく、あの踊り子には明日も明後日もそのまた次の日も、違う太陽が昇って朝がやってくるのだと思い、そのことに心から嫉妬した。
 水差しの水をグラスに注ぎ、少しだけ口に含んだ。そうしてナーサディアは、ぼんやり思い出す。
 ベリーランドと出会ってからそう経っていない頃に、エスパルダのゾーナという森にさしかかったことがあった。
 そこには紅い花が咲いていて、よく見てみれば至るところに群生していた。ナーサディアはその景色に見覚えがあった。いつかラスエルと一緒にこの森を抜けたことがあった。そのときもこの花が咲いていて、この花の名前を知らなくて、そうしてただ通りすぎてしまった。この花が咲いていた近くに、石でできた何かの記念碑があって、その碑の辺りには大木がそびえていて、その下だけ大きな陰になっていた。だから紅い花はその陰を避けるように、取り囲むようにして生えていた。少し離れたところから、紅い花が石碑を守っているように見えた。そんな記憶があった。
 ナーサディアは、その石碑を探して歩いた。少し歩くと見覚えのある影が眼に飛び込んできて、彼女はそこで足を震わせた。石碑は朽ちずに残っていた。苔むして、刻まれた文字はもう判読できなかったけれど、石碑は確かにそこにあった。
 懐かしい友人がまだ生きていた、そんな思いがした。
 ただ、いつかの景色とはどこか違うような気もした。記憶違いで、本当はこの場所ではなかったのだろうかとも思ったが、そういうことではなかった。100年前に見上げた大木は、巨大な切り株に姿を変えていた。大木がつくっていた木蔭はそこになく、石碑のすぐ傍らにまで紅い花の絨毯がせまっていた。
 それは、いつか見た光景だったけれど、いつか見た光景とは違っていた。
 前に来たときは。
 ナーサディアは誰にともなくつぶやいた。
 前に来たときには、石碑の周りに花があったの。遠巻きにして、碑を花が守っていたの。でも今は、石碑の隣まで花でいっぱいね。
 いつか見上げた木は切り株になって、降りかかってくる陽光を身体全体で浴びている。指でなぞると、年輪の筋が、ナーサディアにこの木の生きてきた年月を教えてくれる。それから、吹いてくる風はどの方角からやってきているのかも教えてくれた。
「こっちが南ね」
 ナーサディアは指差して言った。年輪の形が教えてくれる南からの風。もうこの木には枝葉はない。もうこの木には陽光を遮る力はない。ラスエルと見た頃の姿ではない。そのことはナーサディアの胸のうちに、鈍い擦り傷をつけた。けれど切り株は示している。風は南から吹いていると。切り株になって無防備になって何の力もなくなってしまったように見えるけれど、それは切り株にしかできないことだった。
 ナーサディアが指差した方角をベリーランドも見た。南から射す陽光は、まだらの陰を地面に落としていて、それは天使の白い顔の上でもこごっていた。
 私は100年前にも天使の勇者だったのよ。
 このときナーサディアは初めてそれをベリーランドに伝えた。
 そうして今になって思う。そのことを彼に伝えることで、自分は何かから逃れようとしていたのではないか。ベリーランドにラスエルのことを教えてもらおうとしたのかもしれないし、調べてもらおうとしたのかもしれない。それは直截的に自分を自由にするということではないかもしれないが、ただずっとこのままで脚踏みを続けなくてはならない恐怖からは、少しでも逃れられるはずだと思ったのかもしれない。
 自由。恐怖。それは具体的には一体何なのか。自分は何から自由になりたくて、何を恐れているのだろう。
 そう思い始めると、ナーサディアは頭が重くなった。これを考え出すと、自分が今立っている場所を直視しせねばならぬような気がしてくるのだ。直視してみて、ここが沼地だったらどうしよう。今立っていられるのは、自分の足の下がぬかるみであることに気づいていないからであって、それに気づいたとき、途端にこの身はどこか暗くぬるぬるしたところに沈んでいって、そうしてもう浮き上がることも這い上がることもできなくなってしまうのではないかと思った。だから自分が立っている場所を確認せずにいようとも思った。
 知らないままでいれば、今日も立っていられるはずだ。
 そう思っていたのに、ナーサディアはラスエルの名を出してしまった。
 ラスエルの名前を聞いたベリーランドは、ナーサディアの望むような答えは返さなかった。ラスエルのことは知らないと彼は言った。だから今度、きちんとしたことがわかったら彼女に報告すると約束した。
 代わりにベリーランドは、別のことを彼女に教えた。この紅い花は、ヤブカンゾウという名だと彼は言った。
「カンゾウの類は、朝開いて夕方には萎む一日花でな。今日の花は明日は咲かんと思うと、切ない花かな」
 ベリーランドがそう言ったのを聞くと、ナーサディアは少し笑った。
「あなたでも、『切ない』なんて言葉を使うのね」
「あれ、おかしい?」
「そんなことないわ。ただ、ちょっと意外だったから」
「うん? そうかな」
 ベリーランドは顎に手を当て、空中を見ながら言った。何の意図も感じられない、ぽかんとした眼をしていた。
 この天使は、ときどきびっくりするほど無防備な顔をする。ナーサディアは、不意にそう感じるときがある。彼の顔は紛れもなく大人の男のそれだったが、無防備な表情のときの彼はあどけないと言ってしまって構わないほどだった。そんな顔をするとき、彼はいつもナーサディアの方を見ていない。
 ひとと眼を合わせるのが嫌いなのかしら。
 ベリーランドと出会ったばかりの頃、ナーサディアはそう思ったことがあった。もしもそうなら、ひとこと言ってやろうと思っていた。相手をちゃんと見ないで話を済まそうなんて、そういうのは私は好きじゃないわよと。
 だが、そういうわけでもないらしかった。任務の依頼を受けるとき、説明を聞くとき、ふと顔を上げると、ベリーランドの紅い眼は自分を見ていた。ナーサディアと眼が合っても、その眼は臆することなく動じない。
 ――なんだ、私、嫌われてるわけじゃあないのね。
 ナーサディアは、何故かそう安堵してしまった自分に気がついた。この男が虚空や遠くを見ているような眼をするのはただの癖なのだ、そう思うと、心のどこかでほっとした。
 そして同時に、これがラスエルだったなら、と心の中で比べた。ラスエルだったなら、眼が合ったときにやさしく眼を細めて微笑んでくれるに違いない。そんなことを考えながら、ナーサディアは思い出をたぐりよせてなぞる。
 このひとのことが好きだと思い始めた頃には、その時期の笑み。思いが通い合ってからは、自信と安心と希望のつまった笑み。源流の一滴は、いつまでも一滴なのではなく、やがて流れになって川になって、いつしか海とまじるように、笑顔を受けとめる心はどんどん膨らんでいく。それはナーサディアにとって心地よい流れで、そんな流れの中で彼女は「愛情」に酔っていた。ラスエルがくれる微笑に酔っていた。ラスエルはやさしかった。だから自分もやさしくなれるような気がした。彼がくれる愛情と同じだけの愛情を彼に返そうと思った。自分たちはひとつの天秤であり、そうして今釣り合う相手に出会い、それは揺らいだりずりおちたり切れたりすることはないのだと強く感じた。
 そんな日々を思い出して、眼前の男天使とラスエルを比べた。ラスエルはこんな白い髪ではなかったし、紅い眼ではなかったし、ナーサディアと眼が合えば微笑んでくれたし、もっとやさしい言葉で彼女を労わった。
 ラスエルはもっとやさしかった。
 もっとずっとやさしかった。


 ヤブカンゾウの紅い花を眺めながら、ナーサディアは黙って立っていた。ベリーランドは少し離れたところの木蔭に腰を下ろし、ぼんやり辺りを眺めていた。ナーサディアが「出発しよう」と言い出さない限り、彼は彼女を促さないつもりらしかった。
「前に来たときは、ここの辺りまで、花は生えてなかったのよ」
 大木の切り株を指差してナーサディアは言った。
「この木の大きな陰があったの。太陽の当たる場所にだけ、花が生えていたわ」
 ベリーランドは黙ってうなずいた。
 ナーサディアは、100年前とは少しずつ違う景色を改めて見る。大木は切り倒され、花の場所も違っていた。感傷のもとになるものは、ナーサディアにとってはいくつもあった。けれどこの切り株や紅い花は、何かを憂えているだろうか。
 環境が変わったから、本能でそれに対応しているだけの話ではないのか。紅い花は自分の生きる場所を求め、そうして根を下ろせる場所があれば黙って根づき、自分がたった一日で萎えて枯れてしまうだなどということすら少しも悲しんではいないのではないかと思った。悲しむより生きて、嘆くより生きて、回想するより死んで、そうしてまた生まれてくる。
 自分はどうだろう。気がつけば、年をとらない身体になってしまっていた。その現状をただ受け入れれば楽に生きられるはずだ。だが、どうやれば受け入れられるのか、それがわからない。そうして、いつか「終わり」がやってくるのかどうかもわからない。ラスエルが帰ってきてくれるのかどうかもわからない。
 わからないことだらけであるから、とりあえず明日を迎えてみようと思うばかりだった。明日になれば、何かがわかるという保証もなく、ただ生きてきた。
 身体を傷つけてみれば、何かが終わるのかと思ったこともあった。だが、死ぬのも恐いし、死ねないのも恐かった。誰が自分をこんなふうにしたのかと、恨みとおして明かした夜もあった。だんだんラスエルの顔が記憶の奥底で、泥に飲まれるようにわからなくなっていく。自分は昔、ラスエルから受ける愛情と同じくらいの愛情を彼に返そうと思っていた。そうして自分にはそれができると信じていたし、ラスエルもそう感じてくれていると思っていた。それは慈しまれているという自信からくるもので、その自信はナーサディア自身を虜にし、彼女の胸の奥までしびれさせていた。そうしてナーサディアは、彼からもらう愛情より多くの愛情を彼に捧げたいとさえ思った。
 けれどそれは間違っていたのだろうか。それが天秤の均衡を壊してしまったのだろうか。
 ラスエルは何も言わずにいなくなった。そうして気がつけば、ナーサディアは年をとっておらず、そのまま100年以上が経った。
 ラスエルがいなくなってからしばらくの間は、彼女はまだ「約束」に酔ったままでいられた。ラスエルが帰ってこないのには理由があり、そうして自分はいつまでも待つことができるのだという自信があった。堕天使との戦いという現実離れしたものを成し遂げた彼女は、それまで生きてきた年月の価値観と違うものを身につけていたし、それが恋との相乗効果で増大して彼女を芯まで酔わせた。若い彼女は、天の御遣いの美しい男を待つ自分に酔った。このとき彼女はまだ幸せだった。
 愛情への酔いと、自己の境遇への酔いが醒め始めたとき、彼女を襲ったのはえもいわれぬ不安と恨みと、それからすさまじいほどの脱力感だった。ラスエルがいなくなってから、いくつもの新年を彼女は見てきた。いや、「見てきた」というよりも「眺めてきた」という方が正しかった。新年を祝う人々を眺めながら、何がそんなに嬉しいのだろうと彼女は思った。そこに自分はいないも同然だった。彼女自身が、人々の中に自分を加えていないからだった。すべてのひとのすべての営みが、自分とは関係のない世界で為されていて、自分はその隙間に入り込んでいって、ものを食べ、飲み、眠り、またあてどなく暮らしていく。自分が生まれ育ち救ったインフォスに、彼女は間借りして生きているような気持ちさえした。
 ナーサディアは昼間の街を歩くことを避けるようになった。生きているすべての人々、死んでいくすべての人々、その人々の間のどんなに小さな隙間にも、本当の自分の居場所はないと悟ったからだった。
 誰もナーサディアを異端視することはない。彼女の見かけから、誰も彼女のことを不老の女だと知ることはない。だが、ナーサディア自身が「この世」から己を弾き出し、そうやって自分の心の襞をなるべく陽に晒さないようにして生きていこうとしたのだった。
 ――当たり前に生きて、当たり前に死んでいくことがどうしてこんなに難しいの。
 ナーサディアは、ときどきそうやって泣いた。愛情への酔いが醒めたのち、今度は悲しみに酔ってしまったのかもしれなかった。
 が、彼女はいつしか悲しみに酔うのも断ち、代わりに大量の酒に酔った。酒場はいつの時代もほとんど変わらなかった。幸せな男女もほとんどいなかったし、家族連れでやって来ている客もまずいなかった。彼女がもっとも苦手とするのは、田舎の酒場にたむろする男たちの世間話で、それはやはり家庭や土地と密接に結びついた営みの話だからだった。しかしそれさえ我慢すれば、酒場は彼女にとって安息の場だった。そこは昼間の世界から少しだけ切り離された夜の世界だった。太陽の下の健全な風景は闇に紛れて顔を隠す。代わりにナーサディアはひょっこりと顔を出す。太陽が休んでいる間に、彼女は堂々と表通りを闊歩する。
 夜の世界の中でなら、自分は異端ではないような気分になってくる。夜の世界にうごめく大勢の人々は、昼間の世界とのつながりを求めているわけではないことが多いから。その夜だけを楽しもうとしているひとが多いから。
 客引きの女が辻に立って男を呼びとめる。昼間は「準備中」の札が出ている店々に灯りが灯る。ああ、自分と同じように昼間の世界から弾き出された仲間がここにいる。ナーサディアは嬉しくなってしまう。途端に、この世も悪くないかなと思えてくる。だがそれは、真夜中になり、明け方が近くなるとどんどん萎えてくる。まやかしの楽観で、まやかしの安寧だ。けれどこのまやかしの安息の他に、自分は何に頼ることができるだろう。そう思って、また酒を飲む。
 そうやって何十年も過ごした。彼女は町々の酒場で踊り、賭け事に加わり、金に不自由はしなかった。だがある日、酔った勢いで所持金をすべて賭けに出してしまい、大負けし、文無しになってしまったことがあった。
 賭けの相手は屈強な男だった。見るからに身体を資本にして生きているような男で、長い髪をうしろでひとつに縛っていた。男はナーサディアに言った。ことと次第によっては金を返そう、と。
 その晩は、男がとっている部屋に彼女は泊まった。したたか酔っていたくせに、頭の隅の方だけは絶えず冴え冴えとしていて、ラスエルがどこかからこの部屋の中を見ているのではないかとか、声を聞いているのではないかとか、そんなことがぐるぐると渦巻いていた。心の中でラスエルに見ないでほしいと懇願し、また別のところで、ラスエルに見せつけてやりたいとも思った。
 彼女が手に入れたのは、一度失って戻ってきた所持金の半分と、ひとりでいなくてもよかった暗闇の中の数時間だった。
 彼女はその日から、ふと出会った男たちの部屋に泊まることに、以前よりは抵抗を感じなくなった。そうしていつも、ラスエルに見られたくない、ラスエルに見せつけてやりたいと、心の中で喚いていた。ラスエルではない誰かを好きになろうと思ったこともあった。けれど、ラスエルのために苦しんでラスエルのために酔いもがいてきた自分は何だったのかと思うと、途端に馬鹿馬鹿しくなった。意地でもラスエルを忘れてはいけないと思った。そうしなければ、これまでの歳月の自分は何に帰してしまうのだろうと感じた。ラスエルに捧げる気持ちというよりも、もはやそれは、ナーサディアが彼女自身を救う手だてなのかもしれなかった。


 ナーサディアの記憶は、またゾーナの森に戻る。
 ラスエルのことを知らないと答えたベリーランドは、しばらくしてから言った。
「すまん。さっき、ラスエルのことは知らん言うたが、ほんまはちょっとだけ会うたことがある」
 腰を下ろしていた地面から立ち上がると、ベリーランドはまつ毛を伏せ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「ただ、ほんまに詳しいことは知らんから、いろいろ答えることはできんけど」
「どんなことでもいいわ。教えて、ラスエルのこと」
 ナーサディアはすがるように言った。ベリーランドはちらりとナーサディアを見やると、彼の学生時代のことを話し出した。アカデミアの先輩と後輩という立場で、少し見知ったことがあるだけなのだと彼は言った。ラスエルがインフォスの守護に就いたことは知っていたが、そこから先のことは何も知らない。自分がラスエルの任務からそう経っていない時期にまたインフォスを守護することについても詳しいことはわからない。ベリーランドはそう言った。
「アカデミアという場所でのラスエルはどんな感じだったの?」
 ナーサディアは尋ねた。それを尋ねてどうしようというものでもなかったのに、彼女はベリーランドの話を熱心に聞いた。
 聞いているうちに、涙が溢れてきた。
 ずっと自分は夢の中にいるのかもしれないと、彼女は思っていたからだ。
 ラスエルとのことも夢で、自分の見た幻で、そうして自分が今ここにいるのも幻で、いつか覚めて元のところに帰れるのだろうかと思っていた。でもこうしてラスエルの名前を知っていて、昔の彼を知っていて、ラスエルという天使は確かに存在していて、そのことを知っている存在と出会うことができた。全部自分の見た幻ではなかった。それを、眼の前のベリーランドが証明してくれた。だから涙が溢れた。ずっと張り詰めていた弦が、その役目を終えて、たちまち緩んでしまったかのように、ナーサディアは無言で泣いた。
「話さん方がよかったか?」
 ベリーランドが困ったような顔をしたのが見えた。
 ナーサディアは黙ったまま、首を横に振った。


 ゾーナの森では、そんなことがあった。
 そう思い出して、ナーサディアはベッドの上でまた丸くなった。
 窓の外では、月が山影の上に高々と懸かっている。
 夜明けはまだ遠いらしい。
 もう一眠りしようと眼を閉じた。


 身体を丸めたナーサディアが再び動かなくなるまで、ベリーランドは窓の外で随分と待った。そうして、月が少し西の山の方に傾いた頃、壁をすりぬけ音もなく部屋に入った。
 彼は花瓶台に近づくと、水差しの水を花瓶に少し注いだ。そして摘んできたミヤマヨメナを、すっと花瓶の中に挿すと、大事そうに両手で花瓶を押し包んだ。
 花瓶は月に照らされて、凍ったように光っている。
 明日の朝は朝陽を受けて、ほのぼのと明るく照り返してくれているように願いながら、ベリーランドは花瓶の位置を調整した。
 それからヨメナの白い花びらを指先で撫で、ナーサディアの方をほんのちょっと見てから、また音もたてずに帰っていった。

・ 夜のはざまもまた夜/終 ・



 お目通しありがとうございました。
 この話は昔、別のタイトルで数回にわけてお出ししていたのですが、未完のままで引っ込めておりまして、それを再構成して加筆修正したものです。
 うちの創作上の時系列でいうと、「流れるひとびと」と「天国がとけてしまう」の間、ということになると思います。あんまり動きのある話でなく、しかも会話文より地の文が圧倒的に多くて大変恐縮ですが(いつものことですが)、ナーサディアがラスエルのことをどう思っているか、ベリーランドがそれを受けてどう考えているか、ということはやっぱり多少なりとも書くべきじゃないかなあということで、お書きした一編であります。

 ちなみにグレアムという観察役天使は、以前のバージョンにも出ておりまして、しかし当時とは少し設定が変わってしまいました。前はベリーランドより年上ということにしていたんですが、今回何故か「後輩」になってしまいました。あとグレアムは、年齢と彼女いない歴が同じで、それから馬鹿がつくほど真面目でムッツリスケベでして、その設定は全然変わっていません。私は個人的に、ベリーランドのようなタイプより、グレアムのようなタイプの方が見ていておもしろいので好きです(笑)。以上、余談でした。