その横を馬車が通りすぎていく。
ロクスは法衣を翻して通りを歩いて行った。時折、手に持っている錫杖を、石畳の上で引きずるようにして遊び歩いて行く。その様子は、どこか幼い子どもが、雨上がりに傘を引きずって寄り道しながら歩いているさまのようでもあった。
祖国のエクレシアを出てから、随分遠くまでやってきたような気持ちもする。そう思いながら一軒の宿屋に入って昼食を摂った。今までに口にしたことのないスパイスが入った料理だったのか、物珍しさを感じながら食事を済ませた。けれど、店から出てきてよくよく路傍の道標を見てみれば、まだエクレシア教国の中のバレーゼという地方だった。彼は少なからず鼻白んでしまった。
天使から示された目的地は、エクレシアの南に位置するレグランス王国のカディスという地方だった。午後からもそこに向けて旅を続けるつもりだったのだが、遠くまでやってきたと思っていたのにまだエクレシアの中だったことに、彼は少々気分を害し、任務を遂行するような気持ちは消えうせてしまったのだった。
ぶらぶらと散歩していると、町外れにまでいつのまにかやってきていて、そこに小高い丘があるのをみつけ、ロクスは何気なく上って行った。少し歩くと、前方に幾人かの老人が集まっていて、何事か小さな声で話をしている様子が見えた。
「おや、お珍しい、お若いお坊さまが」
ロクスが歩いて行くと、ふと老人の輪の中にいたひとりの老婆が、彼を認めて声を上げた。
「こんにちは。よいお天気ですね」
彼は愛想よくそう挨拶しておいた。老人たちの話の中に入ろうという気はさらさらなく、ただ通りすぎようとしたところを呼びとめられ、心の中では少なからず舌打ちをしてもいた。
「教皇庁の……」
別の老翁がロクスの法衣を見たのか、そうつぶやいた。紫の法衣はエクレシアの教皇庁の高僧たる徴であることを、この国境近くの小さな町の住人たちも熟知しているらしかった。
「あの、お坊さま」
また別の老翁が声をかけてきた。その老翁が何事か言いかけたように思えたが、やおらさっきの老婆が
「あんた、滅多なこと、お坊さまにお話ししちゃいけないよ、ご迷惑だよ」
と割り入った。
「しかしおまえ、グレゴリイ牧師さんに、こんなこと言えるかね」
老翁はそう言うと、ロクスに向き直り、まるで合掌するかのように手を合わせた。
「教皇庁のえらいお坊さまに、こんなことお話しするもんではないとわかっとりますが、どうか聞いていただけますでしょうか」
ロクスはそこで一瞬虚空を見た。
「……どういったお話かがわかりませんので、何ともお答えしかねますが」
静かに突き放すような言い方ではあったが、老人たちは彼のその言を「申し出に対する拒否」ではないと受け取ったらしい。俄に安堵したような顔になり、話を切り出した。
「お坊さま、この木を見てください」
言われて見てみると、老人たちの輪がほつれるようにして割れ、さっきまで隠されるようになっていた古木が姿を現した。先端はもうとうの昔に折れていたのか、ぽっかりと黒い洞(うろ)を開けた姿で、ただ根だけが腐らずに残っているといったように見えた。葉も茂っていなければ、滑らかな枝もない。杉のようなざらざらとした黒い樹皮だけはわかったが、植物に対する知識がないロクスには、それが何の木であるのかはわからなかった。
「この木に……、何か見えますかね?」
そう尋ねられて、ロクスは一瞬何のことを言われているのかが理解できなかった。老翁はそれを察してかそうでないのか、すぐに付け加えた。
「それがその……、いわくつきの木でして」
「へえ」
思わずロクスはそう声を上げた。
「いわく、とは?」
「いやあの、それが……」
俄に老翁は口をつぐんでしまった。かと思うと、何かバツが悪そうに小さな声で言った。
「その、魔女が首を吊った木でして」
ロクスは眉根を寄せた。
老人たちが帰っていったあと、ロクスはその立ち枯れの木を眺めていた。そのうちに、ふと顔を上げると、やおら声を上げた。
「出てきたらどうだ」
彼がそう言うと、彼の隣に人影が現れた。彼は思わず辺りを見まわした。誰もいなかった。
彼女以外には。
「ようおわかりになる……」
天使が姿を現した。黒くて長い髪を、今日もひとつにまとめて結い上げてある。ロクスは彼女の言には返事をしなかった。
「お役目ご苦労さま、だ。まだ君が来ているとは思わなかったよ」
天使はちょっと眉をひそめた。不味いものでも食べたかのような顔をした。
「身共はロクスのところに、もう参らぬということではないよ。叔父と交互に参らせていただくということであって――」
「黙れよ」
天使の言を遮って、ロクスはそう言い放った。
「はっきり言ったらどうなんだ、もうおまえの世話にはほとほと嫌気がさしたってな」
そうロクスが言うと、彼女は押し黙って地面を見た。ように見えた。
女天使は何日か前にロクスに言った。彼の守護は、自分ひとりだけではなく、彼女の叔父にあたる天使と共同で行うことにしたと言った。これからは叔父と交互に彼のところに同行にやってくると言った。ロクスは承知した。断る理由がなかっただけのことだった。ただ、理由を訊いても彼女は明言しなかった。
天使だとか言っても、所詮人間と同じだな。
彼はそう思った。女天使とは、出会った当初から会話があまりなかった。酒場や賭博場に入り浸る「聖職者」に、彼女は何も言わなかった。小言を言われるのは勿論趣味ではないが、かと言って「放任」というのにも、何故かロクスはイライラすることがあった。
彼女は自分に興味がないのだ。天使だという大層な身の上でありながら。
ロクスはそう感じることがあった。それもいい。自分の方こそ彼女に興味はない。「相性」というものが、大層なものかどうかは知らないが、おそらくそういったものの折り合いが、自分と彼女にはうまいことついていないのだと思ったし、それだけの話だと思った。だからさほど思いを巡らすこともなかったが、何故か不意に無性に腹が立つときがあった。
何故なのかは、ロクスにもわからない。
「おまえ、僕のことが嫌いなんだろう?」
やおら言い放った。天使が顔を上げて、ロクスを見ながら眼を見開いた。
「身共……、そんなこと申し上げたことないが?」
「だから訊いてるんだよ」
ロクスは溜息をついて、天使を見下ろすようにして言った。
「別に、ロクスのこと、嫌いではないよ」
「嘘つけ」
「何でじゃ?」
「うるさいな……。僕に訊くな」
ロクスはそう言い放って天使に背を向けた。天使が何か言おうとしたように見えたけれど、構わず彼は木の方に向き直り、天使を見ようとしなかった。
「相当ひどいな、こりゃ……」
話をそこで打ち切るように、ロクスは枯れた黒い木の表面をなぞりながらつぶやいた。ささくれだった樹皮の波を指の腹でなぞると、まるで死にかけた木が最後の衣服の残骸をこそげとられるたびに震えているように思える。ちくちくする。
ぼんやりと木を眺めている間、天使は黙ったままじっと彼の方を見ているようだった。が、ロクスは意識して、彼女に構おうとしなかった。
そのまま彼は木を眺めていたが、不意に視線を感じて顔を上げた。少し離れたところに叢があって、そこから小さな少年がこちらを見ているのだった。その眼がまるでロクスをじっと睨みつけているような、監視しているような眼だったので、ロクスは思わずむっとして少年を見返した。
「おい、坊主。僕に何か用か?」
声高にそう言ってやると、少年は最初びくりとしたように見えたけれど、怯えているといった様子でもなく、そこですっくと立ち上がって言った。
「坊主はおまえだろう!」
少年の切り返しに、ロクスは思わずこめかみで反応した。
「何だ? 坊主ってのはガキってことだ、おまえのことを言ってんだ。さっきから僕を見張るみたいな眼で見やがって。言いたいことがあるならはっきり言え、クソガキが!」
「うるさい、クソ坊主! おまえこそ、その木を見てんじゃねえや! よそモンの坊さんがその木を見るな!」
少年の剣幕に、一瞬ロクスはたじろんで押し黙った。まるで石でも投げつけてきそうな少年の勢いの理由がわからなかったのだった。
「この、ドクソガキ……」
うめくようにしてロクスが言ったとき、草を踏んで走ってくる足音が聞こえた。
「アーネスト! こんなところに」
息せき切ってやってきた黒衣の男の胸には、銀色のロザリオが揺れていて、その男が少年のところに駆け寄ると、少年は唇をとがらせるようにして男を見た。
「だって父さん、マルガレテおばさんがさあ、何かえらい坊さんに木を見てもらってるとか言ってたから――」
「いいから、おまえは家に帰りなさい。さあ、父さんも帰るから。もうすぐ夕飯だ」
「まだ4時だよ」
「いいから、さあ」
男に促されて、少年はしぶしぶといった風情で歩いて行く。ちらりとロクスの方を振り返って、舌を出すような仕種をしたのが見えた。少年を急かすようにして歩かせる男も、ロクスをちらと見やって、小さく会釈したように見えた。けれど彼はロクスに一言も話しかけることはなく、少年と一緒に元来た道を帰っていってしまった。
「何だ、ありゃ……」
ロクスはふたりの背中に向かって口の中でつぶやいた。
「ロクス」
不意に背中から呼ばれた。天使の声だった。
「何だよ」
「その木、さきほどいらした御老人方のお話では、魔女が昔首を吊ったとか?」
ロクスは振り向いて天使を見た。天使は草を右手に持って、それを左手の指でくるくると巻き取るような手遊びをしながら立っている。
「……ああ。君、知らないんだな、『バレーゼのペネロープ』の話」
「バレーゼの……、ペネ……?」
「ペネロープだ。女の名前だよ、さっきの爺さんは魔女の名前は言わなかったけどな。教皇庁の人間なら知ってる。昔、このあたりに『神の手』を持った女がいてさ。それを魔女だってんで、処刑しちまったって話」
言いながら、ロクスは何故か小さく笑った。バレーゼで昔あったという「魔女狩り」の話は、教皇庁の人間なら誰でも知っていることであった。だが、一般のエクレシアの国民に広く公言されていることではない。何故ならば、その「魔女狩り」には、当時の教皇が深く関わっていたからだというのは暗黙の了解だった。
「その、ペネロープという方は、どうして魔女ということで処刑されたのじゃ?」
小さく問う天使の様子に、ロクスは「さあな」と、大袈裟に両手を広げてはぐらかしておいた。天使がふくれたように押し黙ったのを見て、ロクスはそこで鼻で笑った。
「知りたいか? 教えてやってもいいよ」
「……知りたい」
「ふうん?」
ロクスは意地悪く笑った。天使を見て、それから面白そうに口許を歪ませた。
「いいよ、なら、教えてやるよ」
ロクスの笑みに、天使はふくれたままで、うなずいた。
さっき会った老人たちは詳しくは説明しなかったが、ロクスは知っていた。知っていたから、彼らに「魔女」についての説明を求めなかった。老人たちは、この丘の立ち枯れの木に呪いがあると信じていて、それを処分しようと主張する者と、祟りがあるから処分はしてはいけないと主張する者、その二派に町は分かれているのだと言っていた。だから「高僧」であるロクスに、その判断を求めてきたのだった。
じっくり検分したいから、という大義名分を持ち出して、ロクスは老人たちを帰らせた。実際のところ、彼には「判断」をあとで老人たちに伝えるつもりは毛頭なく、適当にぶらぶらして立ち去ろうと思っていたのだが、それにしても「バレーゼのペネロープ」の首吊りの木というものが、こんな田舎町にあって、そして今でも残っているとは感慨深いような気もして、すぐにはそこを立ち去る気にはならなかった。
バレーゼのペネロープのことをロクスが知ったのは、確か10歳になるかならないかの頃だったと彼は記憶している。
「癒しの手」と呼ばれる能力をロクスが持っていることがわかったのは、彼が8歳のときのことで、それからすぐに「次期教皇」として聖都に連れられていった。そのときから、彼には教皇になるための教育がなされたのだが、その「教育」というものは、何も「教師」役である高僧たちから教授されることばかりではなかった。
ロクスの部屋の書棚には、いつからそこにあったのかわからないような書物がたくさんあった。教授陣たる高僧たちは、ロクスにそれらの書物を読むように指示したことはなかった。そして、ロクスもさして読書好きだったり勉強熱心というわけでもなかった。ただ、そこにあった書物のタイトルは、そんなロクスにも手を伸ばさせてしまうようなタイトルのものが多かった。
その中の一冊には、こうあった。『悪魔の手』というタイトルがつけられてあった。
10歳のロクスはその本を手にとった。ページをめくるとひどく黴臭いような気もしたけれど、装丁の立派な大振りの本で、糸で綴じられた部分には、ほつれたりしているところもない。
エクレシア教国の南、バレーゼ地方に、昔、ペネロープという「魔女」がいた。
『悪魔の手』は、そんな書き出しで始まっていた。最初ロクスは、この書物はフィクションなのかそうでないのかがわからなかった。しかし、読み進むにつれ、これは想像された物語ではないのだということがうっすらと理解できた。記述の仕方が編年体、つまり時間軸に沿って記録的に記されてあったからだった。次期教皇の少年の部屋に、わざわざ編年体様式で書かれた空想の物語が置かれてあるとは思えなかった。
『悪魔の手』は、「魔女」ペネロープについて、こう記述していた。
ペネロープが右手には、魔 宿りたり。
あまねく傷を治し、あまねく病を治す。
けだし、癒しの手とは違えり。
10歳のロクスは、勉強好きではなかったが、それでも聡明な少年だった。書物の内容をきちんと理解しながら読んでいた。
昔、バレーゼに住んでいたペネロープという女の小さな息子が流行り病に罹ったという。夫とは死別してしまっていたペネロープは、女手ひとつで息子を育てていたが、生活は逼迫していて、薬すらまともに買えなかった。医学に助けを求めることができない彼女は、近くの教会に毎日祈りに行った。すると、ある日、彼女が家に戻り息子の額に触れて熱を測ろうとした途端、それまで苦しげに横たわっていた息子が起き上がり、次の日には元気になっていたという。
ペネロープは神の加護だと信じ、そしてその噂は村中に広まった。彼女と同じように病気の子どもを抱えた貧しい大人たちは、こぞってペネロープを家に招き、そうして子どもの病気を治してもらった。
これを当時の教皇が聞きつけた。教皇は、もう60代も後半の老いた男だった。教皇側はペネロープを聖都に呼び出し、その力の真偽を確かめようとした。
このあたりの詳細については、『悪魔の手』は記述していない。
そうして、いきなり「ペネロープ処刑」の記述となっていた。
ペネロープの「治癒の手」は、教皇の「癒しの手」と区別するために、人々からはいつしか「神の手」と呼ばれるようになっていた。教皇の「癒しの手」とは、教皇の教皇たる証で、この能力を持つ者だけがエクレシアの「教皇位」に就くことができる。あらゆるものの傷、あらゆるものの病を、それに触れただけで癒してしまうという能力である。
ペネロープの「神の手」のことを、『悪魔の手』では、「教皇の『癒しの手』を汚す悪魔の所行」と記述している。そうして、やはり詳しいことは何一つ記していない。何らかのいきさつで、ペネロープは故郷のバレーゼへ帰され、そうしてバレーゼの人々だけにわかるような処刑がなされている。
バレーゼの小さなある丘に立つ木で、彼女は自らの首にロープをかけて首吊りになることを宣告された。そうして息子や村の人々が見守る中で首を吊って死んだ。
だから教皇庁側の人間は、誰も直接には手を下していないということになる。
首を吊ったペネロープの亡骸からは身体中の体液が流れ出て、それをかつて彼女の「神の手」で子どもを救ってもらった村の大人たちが綺麗に掃除をしたという。
そこで、『悪魔の手』は、語ることをやめている。
ロクスは表紙をもう一度見直してみた。筆者は、かつて副教皇を務めた人物の名前になっていた。
この副教皇は、ペネロープの手が「悪魔の手」と当時言われたことを記し、自らも本編の中でそう記していた。
が、ロクスは首をかしげた。
奥付のページに、小さな小さな文字で、「ペネロープと、その息子、そしてバレーゼの貧しいひとたちに捧げる」という手書きの一文が、うっすらとしたインクで書かれてあった。
――本当に、坊主というものはわからない。
ロクスはそう思った。
「天使もさ、悪魔と同じだよな」
魔女についてかいつまんで話し終えたロクスが、不意にそう言った。天使は面食らったように、「え?」と声を上げた。
「ペネロープが悪魔の手を持ってた、ってんなら、君だって悪魔と同じだって言ってるんだ、ハナカズラ」
冷たく言い放ったロクスに、ハナカズラと呼ばれた天使は、
「う、うん……」
と、うめくように返事をした。
「馬鹿」
やおらロクスが言った。
「そこで肯定すんのかよ、そうしたら僕だって悪魔ってことになるだろう。ほんっと、君は天使のくせに気が利かないよなぁ……」
言いながらロクスは自分の手を眺めた。癒しの手と呼ばれる力が眠る手だった。
この手と別々に今まで歩んだことがあっただろうか?
ふと、そう思った。
この手があったから両親とも離れ、聖都で法衣を着て、教皇庁の名で金を工面し、酒を飲み、カードをする。
すべての源は、この手なのだろうか?
そうすると、「ロクス・ラス・フロレス」という人間は、この世のどこにいるのだろう。
この手がついている身体ならば、「ロクス」という自分でなくとも、誰だっていいのだ、教皇庁にとっては。そう思えた。
そうして、同じ時代に「教皇」はふたりも要らないのだ。たまたまロクスが生まれた時代には、他に「癒しの手」を持つ人間がいなかったから、彼が「次期教皇」としての待遇を受けていて、そうでなかったら「悪魔の手」を持つ男と言われたかもしれない。
そう思った。
「君も、僕のこの手を見て、『勇者』なんてものに勧誘にきたんだろ」
天使に言った。ハナカズラは、また「え?」と言った。そうして、
「実は身共、ロクスにそのようなお力がおありということ、最近まで知らなんで……、あの、よう知らずに最初お会いしてしもうて、失礼なことを……」
恥ずかしそうにそう言った天使を、ロクスは思わず見た。
「知らなかった?」
「うん、いや、聖職の方ということは存じておったよ。でも、お力のことまでは」
「へえ」
ロクスは無意識のうちにそう声を上げた。拍子抜けした。
「じゃあ、何で僕のところに来たんだよ?」
「う~ん……」
ハナカズラはそこで頭を掻いた。
「あのな……、ん~、ロクスは『気』というもののことはご存知か? あらゆる生物から出ておるオーラのようなもののことなのじゃけれども、えー、ロクスの気は、何か、うん、よかった」
「よかった?」
何がよかったのか、さっぱりわからない。
「うん、よかった」
真顔で天使が答えた。
「ふうん……。よかったのか、僕の気が」
「うん、そう」
「へえ」
ロクスはそれきり黙ってしまった。
「よかった」と言われて、悪い気はしない。
ときどき、どうして自分なんかに「癒しの手」があるんだと叫び出してしまいたくなるときがある。
どうしてどこか遠くの知らない奴じゃなくて、自分にこの手があるのかと訊いてみたくなるときがある。
だけど、誰に訊けばいいのかがわからない。
訊けば、何かに負けたことになるような気もしてならない。
手を眺めてみる。癒しの手を持つ自分は、そこらの人間の上に立つ人間なのだと思っていられた頃もあった。けれど、いつからか、この手とは関係のない「ロクス・ラス・フロレス」というただの人間として、1分1秒でも生きたことがあっただろうかと思うようになった。途端に、この手の分だけ、自分は他の人間よりも「劣っている」ような気分になってしまうことがあった。
ロクス・ラス・フロレスは、この世界のどこで生きているのだろう。生きているのだとしたら、それは8歳になるあの日まで両親と暮らした故郷の日々で、あのときからロクス・ラス・フロレスは何も成長していないし、そこに閉じこもっているし、そうして今は教皇庁の名前がなければパンのひとつだって買えやしないんだよと。
そうやって自分を貶めてみると、妙に快くて、それでいて悔しかった。
この手の力がなければ、自分は誰よりも無価値な人間なのではないか。
だったらこの手の力をどうすればいい。
どれもこれも答えが出なかった。
こんな力なんて要らないんだと口では言っても、この力がなくなってしまえば、自分が生きている意味はどこにあるのだろうと思った。誰が必要としてくれるのだと思った。この力があれば、少なくとも教皇庁の人間は「次期教皇」であるロクスを必要としてくれる。
そこまで考えて、副教皇に反発し、教皇庁にも反発し、悪態をついている自分なのに、心の何処かで自分にとっての安全な場所である「教皇庁」を拠り所としていることに気がついて、死にたくなるほど悔しくて、情けなくて、悲しくなってしまうこともあった。
おまえなんか必要じゃないと言いながら、逃げながら、それでも何かにとりすがって追いかけているような、そんな気持ちがしてならなかった。
まるで子どもだ。そう思った。
こんな力なんて要らない。
そう言っても、どうかこの力よ、なくならないでくれ、と心の何処かで思っている自分がいる。
立ち枯れの首吊りの木を見た。
ペネロープ、あんたはえらいよ。そう心の中でつぶやいた。
ちゃんと「神の手」の力を役立てた。息子を助け、村の子どもを助け、たとえあとで処刑される運命に気づいていなかったとしても、彼女はそのとき幸せだったかもしれない。
息子が助かってよかった、村の子どもたちが助かってよかった。そんなふうに喜んでいただろうと思う。そうして、ロクスには、彼女が羨ましかった。
僕は、自分にこの力があってよかったと思ったことがない。
どうして自分にこんな力があるんだと思ってばかりいる。
何故ならば、見捨てることも助けることも、同じくらい恐いからだ。
どうしてただの「人間」である自分に、こんな判断を強要するのか、誰が強要するのか、そればかり考えて叫んでしまいそうになる。
癒しの手とは何だ?
死にゆく者をすべて救うための力なんだろうか?
自分が、「この人間を救おう」と思えば救うことができ、見捨ててしまおうと思えばそのまま死なせることができるのだ。
怪我をした人間がいれば、見なかったふりをして通りすぎた。馬車にひかれた犬が路上に横たわっていれば、どうか死んでいてくれと願ったこともあった。死んでいてくれれば、自分は何の判断もせずにこのまま通りすぎていくことができる。
「神」でもなく、「無力なロクス」でもなく、ただそのまま、何の判断もせずに、通りすがりの男として通りすぎることができる――。
誰がこんな力を僕に与えたのか。そう思った。
酷い酷い仕打ちだと思った。この力を自分に与えた存在を恨んだ。
そうして、そんな境遇に押し潰されそうな自分を憎んだ。
どこにも安息の地はない。
老人たちには、このまま会わずに宿へ帰ろうと思った。
夕暮れの西日が射してきて、天使の黒い髪も赤く染まった。
「なあ、どうして僕に、この『癒しの手』があるんだろう。神さまにでも訊いてきてくれよ、今度」
冗談まじりにロクスはそう言って天使を見た。
「ロクス……、身共、神さまにはお会いしたことないのじゃ」
申し訳なさそうに天使が言った。
「何だ、君、結構偉い手の天使ってわけでもないのか?」
「え、うん。身共、ヒラ天使じゃ」
「何だ」と言って、ロクスは天使を見下ろすようにして言った。
「出世しろよ、とっとと。ヒラ天使が僕の守護なんて、こっちはやってられないからな」
天使がむくれた。かと思うと、ふと顔を戻して言った。
「ロクス、癒しの手をお持ちなのに、えらいよ」
不意に天使がそう言ったので、ロクスは一瞬面食らった。
「何だ? 何言ってんだ?」
「あのな、普通の人間なら、そんなお力があれば、気が変になると思うよ」
「じゃから、ロクスはえらいと身共は思うよ」と、天使は言った。
「僕は十分おかしいよ。もう馬鹿になってるだろ」
ロクスはにこりともせずにそう答えた。
「ロクスは馬鹿ではないよ。まともじゃよな。えらいよ」
天使も真顔で答えた。
「あ、身共、そろそろ失礼するのじゃ」
ぺこんとお辞儀したハナカズラが、そうして飛び立とうとしたときに、ロクスは小さな声で言った。
「おい、また来いよ」
「うん」
天使がうなずいた。ちょっと笑った。そうして見えなくなった
昼間食事をとった宿屋のある町に戻ってきた。
石畳の上に、まだ猫の死骸が残っていた。
昼間いなかった子猫が3匹、その死骸の傍らで身を寄せ合って鳴いていた。
ロクスは立ち止まって死骸を覗き込んだ。
どうか死んでいてくれ、と、そのときは何故か思わなかった。
よくよく見てみると、死骸かと思っていたら、まだ息があった。
ちょっとためらってから、手を伸ばした。横たわっている猫に触れそうになったとき、思わず手を引っ込めた。が、すぐにまた手を伸ばして、猫を抱き上げた。
咽喉のあたりを撫でてやると、呼吸音が整った。身体全体を撫でてやると、虚ろだった眼に光が戻った。
路上に下ろしてやると、3匹の子猫が駆け寄ってきて親猫にすりよった。
4匹の猫は三毛猫で、薄汚れていても綺麗だなとロクスは思った。
・ 首吊りの木/終 ・
ハナカズラが文中でも言っていますが、ロクスは「まとも」であり、いや、「まとも」を越えているくらいなんですよね、「癒しの手」を持っていながら、それを嫌悪し懊悩するという形の「正気」を保っているので。しかし何かこのゲーム、そこらあたりをもっと掘り下げて描けばいいんじゃないかと思うのに、何か天使のセリフもぼんやり~~~で焦点が合ってないことも多いし、勇者のセリフも痒いところに手が届かないのが多いという感じがして、そういうところには時々もやっとします。だったら自分でここんとこ自分なりに書いてみるわい、という、そんな感じで書いた一篇でありました。