赤い風船と青い風船が浮かび、離れては寄り、離れてはまた引き合う。
 遠く、バザールの出口辺りで、それが幾度となく繰り返されるさまが見える。
 そのとき彼女の傍らの男は、3つ目のコーンアイスに口をつけたところだった。
「ねえ、もういい加減にしたら?」
 ナーサディアがそう言うと、男は気を損ねた風もなく、「何が?」と尋ね返した。
「さっきから、そこのアイスクリーム売りのところばかりうろうろしてるじゃない」
 ちらりと彼女は斜向かいのアイスクリーム売りを見やる。そして、心持ち声を低めた。
「ちっとも買い物ができやしないのよ」
「好きに見てまわってきたらええやんか」
 彼女の苦言に男は白い前髪を揺らして答えた。唇の端に、ミルクアイスが薄く残っている。
「嫌よ。手間じゃない。はぐれたら。探さないといけなくなる」
「そんときはそんときで、探したらええやんか」
「だから手間だって言ってるでしょう」
 彼女は眉根を寄せた。男はコーンをバリバリと噛み砕きながら言った。
「じゃ、ちっと待っててくれる? 食べ歩きは、お子さまへの教育上、好うないからねえ……」
 言いながら、男はぐるりを見回す。若い母親に連れられた兄弟が、ケチャップのついたポテトフライを食べながら歩いていく。口の周りも手もベタベタだった。
「たまにはまともなことを言うのね」
「一応、大人ですからね」
「それに一応、天使ですものね」
「一応かい」
「一応よ」
 「天使」と呼ばれた男は、コーンの最後のかけらを口に放り込み、両手を軽く叩きあわせ、屑を払った。それを見たナーサディアが歩き出そうとすると、彼はおもむろに向かいの屋台に向かって歩いて行った。
「あー、ご主人。これは、何かこう、いわれのある石?」
 ナーサディアの背後で、男が屋台の主人に向かって尋ねる声が聞こえる。あの男……、また寄り道ばかりして。
「クヴァール辺りに行けば、倍の値段になるよ」
 石を売っているらしい屋台の中から、白い髭を伸ばした老主人は、口を開くなりそう言った。
「ん? そのままでも結構な値段みたいやけど……、それでもヘブロンでは大して価値は出てへんっちゅうことかね?」
 並べられた石の中から、男は飴玉のような小さな石を手に取った。陽にかざす。ナーサディアにも、透けた緑色の光がよく見えた。
「ベリーランド」
 ナーサディアが呼びかけると、男は「ちょっと待って」というように片手を挙げた。彼女の方を見なかった。彼女はその態度が気に入らず、無意識にむくれた。
「それはー……、ミドリ石という」
「そのまんまやね……。何でこれが、クヴァールでは価値が出る?」
「大事にされてるからだよ」
「大事に?」
 主人はうなずいた。
「そう、クヴァールの教会ではね、ミドリ石は天主の涙になぞらえて、大事にされてるんだよ」
 そして付け加えた。
「もしクヴァールに行ったなら、鑑定士に見せてごらん。ここでの値段の倍はつく」
「ここ、ってヴォーラスのことか。ヘブロン全体?」
「ヘブロン全体だよ。この国では、ミドリ石への特別な信仰はないからね」
 ベリーランドはミドリ石を品定めしている。その様子を少し離れたところから眺めていたナーサディアの肩を、誰かが三度叩いた。驚いて振り向くと、毛糸の帽子を目深にかぶった初老の男が立っていた。
「彼氏、あんたの連れかね。石を買おうとしてるんじゃないか、あの爺さんから」
 小声でそう言った男に、ナーサディアは心持ち身を引きながら、「さあ」と答えた。
「あの爺さんの売ってる石は、本当なら二束三文って代物ばかりだ。ハッタリかまして売りつけてるだけで。彼氏に言ってやんな。買うだけ損するってな」
 諭すように告げる男に、ナーサディアは「そう……」と小さく相槌を打っておいた。そして、やおらつづけた。
「でも……、本当にハッタリかどうか、あのひとにも私にもわからないし」
 毛糸の帽子の男は、彼女のその言葉を聞くと、「せっかく教えてやったのに」というような顔をして、黙ってそこから離れて行った。
 入れ替わるように、ベリーランドが彼女の傍らにやってきた。手に、小さな紙箱を持っている。
「買ったの? 石」
「うん? ああ」
「さっき知らないひとがね」
 どちらからともなしに歩調を合わせて歩き出し、そのリズムに乗ってナーサディアは語りかけた。
「あのお店はハッタリだって。買うな、って言ってたわよ、その石」
「ほう」
 顔色を少しも変えず、ベリーランドは紙箱を懐にしまった。
「ま、誰がホントのこと言うてるかはわからんし。ここでは確かめようもないしな」
「そう言うと思って、適当に聞いておいたわ。本物の忠告だったかもしれないけど」
「あれま」
 頓狂な声を出し、ベリーランドは歩調を緩めてナーサディアを見る。
「何よ」
「いやいや……」
 それだけ言って、ベリーランドは心持ち肩をすくめたように見えた。
「気になるから言って」
「たいしたことじゃないって」
「気持ち悪いのよ」
 ひどいなあ、と、ベリーランドは大仰に息をついてみせた。その瞬間、「あ」と声を上げて前方を指差した。
「何? 話逸らそうとして」
「違うって。意外な顔が」  ナーサディアは、天使が指す方向を見た。立ち並ぶ屋台に眼をくれるふうもなく、ひとりの若い男がまっすぐこちらへ向かってくる。長い金の髪と、白い外套が翻った。
「浮いとんなぁ……。これまた見事に」
 つぶやいて、ベリーランドは眼を細めた。くすんだ色の衣服をまとった老人の多いバザール会場で、その男は妙に目立っていると言いたかったのだろう。
「奇遇だな。ベリーランド」
 眼前まで歩み寄ってきたその男が挨拶する。それには答えず、ベリーランドは男の肩に手をかけ、声を低めて言った。
「挨拶はあとや。ちっとこっち来てごらん。往来の真ん中で、おまえみたいな王子さまルックのヤツが立ってると、悪目立ちしてしょうがない」
 言うなりベリーランドは、ナーサディアにも手招きし、会場の端の方、水飲み場近くに男を連れて行った。
「いきなり引っ張ってこられるとは、結構なご挨拶だ」
 男は眉を寄せてベリーランドにそう言うが、ベリーランドはさしておもしろがる色もない。
「シーヴァス、帝王学にはTPOという概念が無いんか。言うてごらん、ティーピーオー。こんな庶民の場に、そんな貴公子ルックなヤツが来たら、どこのお貴族さまの監査やっちゅうて、誰しもビビってしゃあないわ」
「失敬な言い草だ、いつもながら。君はいつだってそのままで十分庶民に溶け込むだろうが」
「何でや」
「オーラの問題だ」
 フン、と鼻で笑ってベリーランドはナーサディアを見た。
「聞いた? 今の発言。このお兄さん、これでも『勇者』さんなの。しかも若さま。フォルクガングさまとこのシーヴァスさま」
 ナーサディアはうなずいた。
「聞いたわ。でも若さま、別に間違ったことは言ってないんじゃない?」
「何がよ」
「オーラの話よ」
 彼女の言に、ベリーランドが苦い顔をする。
「おふたりさんとも、まがりなりにも守護天使やってるモンに向かって『オーラがない』とは、非常にきついものがあるとお分かりかね」
「あいにくと、帝王学には、そういう無駄な気遣いの概念がないものでね」
「悪いけど、私はもともと気が利かない女なのよ。あなたほどではないにしろ」
「何? おっちゃんのどこが気が利かんと――」
 シーヴァスが、大仰に両手を広げてみせた。
「女性を連れておきながら、紹介が遅れている。彼女にも私にも礼を失しているだろう」
「おっしゃるとおりよ、若さまの」
 ナーサディアは言いながら、思わず笑った。
「あー……、なるほどね、確かにね。悪かった。シーヴァス、こちらはナーサディア。『勇者』をやってくれてる、カノーアの踊り子さん」
 ベリーランドが紹介すると、シーヴァスはナーサディアに向かって右手を差し出した。
「お近づきになれて喜ばしい。以後お見知りおきを。あなたとは、話が合いそうだ」
 その手を握り返してナーサディアは答えた。
「ご期待に沿えるかどうかはわからないけど、今の感じだと、仲良くなれそうな気がするわね」
「光栄ですね。是非もっと踏み込んだ話もしてみたい」
「いいわね。おいしい豆の食べ方とか?」
「何故、豆です?」
 訊き返したシーヴァスに、ベリーランドが肩をすくめた。
「今、豆に凝ってはるのよ、こちらのお姉さん」
「便秘解消に効果があるの」
「妙齢の女性が、そんなことを人前で言うて構わんのかね」
 ベリーランドは眉を上げて尋ねる。どこかおどけたふうにも見えた。
「デリカシーのないひとの『勇者』をやっているものだから、しょうがないわね」
 そううそぶいたナーサディアに、シーヴァスは腕組みをしてうなずいた。
「では、私も気をつけなくてはいけないな」
「ええ、十分お気をつけて。若さま」
 また、フン、とベリーランドが鼻で笑った。そして言った。
「言うてなさい、ふたりで」
「ああ、いや、君をいじるために声をかけたわけじゃない」
 両腕をほどき、天使と女勇者を見て、シーヴァスは切り出した。
「せっかくヘブロンで逢ったんだ。ヨーストまでお運び願えないか。馬車をご用意しよう。私の邸で食事と……、ご宿泊はいかがかな」
「まあ」
 ナーサディアが声を上げた。
「豆料理もご用意しますよ」
 笑んだシーヴァスが、ナーサディアに語りかけた。
「それは嬉しいけど……、いいのかしら」
 貴族の館に泊まれる機会を、理由もなしに逃そうとする女性はおそらくいない。いつも泊まっている宿屋とは、比べ物にならないくらい快適だろう。
「ナーサディアがええんなら、ふたりで決めて。シーヴァス、あとは頼むから」
「君もだ、ベリーランド」
 招待されているのはナーサディアだけだと思っていたベリーランドは、「は?」と頓狂な声を上げた。
「おっちゃんには、宿は必要ないんやが」
「いいから来たまえ。お招きすると言っている」
 何故か強い語気を帯びてそう言うシーヴァスに、ベリーランドは首をかしげた。
「何か、怪しいなぁ……、おまえ」
 いぶかってベリーランドが言う。
「何がだ」
「そもそもおまえ、こういう場所に来るような男か? 何かおかしい、しっくり来ん。プライベートでおっちゃんとひょっこり逢うても、知らぬ顔で通り過ぎるんならわかるが、わざわざ声かけてきて――」
「美しいご婦人を連れているからだ。君を目当てに声をかけたわけではない」
「あら、豆のおかげで肌が綺麗になったからかしら」
 ナーサディアが右頬を撫でるように押さえる。
「じゃあその便秘の治ったウツクシイご婦人だけ連れていったらええやろ。何でおっちゃんまでヨーストのおまえの巣まで行かなあかんねん、何ぞややこしいことでも企んどんのと違うか」
「便秘便秘って、連呼しないでよ」
「おっちゃんは一回しか言うてへんわ。それに姉さんが自分で最初言うたやろうが」
「何で君はそんなに私の邸を嫌がるんだ。失敬だな、本当に」
 そこまでやりとりがあり、三人はふと気づいた。
 周りに人だかりができていた。知らぬうちに、声高になっていたらしかった。
「……とりあえず、ここ、出ようか」
 ベリーランドが小さく言った。シーヴァスと、ナーサディアもうなずいた。