24時の鐘が鳴った。
 広場には、食事を済ませたクライヴと女天使以外、もう誰もいない。祭りのあとの静けさが、クライヴの耳に痛いほどしみた。
 羽虫のように舞う雪の中で、天使のハナカズラがぽつりと言った。
「もうお帰りになるか?」
 クライヴはうなずいた。その拍子に、小さなくしゃみがひとつ出る。
 ハナカズラは白いコートの懐に手を突っ込み、何やらもぞもぞと探ったあと、大きな布を出してきて広げた。
「首が冷えると、余計寒う感じるのじゃよな。こんなので申し訳ないが、はい、これを首にお巻きあれ」
 石の上に座ったまま、上半身を伸ばしてクライヴの首にその布を巻きつけた。
「何だこれは」
「突然の荷物用の風呂敷じゃ」
「俺は、荷物か……」
「そうではない。もともと防寒具としても使えるようになっておる」
 何せシルク混紡じゃからな! と、ハナカズラは自慢げに歯を見せた。クライヴは、弟が姉にされるように、或いは忠犬が主人にされるように、おとなしく布を巻いたままでいた。
 その上に雪がずっと降っている。
「行くか」
 天使がひょいと石から降りてクライヴを顧みたので、彼も音なく立ち上がり、彼女につづいた。
「声がよう響くのう」
 歩きながら、がらんとした広場を少し見まわして、天使が言う。
「さみしい。歌でも歌おう」
「何?」
「民家はないようじゃし、こういうところで歌うたら、声が響いて気持ちがよいじゃろう」
 嫌だとクライヴは断った。第一知っている歌というものがない。
 つまらなさそうに天使が唇を尖らせる。おまえだけ歌えばいいと言うと、天使は気を悪くしたふうもなく歌い出した。


天使のパンは ひとのパン
天のパンは 生命のパン
ああ 何という驚くべきこと
神の身体を食す賤の者 貧しき者
隷属者 賤の者 貧しき者
天使のパンは 天使のパンは


 声が響いてよいと言った割には、かなり遠慮がちな声量で天使は歌い終えた。
「何という歌だ?」
 少しほどけそうになった首布を巻き直しながら、クライヴは尋ねた。
「『天使のパン』という。歌うと、いつも腹が減る」
 叔父が教えてくれた歌だとハナカズラは言った。そういえば、彼女には血のつながった叔父にあたる天使がいて、また別の人間と協力し、彼女と共同でアルカヤの守護を行っていると、いつかクライヴは聞いたことがあった。
「叔父というひとは、その歌が好きなのか?」
 クライヴの問いに天使は両手に息を吐いて温めながら、何がおかしいのか笑いながらかぶりを振った。
「うーん。そういえば叔父は、この曲を好きだと言うたことは別に無いな。身共は嫌いではないけれど、天使のパンがひとを救うかどうか、それはよくわからない」
 ハナカズラはそう言うと、遠くを見るような眼をした。
 夜が更けていって、雪が降りつづけた。


 宿に着いての別れ際、この羽根をあげよう、と、天使は言った。
 「羽根屋」の最後のお客のために、彼女が抜いた自分の羽根の残りだった。
 受け取るとき、クライヴは何も言わなかった。ただ黙って手を出して、その羽根を内ポケットに入れた。どうして羽をくれたのか、クライヴにはわからなかった。天使にも、わからなかった。
 けれど、クライヴにわからず、天使にわかっていたことがひとつだけあった。インフォスという世界でも、この羽根を贈ったことがあった。もう会えないのだと思うと、それは感傷になった。会えないけれど、彼が寿命をまっとうするまで、空の上からささやかながらも守護していこうと天使は決めている。だから感傷は、ずっと未完成だった。未完成なまま、彼女はそこから先へ足を踏み込ませることはなく、深く考えるのもやめておいた。
 そうして、雪はまた確かに降りつもる。

・ 改訂・セカンドバスケット/終 ・



 「グラスバスケット」の補足版のような一編です。元々は「グラスバスケット」と同時期にお出ししていましたが、あとから読むと、あまり意味のある作だと思えず引っ込め、長いことそのままになっていました。ですがこのたび、今後お出しする創作とわずかながら内容がリンクする可能性があると思い、改作してお出しすることにしました。改作にあたっては、「ここ要らん」と思った部分を削除した上で書きなおしましたので、結果的に当サイトで一番短い文章創作へと生まれ変わりました(笑)。

 ちなみに「天使のパン」は、セザール・フランクが1862年に作曲した歌で、シャルロット・チャーチのデビューアルバム等に収録されているスタンダードナンバーですが、今回は「グラスバスケット」後記でもご紹介しました、ラッセル・ワトソンの『the voice』収録の「天使のパン(Panis angelicus)」を聴きました。いや、誰がって私がです(笑)。姪天使が歌う訳詞は、一応、英語詞の部分を自分なりに訳した(訳せとるんか?)ものです。 「天使のパン」はともかく、「グラスバスケット」後記でお書きした「セイロン・ドーラ」は、自分の中でこの「バスケットシリーズ(?)」二編と切っても切り離せないイメージソングとなっております(笑)。いやむしろ、あの曲を聴いていなかったら書いてなかっただろうなあという気がします。天使が降りてくる雪の夜、みたいな雰囲気の曲です。