暗闇の中でふたつの輪が浮かんでいた。
 ぐるぐると廻る。その渦の中に飲み込まれそうになる。
 輪廻という言葉を自分は信じない。そう思っていたし、今もそう思っている。自分に輪廻などあってほしくない。転生もいらない。輪の途中に鋏を入れる。どんなに硬い針金のような筋でもいつかそこで断ち切ってしまえば、あとはその尾が濁った水の中に垂れ、そして沈んでいくだけに違いない。
 ただそのときのために自分は生きている。
 そう思った。
 曇天の色をした、それでいて妙に冷たくほの明るい希望だった。そして、ここが自分の居場所なのだと思った。ここより先の、太陽の当たる場所には、自分は足を踏み入れないと決めた。


 うっすらとした視界の中に、見覚えのある姿が浮かんだ。次第ににじみを失って行くその姿をはっきりとみとめると、クライヴはベッドの上で上半身を起こした。
「何をしている」
 声がかすれていた。彼はそんな自分の声を打ち消そうとするかのように、手早く部屋着の上に上着を羽織った。口の中が渇いてひりひりする。
「いや、お起こししてしもうたか?」
 ハナカズラが彼の動作を目で追いながら言った。この女天使は、自分が寝ているところをじっと観察でもしていたのだろうか。クライヴは髪を手櫛で梳きながら、うめくように尋ねた。
「何か用か」
「そろそろお目覚めのお時間かと思うて」
 答えながらその女天使は、部屋にひとつだけついている小さな窓の方に目を遣ったようだった。宿の管理がよくないのか、窓枠には蜘蛛の巣の名残がうっすらと残っている。白く膜が張ったように汚れたガラスの向こうの空はもう太陽の色を残しておらず、代わりに星が欠片のように散らばっているのだった。
「おまえはもう寝る時間ではないのか」
 ベッドの下の引出しから着替えを取り出しながらクライヴは言う。言ったあとで、故意ではないが、意地の悪い言い方だったろうかとふと思った。
「身共か? そんな早寝はせぬよ、大人じゃもの。夜は始まったばかり。夕餉もまだじゃし」
 至極普通にそう答える天使をクライヴはちらりと見た。普通の人間とは生活時間帯の違う己の身を憂えているわけでも卑下しているわけでもない。そしてそれは同時に、自分の出自というものに誇りがあるわけでも希望があるわけでもないということでもあった。ただそういう身である自分という、その事実のみを受け入れているだけにすぎなかった。
 なのにどうしてときどきこんなふうに、外の世界と自分の世界の壁のようなものに触れ、それを指でなぞり、己の立つ位置を確認してしまうようなときがあるのだろう。そう思う。その壁を突き破ることはできない。その術を自分の指は知らない。だからその壁の向こうにあるもの、そこにいる生命すべてを直視できないような気分にさせられる。
「男の着替えを見るのが趣味か?」
 上着に手をかけ、そこでクライヴは天使に言った。ハナカズラは黒い大きな眼で彼をじっと見たまま答えた。
「趣味ではないが、嫌いというほどでもない。失礼ならば、身共は廊下に出る」
「そうしてもらえるとありがたいな……」
「わかった」
 うなずくと、天使は腰掛けていた椅子を引き立ち上がる。翼をしまっているからか、普通の人間と全く変わりのない姿に見える。彼女が両の足でしっかりと床を踏んでいることにクライヴは気付いた。天使はドアノブに手を掛けて、そこから廊下に出て行こうとする。そして、出て行きざまにやおら振り返って言った。
「クライヴ、夕餉に行こう。身共、腹が減っておるのじゃ。クライヴの朝餉と身共の夕餉を一緒に摂ろう」
 そう言って何故か歯を見せて笑んだ。


 接点がまるでない。
 歩きながら、クライヴはぼんやりとそう思った。
 ここでこうして並んで歩いているふたりの、どこに接点があるというのだろう。ふたつの影が街灯の下で斜めに揺れて進む。けれどその影の持ち主に流れる血の中には接点というものがない。半分は人間の血、半分は吸血鬼の血、それを核としてここに立っている自分の脇に、天使というものが存在している。冬の夜の中を、影を揺らして同じところに向かっている。影の色は同じ、揺れる速度もほとんど同じ。けれど、その中身の血の色のなんと違うことだろう、そうクライヴは思った。
 彼は自分の隣を歩く女天使の横顔をちらりと見た。部屋の明かりの下ではさほど色白には見えないのに、月明かりと街灯に照らされる彼女の顔は、いつもよりずっと白く、そして黒髪はずっと黒かった。彼は彼女の眉の辺りをぼんやりと見た。この眉は嫌いではなかった。それどころか好きなような気もした。黒い眼の上を、すっと横に伸びる黒い眉の上に、クライヴは、なよやかさとは対のところにある女天使の中の何かを見ているのかもしれなかった。
 ただそれは、クライヴの中に、普通の人間を見るとき以上の煙った感情を抱かせるというのも事実だった。天使という存在の崇高さなどというものに感服しているつもりは毛頭なかった。自分の目的のために、天使と協力することもマイナスではないから引き受けた。だから天使だろうが悪魔だろうが、この傍らのハナカズラが何者であろうとも、どのみち自分は彼女に協力していただろうとクライヴは思う。ただ、今まで生きてきた年月、普通の人間を遠くから眺めていた自分が彼女を見るとき、人間を見るとき以上の何かを感じ、そしてその感情に自分から鉄扉を築き、釘をも打ちつけ、また自分の身をも顧みないようにするのだった。人間ではない存在、それは自分も彼女も同じなのに、その間には厚く高い壁があり、壁かと思っていたらそれは実は鉄柵で向こうが見えている。天使というものを知る。そして知れば知るほど自分の身は一体何なのだろうと砂を噛む。砂を飲み込めなくなっている自分に気付く。けれどそれを水で流し込む。いつかは何かが終わるという、冷たい希望の氷を溶かした水だ。残った水は、また胸のうちにおさめて氷にする。そうやって今まで生きてきた。
 影を揺らし、それをじっと見つめながら、クライヴはポケットをさぐった。
「……言うのを忘れていたが」
「うん? いかがした?」
 きょろきょろと街を見まわしながら歩いていたハナカズラがクライヴを見た。
「食事代を切り詰めているんだ……」
 言ったあと、クライヴは最初、何事もない顔をしていたが、やがて天使とは逆の方にさりげなく顔を向けた。
「あ、ああ。ああ、なるほど。いや、すまぬよ、身共、気がつかなんで……」
 ハナカズラが立ち止まって声を上げた。
「そうか。金か」
「いや、自分が食事する分は計算して確保してある。おまえにふるまう分がないんだ」
「いやいや……。そうか、そうじゃよな、金が要るのじゃよな、人間の食事には」
 今更そんなことを天使は言う。
「路銀にはお困りではないのか?」
「切り詰めていけば何とかなるように計算してある」
「そうか……」
 天使が遠くを見ながら、何事か考えているように指で唇をいじっている。寒さのためか、彼女の頬と鼻の辺りは紅く染まり、それなのに唇は朱みを失いかけていた。
「何か手頃なものでも買って、半分ずつ食べようか……」
 歩きながらクライヴはつぶやいた。そうつぶやいてから、彼は自分の言葉にふと眉根を寄せた。今まで口にしたことのない類の言葉だ。
「しかしそれではクライヴのお食事を減らしてしまう」
 やはり一旦帰って食事してこようか、と天使は唸った。そうしているうちに、円形の広場に出た。この街の中心部であるらしかった。水が申し訳程度に噴き出している噴水の周りは、石畳になっていて、そこのあちこちの街灯の下には、道化師のような格好をした芸人や楽隊、別のところには何かの湯気の上る屋台まで出ている。
「今日は祭か何かなのか、この街は」
 いぶかしげに見まわしながら、クライヴは小さく言った。
「ご存知ないのか?」
「何をだ」
「今日はこの国では降臨祭とかいう祭の日ではなかったかの」
「降臨祭? 初めて聞くな……」
 クライヴが答えると、天使はちょっと笑ったように見えた。それから天使もまたぐるりを見まわした。
「大天使ミカエルさまが、昔この国の災難をお救いになったとかいう日じゃったと思う」
「災難か?」
「うん。洪水か何かじゃったかな。この街に入る前に大きな河があったじゃろう、あれの氾濫のときにどうとか……。あ、あそこ、クライヴ、ご覧あれ」
 天使がクライヴの肩を二三回軽く叩いて、空いた方の手で屋台を指し示す。
「人形屋じゃな。ミカエルさまの像とやらを売っておるよ」
 そして何故か天使はにやにやとそれを見る。
「何をにやついている」
「あの石膏の像のミカエルさまの方が、ご本人よりも慈悲深そうであらせられる」
 澄ました顔でそううそぶくと、天使はふと我に返ったようにクライヴを見た。
「お腹の方は大丈夫か? 空腹でいらっしゃるのでは?」
「それほどでもない」
 クライヴはそう答えておいた。生来、食事というものを楽しみにしたような記憶もないし、いつだってそうだ。空腹かどうかもあまり考えたことがない。
「何か金のかからないものでも探すか……」
 そう口の中で言うと、クライヴは小さな歩幅で歩いていく。別方向を見ていた女天使は、クライヴの様子に気付き、慌ててそのあとを追いかけた。
「クライヴ、お先にお食事なされよ。身共、この辺りを散歩しておるから」
「……」
 クライヴは天使の言葉に大きく息を吐いた。
「俺には、ひとを待たせてまで食事したがる趣味はない」
 そう答えてから、今度はさっきより大きな歩幅で歩いていく。天使は小走りで追いかける。
 屋台はぽつぽつと途切れながら、それでもひとつの道筋に沿って続いていた。その筋を辿っていると、いつしか木々の影に囲まれた公園に入り込んでいた。足の下の石の音が広場のものと微妙に違う。靴が打つその石の音が、さっきよりは心なしかやわらかくなったような気がした。
 ふと立ち止まる。追いかけていた足音がいつしかしなくなっている。振り返った。天使の姿がない。暗がりの中に眼を解き放って彼女を探す。
「……」
 黙って後方へ退き返した。天使がこちらを見た。
「あ、クライヴ。ごめん」
 鼻をこすりながら、天使は慌てたように言った。
「こちらの御仁が絵をお描きなのを拝見しておったのじゃ」
 天使が傍らに腰を下ろしている老翁の手元のスケッチブックを覗き込んで指し示した。
「……」
 黙ったまま老翁をちらりと見たクライヴに、その老翁がにこやかに会釈をする。クライヴもつられて真顔のまま、小さく会釈を返した。
 毛織のコートを着た老翁の手に握られているのは一本の絵筆で、その絵筆に水をつけてはスケッチブックの上を掃いていく。鉛筆で描かれてあるかと思っていたその絵が、次第に色の広がりを見せていく。
「こちらは、そこの植え込みをお描きになったのか?」
 天使がスケッチブックと老翁を交互に見ながら尋ねた。
「ええ、そうですよ」
 老翁は天使を見て答えた。
「夜の公園が、スケッチブックの中にもうひとつおできになったようじゃ」
 そう感嘆の声を上げると、天使はクライヴの顔もちょっと見る。
「ありがとう。絵はお好きかね、お嬢さん」
 筆を動かしながら老翁が問う。
「はあ、好きですじゃ。拝見するのもよいが、描くのも。しかし自分で描くと、思い描いたようにはならぬことが多い。お恥ずかしいことに」
「私など、本当に道楽で自己満足のために描いているものですからね、自分で思い描いたとおりに必ず描けるならば、こうして紙に直に描いてみなくとも想像だけで用は足りるのですよ。いつも想像と違うものができあがる。下手だと思うときもあるし、まったく予想しなかったものになるときもあります。だから……、こうして描いているんですよ」
 老翁の言葉に天使はうなずいた。
「ああ、身共も、いつも想像と違うものができても、それはそれで愛着が出る」
「でしょう。そもそも『描く』ということ自体が楽しいものですからね」
 また天使はうなずいた。そしてクライヴを見た。
「クライヴは、絵はお描きになるか?」
 老翁のスケッチブックをじっとみつめていたクライヴは、天使に問われてふと我に返る。
「……絵というものを、描いたことはない」
 天使の眼が、ふと何事かを思うような色を見せた。
「一度も?」
「ああ」
「そうか」
「機会がなかった……」
 クライヴの答えに、老翁が少し眼を細めて彼を見た。
「一度描いてみるといいですよ。服を着たりものを食べるのと同じで、自分の好みが出てくる。それから自分のものだと言えるようなものが出てきますよ、きっと」
「……」
 黙ったままでクライヴは老翁の手元をみつめつづけた。
「そうだ。これをあげましょう」
 クライヴをちらりと見やると、老翁は傍らの布袋からひとつの平たい箱を取り出してふたりに見せた。
「私が昨日まで、いや、今日まで遣っていた色鉛筆です。安物ですが、ちゃんと水彩にもなりますよ。この中に入っている筆に水をつけて、色鉛筆で描いた上を掃いてみてください。水彩絵具で描いたように色が広がりますから」
 そう言って、老翁はクライヴにその箱を手渡そうとした。クライヴは反射的に両手を引っ込める。
「あ……、そんな、いただくわけにはいかない。俺には何も礼として渡せるものがない……」
 老翁は静かに笑った。
「それでしたら、この色鉛筆を大事に遣ってやってください。それだけで構いません。いえ、こちらから押しつけておいて何ですが」
「……」
 クライヴはそれでも引っ込めた手を出そうとはしなかった。
「これをいただくと、そちらは困るのではないか……?」
 小さく口の中で尋ねる。老翁はまた笑んだ。それから自分の右脇に置いてあった別の箱を見せながら言った。
「今日は、自分へのプレゼントとして、新しい色鉛筆を買ったんです。そちらの古い方は、私が絵を初めて描いた頃からの相棒です。あなたの相棒にも、きっとなってくれますよ」
 「これもよかったら」と、老翁は1冊の小さなスケッチブックを取り出した。
「画材屋の主人がサービスでつけてくれました。あなたにあげます」
 まっさらなスケッチブックと古びた色鉛筆の箱を、クライヴは受け取った。おそるおそる手を伸ばし、両手にその重みを静かに感じた。老翁の指の先は、とても冷たかった。かすかに指と指が触れ合った瞬間、それがわかった。天使以外の者から「贈り物」を手渡されたのは、クライヴにとってこれが初めてのことだった。
「降臨祭の夜に、お揃いの黒髪のおふたりにも、よいことがありますように」
 老翁の声が、街灯に照らされるほの明るい植え込みの影に染み込むように響いた。


 老翁と別れたあと、ふたりはゆっくりと公園のさらに奥へと入っていった。白い息がふたりの顔の辺りから立ち上り、切れるように冷たい夜の空気の中に溶けて見えなくなる。
「降臨祭、か……」
 口の中でクライヴはつぶやいた。天使がそれを聞いて、クライヴの手の中のスケッチブックと色鉛筆の箱を見る。
「さきほどの御仁は、降臨祭の贈り物をクライヴにくださったのじゃな」
 天使の言葉に、彼は少し眼を伏せた。赤い石や緑の石の埋まった石畳の上には、月の明かり、星の明かり、そして街灯の光が折り重なり、その上を、祭に集う人々の話し声や歌が漂っている。ぽつりぽつりと現れては通りすぎていく眼の前の人々の上気した頬に、クライヴは眼を細める。父親や母親に手を引かれ、フードをかぶって歩いていく子どもを見て、それから天使を見る。
「俺は、絵が描けないんだ」
 そうつぶやいて、手の中の贈り物を申し訳なさそうに見る。
「描き方がわからない」
「……」
 天使は黙ったまま、クライヴを見ていた。
「さっきのご老体には、申し訳ないことをした。俺のような者がもらっても、約束は守れそうにない……」
「そんなことはないよ」
 天使が静かに言った。長い髪の毛が白い息と絡み合って揺れた。
「これから守れるか守れないかが決まるのじゃもの。今のクライヴが、そうとお決めになれることでもなかろう」
「……何を描けばいいんだ」
「何でもお描きになればおよろしいではないか」
「何でもというのが一番困るんだ」
 至極真面目な顔をして、クライヴは石畳の一点を凝視しながら考え込んでいる。そんなクライヴの様子に、天使は笑うでもなく静かに言った。
「たとえば、クライヴのお好きな花とか、あとは……、ご自分が描いてみようとお思いになれるもの、何でもおよろしいと身共は思うぞや」
「……夜の絵ばかりになる」
 そうつぶやいてから、何と至極当然のことを言ったのだろうとクライヴは自分で思った。
「昼の絵をお描きの方がおいでれば、夜の絵をお描きになる方がおいでて当然じゃろう。さきほどの御仁も、夜の公園をお描きでいらしたではないか」
 夜には綺麗なものがたくさんある。そう天使は言った。昼の光の中では見えないものがたくさん浮かび上がってくる。月も星も、昼間にもそこにあるのに、太陽の光で見えないだけのことなのだと。
 天使の言葉に耳を傾けながら、いつかの夜に見た白い花や黄色い花をクライヴは思い浮かべた。名前を知らない自分は、その花の姿のみしか、記憶にとどめてはいないけれど、あの花を、あの花の上に広がる暗い空を、そしてその暗い空の中に浮かぶ星を描けたら自分はどんな気持ちになるのだろうと思った。いつも星を見上げながら歩いてきた。星のない夜は、かすかに見える煙った雨雲の流れをたどって歩いた。いつもひとりぼっちだった。花も星も何も語りかけてはくれなかった。自分もそれらに話しかけたりするようなことはなかった。けれどそれでも、無言の生命が至るところに存在しているのだと、自分もその中のひとつの生命なのだと、花や草や虫のように、いつか朽ち果てるその日を迎えるのだと、そう思いながら歩いていた。自分とそれらは同じだと思った。ただ違うのは、花や草は次の生命を生んで、自らの死を土に返していくのに、自分はまだ見えない自分自身の果てのために歩いていき、そしてそこからは何も次につながるものはないのだということだった。それを悲しいと思ったことはなかった。ただこの生命を絶つために、その日を迎えるために、それを最上の生きる目的として歩いているのだった。自分の生命が絶たれる前に、この手で葬るべき存在の屍体を夜毎に積み上げていく。その山を、自分の視界の片隅に置いて、また新しい屍を積み上げ続ける。そんな日々の夜のどこに、あの老翁がくれたこのスケッチブックを広げ、色鉛筆を取り出す時間があるというのだろう。
「おまえなら、何を描く……。おまえは絵が好きなんだろう?」
 天使に問うた。彼女はクライヴを見て、それから周りを少し見た。
「ここでなら、あのベンチや花壇を一緒に描いてみる」
「……」
 無言でクライヴは天使に手の中のものを差し出した。そして言った。
「おまえが描いてみてくれ。俺は描き方がわからない」
「今?」
「……嫌か?」
「嫌ではないよ。しかしこれはクライヴがお受け取りになったものじゃろう。身共が遣わせていただいてもよろしいのか?」
「いい。描いてみてくれ。俺は見ているから」
 真剣な顔をして自分を見ているクライヴに、天使は小さくうなずいた。


 ハナカズラの絵の描き方は、非常に大胆だった。少しずつあたりをつけて輪郭線を描いていくのではなく、思いついた部分からいきなり色をつけていく。それから色鉛筆を右手にも左手にも何本も持ち、それを器用に入れ替えては、そのとき使う一本だけを紙面に走らせていく。何色も塗り重ね、影や光をつけていく。
 クライヴは天使のそんな様子をじっと眼を凝らしてみつめていた。老翁と天使、このふたりが絵を描くところ、それはクライヴが誰かが絵を描くのを見た初めての経験でもあった。だからクライヴには、老翁の描き方が非常に綿密だということも、天使の描き方が大胆だということもよくわからなかった。比べるものがなかったからだ。絵の描き方がわからない、そう純粋に思っていた。天使の手元をじっとみつめる彼の胸の中には、白くすきとおった波が打ち寄せていた。そのときの彼の心は、波打ち際から泳ぎ巧者を羨望の眼で見る子どものそれとよく似ていた。
「できた」
 天使が顔を上げた。木々とベンチを描いた紙面の中では、暗い空が色とりどりに彩られている。
「空の色が違う……」
 クライヴはそれを見てつぶやいた。
「うん。身共なりに創作してみた」
 いかんじゃろうか? と天使は小さく問う。
「よくわからない……」
 じっと天使の手元を凝視したままでクライヴはうめく。
「もっと描いてみてくれ」
「え、もっと?」
 言われるままに、天使は次の頁に絵を描く。今度は地面に花をたくさん描き込んだ。
「こんな花はここにないぞ……」
 クライヴがまたうめく。
「じゃから、創作、いや、アレンジじゃと申すに」
 少しふくれたように天使が反駁する。
「アレンジアレンジ。絵の中で、世界を自分の色にアレンジ」
 至極真面目な顔をして、天使はそう繰り返した。そしてまた促されて次の頁に描き込んでいく。クライヴはじっと見る。そうしていると、ふたりの傍らで、誰かが足を止めた。
「楽しい絵ねえ。絵描きさんなの?」
 座り込んでいたクライヴと天使は、その声に顔を上げた。ネルのマフラーをぐるぐると巻いた老婦人がふたりを覗き込んでいた。
「この寒空に絵を描いているなんて、その絵は売り物なの?」
 老婦人の言葉に、天使は慌ててかぶりを振った。
「えっ、売り物? いやそんな、ただ手慰みに描いておるだけのようなもので」
「あら残念。売り物なら、降臨祭の記念にいただこうかと思ったのに」
 老婦人は残念そうに溜息をつく。
「もしよかったら、その今描いているお花の入った絵を売ってくださらないかしら」
「え、この絵を?」
 天使がスケッチブックと老婦人を交互に見て尋ねる。それからクライヴを見て眼で「どうしよう」と尋ねる。クライヴはそれに気づかない。老婦人の申し出に、ただ「絵でも金が稼げるのか」と感心してしまっている。
 天使は何事かを瞬間的に考えたのか、老婦人の方に向き直り、開き直ったように言った。
「こんなのでおよろしければ、お譲りしますじゃ。タダでお譲りしたいところじゃが、パン代ほどのカンパをいただけるとありがたいですじゃ……」
 言ったあとで、恥ずかしそうに少し下を向いた。
 老婦人は快く小銭を出してくれた。そしてスケッチブックの一枚を持って、手を振りながら帰って行った。
「たいしたもんだな……」
 老婦人の姿が見えなくなると、クライヴが天使を見てぽつりとつぶやいた。
「そういう方法もあったのか」
「え? 何がじゃ?」
 もらった小銭をクライヴに差出しながら天使が問う。
「何故俺に渡すんだ。これはおまえがもらったものだろう」
「あとで身共の食事代にしてほしい。それに、そもそもスケッチブックと色鉛筆は、クライヴのお持ち物じゃろうが」
 そうしていると、今度は派手な格好をした一団がやってきた。手にパイのようなものを持って、二三人やってくる。広場の方で芸を見せていた一行らしい。
「次の出番は何時だ?」
「あと45分後といったところかなあ……」
「早いところ食っておかんと、興行中にこなれんで腹が痛くなる」
 めいめいにそんなことを話しながら、向かいのベンチに腰掛け、急ぎの食事を摂り始めたようだった。
「クライヴ、お寒うないか」
 絵を描きながら天使が言った。
「……おまえこそ」
「ああ、冬じゃから、寒いよ」
「雪だ……」
 クライヴは空を見上げた。いつしか黒い曇天になっていた空から、塵のような雪が降りてきて、そして頬にかすかに触れた瞬間、それが雪だとわかる。手の甲に落ちた瞬間、冷たいとわかる。わかったと思ったら消えてなくなる。あとかたもない。まるでそこに初めから存在していなかったように。けれど次から次へとそれは降りてくる。今日さよならと言って、また夜がやってくれば降りてくる白い羽の持ち主と同じだ。彼女が来る。来てくれる。今日はひとりぼっちだったけれど、明日はそうでないかもしれない。そう思えるようになったのはいつからだったろう。そして今日は隣で絵を描いている。
 上着を脱いで、天使の頭からそれをすっぽりとかぶせた。
「わっ、何じゃ、どうなさったのじゃ」
「雪でスケッチブックが濡れるだろう」
「そ、そうじゃが、前が見えない」
 かぶせた上着を少しずらした。天使の頭が出た。
「クライヴ、わごりょがお寒いじゃろうが。スケッチブックは寒いとは言わぬぞ」
 上着を返しながら天使が言った。
「おふたりさん、降臨祭の夜にデートかい」
 向かいから声がかかった。3人組の道化の男のうちのひとりが、食事を終えてこちらを見ながらにやにやと笑っている。
「そちらさまはお仕事仲間とお見受けするが、我らも同じじゃ」
 天使が顔を上げて真顔で答えた。
「またまた。仕事時間外にいい関係になるってことがあるだろう」
 別の道化が手についたパイ屑を払いながら笑った。
「我らがそうとおっしゃるならば、そちらさまとて『いいご関係』と解釈させていただくが。それでもおよろしいのか?」
「男同士でそれはぞっとしねえ」
 道化たちが笑った。
「ぞっとなさらぬついでに、身共のつたない絵でもおひとついかがじゃ? お三方のそのご雄姿も描かせていただくが」
 立ち上がって口端を上げ、にやりと笑った天使を見上げて、クライヴは眼を見開いた。さっきまで絵を売るのに積極的でなかったはずなのに、今度は自分から売り込みまでしている。
 天使とは、わからん。
 クライヴはそう思った。
「いいだろう、頼むわ。あと30分で描いてくれ」
「承知した。ご注文ありがとう存じ上げる」
 道化の男たちから注文を受け、天使はスケッチブックに向かった。
「そっちの兄ちゃんも、俺らの方に来いよ。見映えのするやつが入ってると、俺ぁ嬉しいぜ」
「あー、そりゃいい。来い来い」
 自分が呼ばれていることに気付いて、クライヴは男たちを見て、それから天使を見た。
「なるほど、それもよいな。あちらさまもご所望じゃしな」
「い、嫌だ」
 天使の眼をじっと見て、クライヴは答えた。掌にうっすらと汗の感触がする。
「何でじゃ」
「……」
「取って食われはすまいよ、あれはお化粧」
「そんなことを言っているんじゃない」
「よろしいではないか。サービスの一環として、あちらにご出向なされよ。商売の真髄は『三方よし』じゃ。ああ、クライヴ。お耳をお貸しあれ」
 ハナカズラの息がクライヴの耳をくすぐる。
「今宵は降臨祭。こういう祭のときこそ、普段遣わぬようなところにまでひとは金を遣うもの。今日という日が祭であることを最大限に活用せねば損じゃ」
 天使の顔が離れる。そして、不敵に笑った。
 天使は、やはりわからん。
 またそう思いながら、クライヴは男たちの元へ出向した。
 道化の男たちに肩をつかまれたときには、一瞬クライヴは脇に差した片刃剣に手をかけそうになったが、男たちはクライヴと肩を組んだだけだった。クライヴは眼を丸くしながら、掌の汗をにじませていった。道化たちはクライヴを囲むようにして天使に背を向け、小声で話しかけてくる。
「あの姉ちゃんとあんたとは、同じくらいの年なんかい」
「あちらの方が確かふたつ上だ」
 そう答えると、道化たちは何故か口笛を吹いた。
「いい~ねえ、年上かぁ」
「そういう好みか」
 男たちの問いに揉まれながら、クライヴは丸い眼のまま男たちの顔を代わる代わる眺めていた。ひとつひとつ違う道化の顔。大きな口、大きな眼、紅い鼻。それらのどれもが鮮やかで、別世界からやってきたひとの顔のように見えた。怖がる子どももいれば、手を叩いて喜ぶ子どももいるだろう。パイを食べていた道化。雪を髪に積もらせて白い息を吐いていた別世界のひと。けれど、肩や腕を伝ってくる体温は温かい。
「コラァ、そこなる殿御方! だんごになって背中をお見せになるでないわ、お姿をお描きできぬではないか!」
 天使が眉を上げて訴えた。
「はいはい、しょうがねえなあ。怖いねえ」
「ああ見えて結構きついタイプか、あんたの連れは。ん?」
「……」
 また男たちの問いに揉まれる。雪がその上に降り積もる。


「降臨祭の日は、皆の財布の紐が緩んでるからな。稼げるだけ稼いどくのがコツだぜ。ここを遣えよ、ここを」
 指で頭をコツコツ叩きながら、道化のひとりが天使に言った。
「ありがとう。そちらさまのご武運をお祈りする」
 金を受け取りながら、天使が鼻をこすった。そして、クライヴに耳打ちした。
「な、身共と同じことをおっしゃっておる。今日は稼ぎ時なのじゃ、商売するのにもってこいじゃな」
 道化たちは仕事へ戻って行った。天使が手の中の金をまたクライヴに渡す。
「よし、もうひと頑張りじゃ」


 ベンチで座って待っていると、天使が走って戻ってきた。
「クライヴ、さあ、これをお持ちになって」
 枯草で編んだ籠、というより袋のようなものを差し出してくる。
「編んだのか?」
「うん、あっちにたくさんススキがあった」
 そう言うと、先導して歩き出した。
「あ、お手を切らぬようにお気をつけられよ。切ると痛いぞ」
「……そうだろうな」
「血も出るしの」
「ああ……」
 ふと籠を覗いて、クライヴは足を止めた。
「この中に入っているのは何だ。何の羽根だ」
「ん? 身共の羽根じゃよ」
 クライヴは絶句した。
「むしったのか?」
「抜いたのじゃ」
「同じことだ。こんなにたくさん……」
「何ぞの奇行のようにおっしゃるな。手で梳いただけでも羽根は落ちる。鳥が発ったあとにも羽毛が落ちるじゃろう?」
 何でもないように天使は答える。
「さあ、この辺りでよろしいかな。クライヴ、お願いがある」
 天使の言葉にクライヴは一歩退いた。
「何だ」
「これから身共は歌を歌う。どなたかおいでたら、お金と引き換えに、その羽根をお渡しくだされ。よろしいか?」
「何?」
 さっきよりも広場に近い場所に出てきている。人通りも多い。クライヴの驚きの表情も声も、人々のざわめきの中でかき消された。
「あとでお腹いっぱい美味いものをいただこう」
 そう言って歯を見せると、天使は大きく息を吸い込んだ。


 雪が降っていた。
 空は曇っていた。
 街灯がついていて、眼の前をたくさんのひとが通りすぎていった。その中に黒い上着を着たクライヴが草の籠を持って立っていて、その隣に白いフードつきのコートを着た天使が、翼をしまった姿で歌っていた。


眠りは尖った心を癒す
安らぎは休息を生む
太陽はのぼるときも
沈むべき宵を迎えた時にも輝いているではないか?
だから休みなさい 悲しみの泉よ
あなたが眠りについている間は
静かに 静かに 静かに
静かに横たわり 眠りについている間は


 天使の声を「うつくしい」と形容してよいものかどうか、クライヴには正直判断がつきかねた。ただ、そこにあるすべてのものに、乳白色のやわらかな膜をかけていくかのように、滑らかに滑らかに浸透していくように思えた。やさしい声であることは確かであった。ときどき入る息継ぎの音が、子どものようにいたいけに思えた。
「さあさあ、ご覧あれ。大天使ミカエルの羽根をお譲りするのじゃ。皆さま方をささやかに守護する白い羽根をご覧になっていってくだされ!」
 天使が両手を広げて人々に語りかけてまた歌う。
「本当にミカエルさまの羽根なの?」
 立ち止まった婦人が、連れの男に尋ねる。
「そんなことがあるわけがないだろう。ハッタリだよ、ハッタリ」
 男の言葉に、クライヴがふと口を開いた。
「ミカエルの羽根かどうかは言えないが、これは天使の羽根だ」
 そう言って、籠の中から一枚の羽根を取り出してふたりの客に見せた。
「いかにも。本当の天使の羽根じゃ。だまされたとお思いになって、おひとついかがじゃ?」
 ハナカズラは歌を中断し、弾んだ声で言った。
「あら……、大きな羽根……。鳥にしてはすごく大きな……」
「ダチョウか何かの羽根じゃないのか」
「こんなに真っ白な色をしているかしら?」
 クライヴは、婦人の眼をじっと見て言った。
「天使の羽根だ」
 婦人はクライヴの真剣な眼に、何故か頬を赤らめた。
「これ……、おひとついただこうかしら。おいくら?」
「……いくらだ?」
 天使の方にクライヴは真顔のまま尋ねる。
「3カーペル」
 この国の通貨単位で天使は即答する。
「ありがとう、その羽根が何かのお役に立ちますように!」
 羽根を買って帰っていくふたりの背中に、天使が明るい顔で手を振った。
「……いいのか、自分の羽根を見知らぬ人間に売り渡して」
 クライヴが低い声でそっと天使に尋ねた。
「どうせ抜け落ちてこの世の塵となるものじゃ。それに降臨祭などという今日のような日でなければ商品価値はない。身共は利用できるものは利用する」
 そしてクライヴに耳打ちする。
「さきほどのお方も、だまされたとお思いかもしれぬが、それでもお楽しみくださったろう。そしてこちらは食事代を稼げる。これこそ共存ではないか、需要と供給の摂理、報酬と代償。得たいものがあれば、自らはそれに見合うものを供出せねばならぬ。身共は今日初めてこのことを体感した。実に素晴らしい。クライヴもお見映えがなさるから、ご婦人方のおみ足を引きつけてくださるし」
「何?」
「いや、こちらの話じゃ。さあ、ささやかな幸運の天使の羽根はいかがか? 売りきれ御免じゃよ」
 天使は歌う。クライヴは立ち尽くす。ひとだかりが次第に大きくなっていった。
「ミカエルさまの像を買うよりも、こちらの方が手頃で買いやすいわ」
と、ある女性は言った。
「これはまた見目のいい若衆の売り子さんだ」
そう言ってクライヴの顔をまじまじとみつめ、五つ六つ羽をまとめ買いしていく老女もいた。
 天使は天使で、いつしか子どもたちに、「この歌は知ってる?」と尋ねられ、次々と曲目を変えては一緒に合唱している。
 ……何というせわしない夜だ。
 クライヴは硬貨を受け取ったり羽根を手渡したりしながら、天使を横目で見やり、小さく息をついた。こんなせわしない夜を過ごしたことは、未だかつて一度もない。
 そうこうしているうちに、広場の方から鐘の音が響いた。22時の鐘の音らしかった。人々は鐘の音を耳にすると、誰からともなしに家路につき始めた。
「ん? お帰りになるのか?」
 子どものひとりに天使が尋ねると、子どもは答えた。
「もうお家でお祈りする時間だよ。お姉ちゃんも早くお家へ帰りなよ」
 そう言って、「またね!」と小走りに去って行った。
 通りのひとたちも、引き潮の波打ち際のように静かになっていく。
「もうそろそろ店じまいかの……」
 天使がクライヴを見て言った。
「でも、たくさんお金をいただいた!」
 そう言って、頓狂に喜ぶ。
「……」
 無言でクライヴはうなずいた。草の籠は、羽根の代わりに硬貨で重くなっていた。
 ふたりが歩き出そうとしたとき、茶色のコートを着た幼女がこちらを見ているのに気づいた。
「羽根屋さん、もうお店終わった?」
 天使とクライヴは顔を見合わせる。
「店はもう終わったが、何かご用かの?」
 天使が尋ねると、幼女が手の中の硬貨を見せた。
「羽根、買いにきた。さっきお金持ってなかったから、お金もらいに帰ってたの」
 クライヴはもう一度籠の中を見た。だが、もう羽根は一枚も残っていなかった。
 天使を見た。天使は何事かを察したように、クライヴに小さくうなずいた。
「わざわざもう一度おいでくださったのか? 今、とっておきの羽根をお出ししてこよう。ちと、うしろを向いていてくださるか?」
 幼女はうなずいてうしろを向いた。
「……しまった。何本も抜けた」
 天使がクライヴだけにわかるほどの小さな声でつぶやいた。
「さあ、すまぬの、もうこちらをお向きあれ」
 天使の言葉に幼女が振り向いて硬貨を出す。硬貨は一枚だけだった。
「1カーペルか……」
 うめくように天使は言った。
「お金、足りない?」
 心配そうに幼女は問う。
「うん、3カーペルじゃからなあ……」
「おい……」
 クライヴは天使の顔を見た。誰もいないのだから、無料で渡してあげてもいいのではないか、ふとそう思った。しかし、これは天使自身の身体の一部だったのだから、と思うと、そこから先は口を挟めなかった。
「……そうじゃ、店じまいをお手伝いくださるか? ええと、身共の腰の辺りにちと土がついておるようじゃから、すまぬが払うてくださるか? こう、ちょいちょいと」
「うん」
 言われたように幼女は天使の白いコートの腰の辺りを、背伸びして払った。
「おお、ありがとう。店じまいをお手伝いくださったから、こちらは1カーペルに値下げさせていただこう。よろしいか?」
「うん」
 クライヴは天使から羽根を受け取り、幼女に手渡した。それから幼女の小さな手から1カーペル硬貨を受け取った。
「お気をつけてお帰りになるのじゃぞ」
 走り去っていく幼女に、天使はうしろから声をかけた。幼女は振り返らなかった。暗い夜道に、小さな身体が溶けて行った。


 広場の隅から中央へ歩いて行った。鐘が鳴り終わった広場の屋台は、もうぼつぼつと店じまいを始めている。
「御店主、御店主さま、ちとお待ちあれ!」
 ふたりは走って行って、片付け作業の始まっている屋台に滑り込む。
「パイじゃ、パイくだされ。まだ残っておいでか」
 息を吐きながら天使が店主に訴える。
「はいよ、ちょうどおあつらえむきに二切れ残ってるぜ、ミートパイでいいか」
 店主の言葉に天使は諸手を上げた。
「やったあ、クライヴ、パイがあったぞ、美味そうじゃ。のう、御店主、美味いパイじゃよな!?」
「うまいよ~」
「よろしいよろしい、はははははは」
 高笑いする。天使とは、やはりわからない。またクライヴはそう思ったが、不思議に明るい気持ちだった。
 熱いパイを紙に包んでもらって、クライヴが持った。ふたりはたたみかけの屋台で今日の食事を集めて行った。砂糖をまぶしたドーナツもあった。ぬるみかけたミルクセーキを買おうとしたら、店主がもう一度温め直してくれた。ヌードルの屋台の店主は、降臨祭の締めくくりだと言って、海草をたくさん盛りつけてくれた。さっき会った道化の男たちとも再会した。今から食事だと言うと、笑いながら手を振って帰って行った。
 ひととおりの買い物をしたふたりが広場の中央の噴水の縁に腰をかけたとき、もう広場にはぽつりぽつりとしか、ひとがいなくなっていた。
「寒くないか」
 噴水の水をなぞって流れてくる冷たい風と、降りつづくこまかな雪を感じながら、クライヴは天使に尋ねた。
「うん、でも、どれもぬくい」
 ヌードルのカップに手を当てて、天使が答えた。
「いただきます」
 噴水のかすかな音を聞きながら、ふたりは遅い食事を摂った。
「おいしいおいしい。クライヴ、このドーナツもおいしいよ」
「ああ……」
「クライヴ、パイも美味い」
「ああ……」
 「そうだな」とクライヴはつぶやいた。「美味いな……」とまたつぶやいた。
「野菜が無いゆえ、明日は野菜も召し上がってくだされ」
 ヌードルのスープをすすりながら天使がもごもごと言う。
「クライヴ? どうかなさったか。召し上がらぬのか?」
 いつしか手を止めていたクライヴに、天使がいぶかしげに尋ねた。
「……」
「クライヴ?」
 彼は眼を閉じていた。次に眼を開いたときに、眼の前にはヌードルもドーナツも何もなく、ここで自分に声をかけるひともいないのではないかと思った。全て幻で、今も自分は本当はいつも長い年月歩いてきたような、暗く長い夜道をたどっていて、今夜も生命の隅に屍を積み上げて、その数さえもはやわからなくなっているのに、ただそうせねば自分はここにいないのだと、自分の生きる意味は、ただその死のみに向かっているのだと痛感させられる、そんなことを繰り返しているのだ、そんな夜道の途中にきっと引き戻されるのだ、そう思った。
 眼を開けるのが怖かった。
 それは、今までに感じたことのない類の痛みと悲しみだった。
「クライヴ、お疲れになったのか……?」
 天使の声がさっきより近くで聞こえた。
 ゆっくりと眼を開く。
 何もかもそこにあった。ドーナツもミルクセーキもその湯気も。それから、自分の顔を覗き込む年上のひとの姿も。
「……ハナカズラ、俺の手を握ってくれ」
 低い声でクライヴはそう言った。何故自分でもそう言ったのかわからなかった。天使がクライヴの顔を見た。何も言わなかった。それから、ヌードルのカップを持っていない方の手で、クライヴの手を握った。
「……すまない」
 もう片方の手を額に当てて、クライヴはそのまま下を向いた。何事かを押し込めるようにして下を向いていた。
 どうか俺を放っておいてくれ、死なせてくれ。地上の果てで、誰にも知られないようにして、そして君が知らないうちにひっそりと消えておくから、どうかこの痛みを消し去るために死なせてくれ。そのために、君といさせてくれ。
 そう思った。けれど、同時に、この手を今だけでも離さないでくれと心の中で哀願した。ずっと自分の居場所だと思ってきた暗く長い夜道から、どこかに引き戻してくれ、どこでもいい、引き戻してくれ、引き戻して、生きていてもいいと言ってくれ。人間でも吸血鬼でもない、ただの自分として、生きていてもいいと誰か言ってくれ。そう哀願した。
 そうして、その上にまた雪は降り積もる。


 東の空が明るんできた頃に、また寝床についた。横たわりながら、右手に持った天使の羽根で頬を軽く撫でた。別れ際に、天使がくれたものだった。唇を撫でて、それからそのまま唇で流れを整えた。
 ふと起き上がり、スケッチブックにそれを挟む。
 明日は、この羽根を描いてみよう。
 そう思って眠りについた。

・ グラスバスケット/終 ・



 この話は最初、「クリスマスの話にした方がいいのか」と思ったんですが、クリスマス……、って、うちの世界(?)には存在しないという方向性で漠然と考えていますので……(イエスが存在して、聖母が存在して、という意味でのキリスト教は存在しない、という)、だもんで、「降臨祭」という設定にしました。

 ちなみにハナカズラが文中で歌っている歌は実在の歌の和訳で、原詩の作者は不詳だそうです。映画『いつか晴れた日に』の中で、マリアンヌ(ケイト・ウィンスレット)が歌う「悲しみの泉(Weep You No More Sad Fountains)」という曲であります。和訳は、サントラに載っていたものを載せさせていただいています。(『いつか晴れた日に オリジナル・サウンドトラック』/ソニーレコード(1995年))

 またまたちなみに、この話のイメージソング(?)は、ラッセル・ワトソンとモイヤ・ブレナンのデュエット曲「セイロン・ドーラ(Saylon Dola)」であるという、まあ、私の中ではそういうことになっています(^-^;)。(「Saylon Dola」/ラッセル・ワトソン『the voice』収録/ユニヴァーサル・ミュージック(2001年))