「天使」がやってきたとき、彼はテーブルの上にあった瓶に手をかけたところだった。この風の気配とかすかな香りには、実はもう慣れていた。だから「天使」の姿が見えなくとも、彼にはその男が自分の傍にまでやってきているのはわかっている。それでも彼は顔を上げずに、そのまま瓶だけをみつめて取り上げた。
「いつもより、えらい遅い時間やな。わざわざ寝酒の相伴に男を呼ぶ趣味があったとは、今まで知らんかったわ」
 さほど高くはないが、それでいてどこか滑らかに響く男の声にまだ背中を向けたまま、彼はコルク栓を抜くと、今度はグラスを持ち上げて言った。
「誰も『相伴』を呼んでいるだなどと言っていない。君はミルクの方がお好みではないかとも思うがね。何なら、温めたものを持ってこさせようか」
「おう、牛乳大好き。なかなか読みがええ」
 腕組みをして、その男はうなずいた。
「そうか。ああ、忘れていたが、今、我が家には10日ほど前の牛乳しか残っていない。畑への散布用だ。まあ、君はどうせ味などわからんからいいだろう、多少の腐敗臭や苦味くらい、な」
 言いながらシーヴァスが、テーブルの上のコルク栓に触れようとしたとき、男の白い手がシーヴァスの眼の前を横切り、そうしてコルク栓を音もなく持ち上げた。
「ちょうだい、これ」
「どうするんだ、そんなもの」
「とある青少年に貢ぐの。こういうアイテムを、雑貨作りのために集めてる少年に」
 瞬間、眉根を寄せてシーヴァスが男を見る。男は白い前髪を、この日は後ろに撫で付けてあり、彼の紅い眼がシーヴァスにはよく見えた。
 寄せていた眉をひらくと、シーヴァスは言った。男の手から、コルク栓をつまみあげる。
「ダメだと言ったら」
「意外とケチやな、と。ひとの欲しがるものは、惜しゅうなるクチか」
「別に惜しくはないさ」
 そう言うと、シーヴァスは少しだけ唇を歪ませて、コルク栓を男に手渡した。
「こりゃどうも。ほんまに貰うけど」
「お好きなように」
 応えるシーヴァスを見て、男が眼の端で笑った。……ように、シーヴァスには見えた。
「何がおかしい」
「いやぁ、なかなかええコルクやな、砕いて使うたら具合いい」
「砕く?」
「こういうコルクはな、ナイフで削って砕いてクランチにしてな、どうすると思う?」
「知らん」
 にべもなく答えたシーヴァスは、グラスのひとつに透明なワインを注いだ。それからそれを持ち上げ、ちらりと男を見る。
「コルクをクランチ状にしたものは、ピーナッツとかアーモンドのクランチに見立ててね、粘土でつくるドール用のパイとかケーキの材料にすんの。切り口からクランチが見えてな、本物みたいで美味そうに見えるの、これが」
 言いながら、彼はシーヴァスが差し出したグラスを受け取り、それを少し掲げてみせた。
「いただくけど」
「ああ、ミルクでなくて申し訳ないが」
 ふたりは何とはなしに、椅子に腰掛けた。


 シーヴァスが用意していたのは白ワインだった。フォルクガング家所有のワイナリーのうち、彼が最も好んで飲む銘柄の白ワインを製造しているのは実に2箇所、そのふたつのワイナリーから、シーヴァスがワインを自邸にまで届けさせる回数が、ここ1年のうちにかなり増えていた。人々は、それは、フォルクガング家の若い継嗣が歳を重ねていっている故だとしか思っていなかった。
 ワイナリーの人々は、主人から注文が入るたびに、「フォルクガングの若宗家」への荷物を作るが、実際のところ、そのワインを口にするのはフォルクガングの若宗家だけではないことを知らない。
「おっちゃんの顔に、何かついてるか?」
 不意に男に言われ、シーヴァスは、自分が無意識のうちに男の口の辺りをじっと凝視していたことに気がついた。
「天使のくせに、酒に意地汚い口がついている」
 そう言ったあとで、シーヴァスは胸の浅いところに妙なしこりを感じた。いつもなら、「意地汚い」などという言葉を用いて、他人と会話することなど自分にはありえない。だがこの男を前にすると、妙に軽はずみな、それでいて心安いような、そんな手っ取り早い会話をしてしまう自分にときどき出会う。それが不快なわけではないのだ。だが、そんな「不快ではない」心持ちの自分を、「普段の自分」が眺めるとき、そこには妙に腑に落ちないもの、そして戸惑いのようなものを感じてしまうことがあった。
「酒は口で味わうモンやない」
「わかっている。君の言いそうなことだ。酒は口で味わうのではなく――」
「うんうん。それで?」
「……」
 彼の言を待ち、自分からは何も言い出さない男の顔を思わずシーヴァスはみつめた。
「何故私が言わなければいけないんだ。ここは、君が言うべきところだろう、君が言い出したんだ」
「おっちゃん、別に言いたいことなんてない。ちょっと『口で味わうモンやない』って、言うてみたかっただけ」
 表情を変えずにそううそぶくと、男はワインをひとくち飲んだ。
 黙ったまま、シーヴァスはため息をついた。そのまま立ち上がり、テラスにつづく大窓を開けた。このシーヴァスの自室の灯りは、さっきからずっと落とされたままで、月の影だけが、黒い海のような春の夜の中から、彼らの姿を静かに掬い上げ、浮かび上がらせ、そうして時間をかけて旋回していく。さっきまで飾りのついた頑丈なガラス戸を隔ててふたつに分かれていた世界は、今開け放たれた窓を境に融け合い、淡い緑のにおいも、さやかな犬の遠吠えも、弾き返されることなく部屋の内にまで流れ込み、そうして彼らの耳に行き着いたところで安らかに溶けてなくなっていく。

 どうして灯りをつけない。

 そんなことを男がシーヴァスに尋ねたのは、あとにも先にも一回きりのことで、それはもうこの春の夜から1年も前の話だった。

 完全に、ひとりきりになるためだ。

 シーヴァスは、そう答えた。
 彼の自室からは、3つ隣にある部屋の灯りがかすかに見える。これは言い換えると、その3つ隣の部屋からも、シーヴァスの部屋の灯りが見えているということだろう。その部屋には、このフォルクガングのヨースト別邸を取り仕切る執事が寝起きしている。真夜中何時になっても、シーヴァスの部屋に灯りが点されていれば、執事の性格上、先に休むということはないだろうとシーヴァスは思った。事実、シーヴァスの部屋に灯りが点いていれば、執事の部屋はそれよりあとに灯りが消えた。
 ある日、シーヴァスは執事に言ったことがあった。遠慮せずとも構わないから、先に休めと。執事はその日から、部屋の灯りを夜遅くまで点すことはしなくなった。だがシーヴァスにはわかった。卓上ランプの灯りひとつで執事は起きているのだと。
 正直者で細工を知らない、ある意味で職業病の執事だ。心底気の毒でもあり、またあるときには感謝もしたが、シーヴァス自身が眠りに就くまで執事は眠れない、シーヴァスから眼を離さない、それは逆に言えば、シーヴァスにとって「見張られている」という感情を生じさせるものでもあり、窮屈この上ないことでもあった。
 何にでも理由ときっかけは必要なものだ。理由やきっかけさえあれば、大概のことは簡単なのかもしれない。
 シーヴァスは、夜中ひとりで過ごすとき、部屋の灯りを点けないことにした。シーヴァスの部屋に灯りが灯っていない、これは執事が休むための「理由」になる。少しだけ自分の行動を変えれば、他人に「理由」を与えることができるのだと、シーヴァスはどこか他人事のようにそのとき思った。
 ひとりだ。
 そう思った。
 ひとりっきりになったとき、「過去」がやっと隣に来てくれるのだ。
 それは、あまやかで快いものもあれば、できれば思い出したくないものもある。だがしかし、いずれにせよ、ひとりきりでないときに「過去」と肩を寄せ合うことは不健全であるとシーヴァスは思っていた。
 誰かと面と向かっているとき、それが女であろうと男であろうと、その眼の前の人間を通り越し、遥か彼方の「過去」に眼を向けることは難しいことではない。自分ひとりの内に意識を閉じ込め、そうして傍目にはそうとわからない程度に回想を繰り返すことなど案外たやすいことだ。だが、たやすいからといって、それを繰り返したところで何になる。ひとつの季節が過ぎても同じ衣服を着続け、終いにはその衣服しか残っていないなどと、そんな馬鹿げたことにはなりたくない。感傷も絶望も、若く愚かなる時代には付き物だ。実際、自分は「若い」と言える。その自分の価値観がどれほどのものであるのかはわからないが、少なくともさほど立派といえるものでもないだろう。そのことは容易に想像がつく。誰しもが通るそんな珍しくもない痛みに酔いしれることほど、反吐が出そうなことはない。
 だから、完全にひとりきりになったときにだけ、昔のことを思い出すことにしている。ひとりきりの時間には、限りがある。夜が明けて、朝が来れば、そこに「一日の始まり」と同じ顔をした「感傷の終わり」が見え隠れしている。直視しなくともわかっている。そこが、渦になっている回想の終わりなのだ。

 ひとりきりになるためだ。

 シーヴァスは男にそう答えただけだった。男に答えた夜も、この夜のように犬の遠吠えが聞こえていて、けれど月の煙った夜だった。月明かりがない分、男の白い髪と背中の羽がよく見えた。正確に言えば、はっきりとその輪郭が見えたのではなく、妙に浮かび上がるように、そこにあるのにそこにないような、近くにあるのに遠くにあるような、そんな不思議な存在感でもって、シーヴァスの眼に焼きついたということであった。
 男はそれから、何も訊かなかった。単に興味がなかっただけかもしれない。それから、シーヴァスと男は灯りを点けない部屋で真夜中までグラスを持つ夜を幾度も過ごしたが、部屋の灯りについて、男が何か言ってくることは、それ以来一度もなかった。
 執事は安らかに眠り、そうしてシーヴァスと男のふたりだけ、男がいない夜は、シーヴァスはこの世に自分ただひとりと、そうしてときおり聞こえてくる遠吠えの主だけになっている気分を味わうことができた。


「今日の御用は、寝酒の相伴だけか?」
 それまで黙ったままワインに口をつけていた男が、不意にそう言うなりグラスをテーブルの上に置いた。
「シェリーが何や、えらい慌てたように、『シーヴァスが呼んでる』っちゅうて言うから来たんやが」
「そうだ」
 シーヴァスもグラスを置き、男を見た。
「シェリーから聞いた。リリィからもだ」
「何を」
「レイヴがみつかったというのは本当か?」
 男は一瞬だけ、床に眼を落とした。そうして、すぐにシーヴァスを見た。
「妖精が嘘をつくと思うか」
「思わんさ、この件に関してならなおさら」
「おっしゃる通り」
「私が訊きたいのは」
 ひとつ息を置いたシーヴァスは、今度は吐き捨てるように言った。
「何故、それを私が妖精から聞かなければならなかったかということだ。何故君は黙っていた? 何故一刻も早くレイヴを助けに行かないんだ? それとも君の姪だとかいう天使が、もう助けに行っているのか? それにしては、シェリーはうっかり口が滑ったとでもいうような言い方だったがな。リリィは私がシェリーから聞いていたことを知っていたんだろう、隠せないと思ったのか、素直に話してくれたがね」
 そこまで言うと、シーヴァスは口をつぐみ、男を見据えた。
「なるほど」
 そうひとこと、男は言った。
「ベリーランド」
 シーヴァスは、男にそう呼びかけた。
「レイヴを守護しているのは、君の姪だと言っていたな。その天使は、レイヴのところへもう向かったのか? だから君はこんなふうにのんびりしていられ――」
「レイヴのところへ行ってるのは、姪んとこの妖精だけや」
 シーヴァスの言を遮るようにして響いた男の声に、彼は瞬間虚空を見、それからすぐに我に返った。
「妖精だけ? 何故だ」
「何ででも。リーガルはレイヴを殺すつもりはない。姪の補佐妖精が、レイヴがみつかってからここ3日、毎日レイヴに話しかけに行ってる。レイヴは水も食料も与えられてる。それは確かや」
「3日?」
 訊き返すと、シーヴァスは男の顔を思わず見やった。
「君も君の姪も、3日もレイヴをそのままにしているのか? 水も食料も与えられているだと?」
「ああ」
「だから放っておいていいと?」
 ベリーランドと呼ばれた男天使は返事をしなかった。思わずそこでシーヴァスは立ち上がりかけたが、自身のそんな行動に対し、不意に我に返ったような、思い直したような顔をし、また椅子に腰掛けると、ベリーランドの白い顔を見た。
「どういうことだ」
 ひとことそう尋ねたが、相変わらずベリーランドは黙したままだった。
「ベリーランド」
「まあ、いろいろ考えてる」
「君がか。それとも、君の姪がか」
「どっちも」
 シーヴァスは息を吐く。
「考えるのは結構だが、レイヴとて普通の人間だぞ。食べ物があろうが水があろうが、衰弱する。私たちが、こうしている間に」
「おこがましいが、それは、元より肝に銘じてる」
「そうか、それもまた結構だ。……レイヴは、どこでみつかったんだ?」
「バルバ島。エスパルダにある。知ってるか」
 シーヴァスは短くうなずいた。
「そうか、あの島には拘置所の跡が残っている。エスパルダの罪人をあの島に流して……」
「処刑も行われてた」
「そうだ。今はもう使われてはいないらしいが――」
「ローザ、あぁ、姪の妖精の報告で、レイヴは地下牢らしきところに閉じ込められてる、っちゅうてな。そこに、そういう」
「なるほど」
 そこでシーヴァスはワインをひとくち含んだ。ひどく味気ない「味」がした。
「男なら、女性には見せたくないものだ。そういう道具があったんだろう」
 ベリーランドは、遠くを見るような眼をして、黙ったまま少しだけ笑ったように見えた。シーヴァスにはそれが、うなずきの代わりのように思えた。
「案外女の方が、平気なモンかもしれんが。まあ、処刑道具やら拷問器具は、見て気持ちのええモンではなかろうけどな」
 ベリーランドもワインをひとくち飲んだ。
「そのバルバ島に、リーガルもいるのか? レイヴを見張っていたり――」
「いや、どうもリーガルはレイヴにひっついてはないらしい。やから、ローザがレイヴんところに行くことができてるわけやが――」
「何? リーガルに見張られてもいないのに、何故レイヴはそこから脱出してこない。怪我でも?」
「怪我はない。強いて言えば……、ずっと手錠で壁とつながれてて動けんだけで、けどそれくらいやったら、天使の力でどうにでもなる。ただ」
 そこまで言ってから、天使は不意に口をつぐんだ。シーヴァスが彼を見ていると、天使は口の中で言葉を探しあぐね、まるでそこに見えている言葉のどれを選んだらいいのかわからないといったような、そんな風情で黙り込んでしまったように思えた。
「レイヴは自分で、帰るのを拒否してる」
 それだけ言うと、天使は眉をしかめ、だがすぐに自分のしかめ面に気づいたのか、表情を元に戻すと、組んだ足の膝の辺りで両手をも組んだ。
「馬鹿だ」
 思わずシーヴァスは低い声でそうつぶやいた。
「そう言うな」
 天使は抑揚のない声で、けれど静かにシーヴァスをなだめる。
「ずっとそうだ。レイヴは、傷つきたがっている。そうすることで、『償える』と思い込んでいる」
 喉の奥から押し出すような声でシーヴァスは言った。
「死んでも治らんとは、このことか。あの男は死なないと、わからないのか」
 天使は黙ったまま、相槌も何も打たなかった。


「シーヴァスに、頼みがある」
 天使はそう言って、グラスを静かにテーブルの上に置いた。
「どうこうなっても、このままレイヴを放っとくつもりも道理もない。レイヴを迎えに行く。それは絶対に」
「……レイヴが拒否をつづけてもか」
「そうやな……」
 にこりともせず、天使は答えた。
「ただ、迎えに行くとしたら……、そのときにリーガルが出てくることも予測した上で行かなあかんのやが……、その場合、うちの姪と、姪んとこの勇者じゃ、太刀打ちできんのやないかと俺は考えてる」
 それから、と、ベリーランドは続けた。
「太刀打ちできたところで、行ったのが姪やったら……、レイヴは余計帰ってこんなるんやないかと、そんなことも思うてる」
「……どういうことだ?」
 尋ねたシーヴァスに、ベリーランドは腕組みした姿勢になり、じっと何事か考えるような細い眼をして彼を見るだけだった。そうして、やおら言った。
「想像の域を出んことやから、説明が今は難しい」
「想像? 何を想像しているというんだ」
「想像というより、勘か」
「ベリーランド」
「わかってる。えらい抽象的なことばかり言うてすまん。建設的ではない」
 ひとりで勝手に納得しているようなベリーランドに、シーヴァスは半ば呆れ顔で、それでもしかし、その先を促して尋ねた。
「頼みとは」
「レイヴを迎えに行ってほしい」
 シーヴァスは、天使の顔を見た。
「……それは、構わんが……、私に、君の姪と組めと?」
「それはない。組むのは変わりない、俺と組んでもらいたい、普段どおりに」
「特に異議はないが――」
 一呼吸置くと、シーヴァスはまた口を開いた。
「何か、理由がありそうだな」
 声を立てず、天使が口を緩めて笑った。だが、眼は笑っていなかった。シーヴァスにはそう見えた。
「ああ。理由はあるな」
 他人事のようにそうつぶやくと、そこから天使は説明をしようとしなかった。
「君の姪というのは、あまり、力がないのか? 君が危惧するほど、守護能力が――」
「どうかな」
 また他人事のようにそう答えると、ベリーランドはワインの入った瓶をやおら左手で持ち上げ、右手にそれを持ち替えると、シーヴァスのグラスに注ぎながらつづけた。
「力っちゅうもんは、それ相応の精神と一緒になったときに、初めて発揮されるもんなんかもしれんな、と」
「何?」
 ワインの入ったグラスに指を触れさせ、シーヴァスは天使を見た。
「身体が心にからめとられたら、身動きができんなる。単純な話や。本人は大丈夫と思うてたり、自分で気づいてなかったりするが。目の前にあるはずの景色が半分になる、視界が極端に狭うなる。本人は、それに気づいてない、それどころか、その『境遇』に、痺れて酔うてしまうことも、ある……」
「……何の話だ、と、ここで私が尋ねても、どうせ説明するつもりはないんだろう?」
 ベリーランドは笑った。今度は眼も、おぼろに笑っているようだった。
「が、『説明しろ』っちゅうて言う権利はあるぞ、おまえにはな。そう言われたら、説明するんが、こっちの道理やが」
「道理かどうかはそちらの自由だが、とりえあえず今の私は、それほどの気分じゃない。説明が必要だと思うときがくれば、そのときには求めることにするさ。だがそのときには、君には拒否権はない、いいな」
 シーヴァスの言に、ベリーランドは眼を細めてうなずいた。
「覚えておく」
「そうしてくれ」
「シーヴァス」
 不意に、ベリーランドが彼を呼んだ。それがあまりにも唐突だったので、シーヴァスは瞬間、自分が呼ばれたことに気がついていないほどだった。
「シーヴァス。変なこと訊いてもええか」
 もう一度天使が彼を呼んだとき、やっとシーヴァスは自分が呼ばれていたことを認識し、顔を上げて天使を見た。
「何だ」
「異常事態の中での男女の情っちゅうもんは、健全な形で成立し得ると思うか? 正常な世界の中でもちゃんと通用する情を、そこで育てることは可能やと思うか?」
「な……」
 何を言っているんだ? 思わずシーヴァスはそこで口を開けてベリーランドをみつめた。当のベリーランドは、至極「真面目な」顔をして、じっとシーヴァスを見ているのだった。
「何かにかぶれているのか? 哲学とか」
 いぶかしげに尋ねたシーヴァスに、一瞬ベリーランドは眼をまん丸くし、それからすぐにかぶりを振った。
「哲学ぅ? いや、そんなモンは関係ない。俺はどうも、俗に言う『哲学』の類が苦手やわ。考えてる間に動けば解決することも多いし、世の中」
 シーヴァスはまだいぶかしげに天使を見ていた。天使も真面目な顔をしてシーヴァスを見ている。
 どうにも自分の守護天使は、ときどき普段の様子とはかけ離れた、予測不可能なことを言ってくる。
 シーヴァスはワインを口に含み、そんなことを思った。それから苦いものを飲んでいるような顔で、短い皺を眉間に浅く刻んだ。


 今日はいろいろと無理を言ってすまなかった。
 天使はそう言って、帰り際にグラスをテーブルの上に置いた。
 白ワインの入っていた瓶が、今夜は2本、空になった。
「こっちのも、いただいてええ?」
 あとに開けた方の瓶のコルク栓を手で示して尋ねた天使に、シーヴァスはうなずきもせずに、それをつまみあげ、天使に手渡して言った。
「せいぜい立派なままごと道具、何だったかな、ドール用パイか、精を出してつくるといい」
「お言葉ありがとうに頂戴しとこうか。にしても、ワインボトルひとつとっても、中身つくってるひとだけやのうて、瓶つくってるひと、ラベルつくってるひと、で、こういうコルク栓つくってるひと、そういうのんが集まって、ワインになってる。そのコルク栓がまた、別のモンになる、っちゅうね」
「当然だ。すべてフォルクガングの許で働いている人間が、技術と責任をもってまっとうしている。どんな細かい部分にも、手落ちはない」
 真顔でそう返したシーヴァスに、ベリーランドが不意に笑った。
「何を笑っている」
「いや、こっちはな、いろんなひとの手によって、『ひとつ』に見えるもんもつくられとんやなあ、って、そういう話をしたつもりやったのよ」
「だから何だ?」
 眉根を寄せてシーヴァスはつぶやいた。
「私は自分の家で働いている人間を信用していると、ただそれだけの話だ。ワインの瓶をつくるのは、瓶作りのプロがやる。ラベルもプロがやる。中身はワイナリーがつくる。当たり前のことだ。ただ信用をして、彼らに任せている。彼らの主人は私の祖父だがな、私とて彼らを誇りに思っている。彼らを誇りに思うのは、主家として、当然の務めでもあるんだ」
「シーヴァスー」
 突然天使が彼の頭をかき抱いて撫でた。
「シーヴァスのそういうところ、好きやぞ」
「!」
 首に手を回され、頭をかいぐられる形になったシーヴァスは、そこで思わず眼を見開いた。天使の身体からはいつも同じ、何かの植物の葉のようなにおいがする。香水なのか石鹸の類なのか、シーヴァスには判然としなかった。このときも、そのにおいがかすかにした。そしてすぐに、シーヴァスは我に返ったように怒鳴った。
「やめ……、やめろ! 酔っているのか」
「おい、あんまりでかい声出すな。誰かが様子見に来る」
「とにかく……、離せ。男くさい」
 天使の身体を押し戻し、シーヴァスは眉間に皺を寄せて天使を見据えた。
「何なら今からでも、女の姿になろうか?」
 シーヴァスの剣幕を見ると、天使は真面目な顔をして言った。
「遠慮する。とにかく」
 襟元をただしてシーヴァスは言った。
「今夜はもうお引取り願おうか」
「そうしよか」
 ごちそうさん、と天使は言った。その声を追うようにして、シーヴァスは小さく言った。
「その、何だったか、さっき君がよくわからないことを言っていたな。異常事態の中での男女の情がどうとか」
「ああ……」
 呼び止めたシーヴァスの言に、今度は天使は苦笑気味にうなずいた。
「今度会うときまでに、考えておいてやってもいい。もう一度言ってみてくれ、何と言ったのか」
「いや、こっちこそ、今度会うときまでに、言い方考えておく。自分でも、何言うてたか、ようわからん」
 シーヴァスは鼻白んだ。
「そうなのか?」
「ああ、すまんな。まあ、とりあえず、今夜はおやすみ」
 ひらひらと右手を振りながら、天使は開け放たれた大窓の方へ歩んでいく。
 その場からすぐに立ち去っていくこともできるのだろうに、この天使はいつも、扉や窓といった、「物理的な出入り口」から立ち去っていくのが常だった。
 シーヴァスの眼の前から、消えてなくなっていくようなことは、決してしないのだった。シーヴァスは、実はそのことに、いつからか気づいていた。
「飛んでいく途中で、酔いがまわって眠りこけるということのないように。私の守護天使がそのように堕落した男というのは、実に不愉快なことだからな」
 天使の背中にシーヴァスがそう言葉を投げると、天使は小さく振り向いて、喉の奥で笑うような声をたてた。
「お口の達者なお兄さん、夜更かしはほどほどに。もうそろそろベッドへ行け。そこそこよい夢をな」
「そこそこか」
「あまりにええ夢を見すぎて、朝になっても帰ってきてくれんなったら困るもんで」
 フン、と、シーヴァスは鼻で笑った。
「私がそんな男に見えるか」
「どうかな」
「論外だ」
「ああ、わかってる」
 そう答えて、天使は大窓から今度こそ本当に出て行った。
 春の終わりの苦い風のにおいがした。

・ おやすみ こどもたち/終 ・



 お読みくださってありがとうございました。

 ベリーランドも言っていますが、「非建設的」な一篇だなーと自分でも思います。だから一体何なのよ、という。いや、ベリーランドとしては、「世界を救う」なんていう「天使」とその「勇者」なんてものが、「恋」に落ちるのは不健全だと思っているフシがあると、そういうことです。お互いのためによろしくないというのが、この男天使の考え方だという。

 バルバ島にレイヴを助けに行くのは、彼と少しでも「特別な関係」にある女天使じゃない方がいいような気がするんです、私としても。捕らわれの騎士さまを女性が助けに行くなんていうのは、ヒロイックすぎて、何か危うい。メロドラマっぽい。何か大切なことや根本的なことを忘れそう(何をだ。いろいろだ)。

 ここで書いたシーヴァスのように、「おまえは馬鹿か」と容赦なく連れ帰る「友人」と、男天使のタッグの方が、彼の救出にはふさわしいような気がしますし、その方がレイヴのためになるような気がします。あのイベントの女天使(男天使もか? しかし女天使の場合は、後の「羽イベント」にこのセリフがつながっていくので)の「あなたの騎士としての使命云々、生きる意味云々」というセリフが、妙~~~~~に好きになれません。漠然としすぎていて、「よい子」すぎて説得力がない。そんなんここで言うことか、と思う。その程度の言葉でレイヴの気が変わるんなら、とっくに自分で考え直して、さっさと脱出しとるんじゃないのかこの男(と、思ったりします)。むしろ、「おまえは今のインフォスに必要なんじゃ、死ぬのは全部終わってからにしたらええがなコラー」とシーヴァスと男天使に無理矢理連れ帰られる方が、まだ自然じゃないかなーとか思います。

 ↑ ああー、愚痴っぽい。すみませんー(^_^;)。