真昼の中で、鳥が鳴いている。
 残った傷口をじっとみつめているのは、黒い大きなふたつの眼だった。動かないその眼を、今度は別の灰色の眼が静かに覗き込み、そして言った。
「どうしました」
「いや、あの……」
 問われた黒い眼の持ち主は、口ごもりながら、眼の前の男を見る。
「あの、い、痛うていらっしゃるよな。今すぐ回復魔法で、その傷をお癒しせねば」
「……さほど痛みはありません」
 灰色の眼をした男は、銀色の長い髪の間からその眼をのぞかせて静かに答えた。
「診療所に帰ってから、自分で手当てできますよ」
「あの、しかし、村にお帰りになって、ディアンがご自分でお怪我のお手当てをなさっておるところをどなたかがご覧になると……」
 黒い眼をした彼女は、どことなく懇願するような色を見せて口ごもった。灰色の眼の男は、血のついていない左手を顎に軽く当て、何事か考えるようにして虚空を見た。
「ああ。村のひとたちを、不安にさせてしまうでしょうね」
 彼女はうなずくと、喉から押し出すような声で尋ねた。
「……回復魔法をかけさせていただくが、およろしいか?」
「そうですね。では、お願いしましょうか……」
 男がそう言って、彼女をちらりと見やった。
 もう一度、彼女はうなずいた。

 うちの天使さまは、何か悩んでいる。
 ここしばらくの間に、妖精のフロリンダはそう思うようになっていた。
 彼女が補佐する天使はハナカズラという女天使であったが、インフォスという地上界を守護する任に就いてから、もうすぐ半年ほどになろうとしていた。人間で言えばまだ成年に達さないほどの年若い天使であったが、彼女には7歳年上の叔父があり、その叔父と共同で任務に就いていたことから、フロリンダはさほど心細く思ったことはなかった。何かあれば、その「叔父」にあたる天使や、また彼の補佐妖精たちにも相談することができた。
 このときもフロリンダは、その「叔父天使」であるベリーランドという天使に話を持っていった。
「ベリーランドさまぁ……、フロリン思うんですけどぉ。この頃、ハナカズラさま、何か変なんですよねぇ……」
「相対的に変なんか。それとも絶対的にかね?」
 白い髪に紅い眼をしたベリーランドは、抑揚のない声でそう言った。
「そうたいてきに、って?」
「いやつまり、前のハナと比べて変なんか、それとも、世間一般と比べて変なんか、という」
「前のハナカズラさまと違うってことですぅ」
「ほう」
 書斎の机に向かい、書き物の手を休めずにベリーランドは相槌を打った。
「ハナカズラさま、回復法術が、何だかちょっとずつちょっとずつ、下手くそになってきているような気がするんですぅ……」
「回復法術が?」
 顔を上げて手を止めたベリーランドは、机の端っこにちょこんと座っているフロリンダを見やった。
「はいですぅ」
「はいですぅ、じゃわからんなあ……。もっと具体的に話してくれんかね」
「わかりましたぁ……。えーとですねぇ……、最初はそうでもなかったんですよぉ、何て言うか、普通に回復法術なさってましたぁ。でも……、だんだんハナカズラさま、戦闘のあとに、勇者さまのお怪我をぱーって治せなくなっちゃったんです。あ、違います、法術をかけるのができないんじゃなくって、えーと、えーとですねぇ……」
「思い切りようかけられんなったわけか。それとも、力量の問題かね、しっかり治すことができんっちゅう」
「どっちもですぅ」
「どっちも?」
 いぶかしげな顔で、ベリーランドはフロリンダを覗き込む。手は完全にペンを置いている。
「そうなんですぅ。何て言うかですねぇ、とっても遠慮がちというか……。前はそんなんじゃなかったんですぅ。勇者さまがお怪我なさったら、ハナカズラさまがぱーって治しちゃって。フロリン、ハナカズラさまってわりかし回復法術がお上手だなって思ってたんですよぉ、アカデミアで、そんなにお勉強できる方じゃなかったって聞いてた割にはぁ」
「あー、アレはねえ、頭の回転はともかく身体で覚えるのは得意みたいやからねえ」
「でしょう? なのに今は回復方術するのが、あんまり……」
「あんまり?」
「何か……、あんまり……、お好きじゃないみたいだなって……。ハナカズラさま、もしかして、回復法術……の腕が……落ちて、それであんまりしたくないのかなって……」
「ふーん……」
「だってだって、回復法術するとき、ハナカズラさま、とっても迷ってるみたいに見えるんですぅ」
 フロリンダの言に、ベリーランドは黙ったまま耳を傾けていたが、やおら腕組みをし、椅子に深く背をもたれさせると言った。
「それで、最終的には、回復法術はかけるわけか? かけんとそのままにするわけでもないやろ」
 うなずきながらフロリンダは答えた。
「はいぃ。ちゃんとかけますぅ」
「かけたらどうなる。効力は落ちてるか」
「そうでもないと思いますぅ。ちゃんと怪我は治りますぅ。でも、ときどき、二回ぐらいかけないと傷が治らないときがあるんですぅ……」
「ほーぉ……」
 腕組みをしたまま、ベリーランドはしばし何事か考えていたようであった。そしてやおら口を開いた。
「ハナには直接訊いてみたか」
「はい、でも、そんなことはないって言ってましたぁ。ためらってなんかいないって。腕は落ちてるかもしれないけど、それだったら訓練しなきゃって」
「……ハナの『勇者』は4人やったか。どの『勇者』に対してもそんな感じか?」
「うーん、うーん……。と、思いますけどぉ……」
「ふーん……」
 腕組みを解いたその手を、今度は頬杖に変えると、ベリーランドは小さくうめくようにそう言った。

 月明かりの中で、眠っている子どもの額に指先をあてがいそうになり、彼女は思わずその手を引っ込めた。眼に見えない力でもって、弾き返されたような気がした。
 何ものをも、彼女の力を拒絶しようとはしないだろう。少なくとも、健康になりたい、快復したい、その成就を最上の願いとしている存在にとっては、彼女の力を拒絶する気持ちはどこにもないだろう。だが、彼女の中に、彼女の力を「肯定しない」何かが、このとき巣食っていた。
 「患者」たちの青白い寝顔を見るたびに、ここで自分の力を使えば、その顔色にはみるみる赤みがさし、そうして朝がくれば走って家に戻れるのではないか、そんな気持ちが頭と心の中を駆けていく。だがそんなとき、その気持ちの疾走の前に、ディアンの手の中の注射針や薬草をすりつぶす乳鉢、地面を這いつくばって薬草を探していたディアンの汚れた服の裾、そういったものが俄かに立ちふさがる。それを飛び越えてしまうことは実はたやすいのかもしれない。が、蜘蛛の巣のようなねばねばとした何かが、足をとり、手をとり、そこから先に行くことを許してはくれなかった。
 いつも、彼女はそこで立ち止まった。
「誰か、そこにいるのですか」
 やおら声が聞こえ、彼女は顔を上げた。
「……天使さまですか?」
 小声でそう尋ねてきた人影に、彼女は近づいて行って、慌てて頭を下げた。
「夜分に失礼を。明日の任務の確認にお邪魔した。間違うて、病室の方に参ってしもうて……」
「そうですか。少しお待ちいただけますか。ちょうど、包帯換えの時間の子どもがいるもので」
 手提げランプをかざしながら病室に入ってきたディアンは、そう言うと、寝ている子どものひとりの腹に巻いてある包帯を、手際よくほどきはじめた。
「起こしてしまってすまないね。君は、そのまま寝ているといい……」
 小さくうめくような声を上げてぼんやりと起き出したその子どもにそうささやきかけ、ディアンは新しい包帯で処置をし始める。
「あの、お手伝い……」
 彼女がそう言いかけたが、ディアンは静かにかぶりを振った。
「いいですよ。ひとりでできます」
 処置が終わり、二階にあるディアンの居室に向かう階段を上がりながら、彼女は尋ねた。
「いつも夜は、おひとりで全部なさっておるのか? 助手の方は?」
「夜はひとりです。前はいつも手伝ってくれる者がいましたが」
 灯りのついた部屋に入ると、手に持っていたランプをディアンは消した。
「前に、身共2度ほどお昼間にお手伝い申し上げたこともあったが……、お役には立たぬじゃろうが、繁忙のときなどは、またお手伝い……」
 静かにディアンは笑った。
「天使さまの方がお忙しいでしょう」
「……」
「さて、明日の目的地をうかがいましょうか」
 ディアンがそう言うと、彼女はうなずき、懐からたたんだ地図を取り出した。

 自室で本を読んでいると、扉が叩かれた。彼女が返事をすると、静かに扉が開かれ、叔父が顔を見せた。
「時間あるか。今日の任務は」
「今日は昼からディアンのところへ行く」
 叔父はうなずいた。
「ちょっと来い。庭に」
 彼女の返事も待たず、さっさと階下に行ってしまう叔父のあとを、彼女は眉間に皺を寄せながら慌ててついていった。
 ベテル宮の広大な庭に出る。彼女と彼女の叔父がこの地上界守護の任に就いた折に、大天使ミカエルから「拝領」した形になっているこの宮の庭は、もとからあった植物と、このふたりの手によって植えられたものとで、その広い敷地が埋め尽くされていた。白い野菊の小路を抜け、宮の建物から比較的遠い場所に、石を敷き詰めた一画がある。そこは普段、主に叔父が武具を使った鍛錬を行う場所であり、ときどきは彼女も叔父の手ほどきを受けて、共に鍛錬する場所でもあった。
「何じゃ? 鍛錬なれば、身共、薙刀を持ってこねば」
 そう言って、彼女がベテル宮の建物の方をかすかに振り返ったとき、叔父が懐から短剣を取り出して掲げた。
「ハナ、どうかね。調子の方は」
「調子? 特にこれというて変わりはないが……」
「そうか。結構」
 そう言うなり、叔父は持っていた短剣で、自分の左腕を斬り付けた。
「おい、ベリー、何を」
 あまりにも突然のことだった。彼女は大きく眼を見開いて、思わず口を両手で押さえた。
「気でもおかしゅうなったか」
「どう思う」
 のんびりとした様子で、叔父は血のついた短剣を陽にかざしてそう言った。
「あぁー、血がついてる。生臭い……。やから嫌なんや、おっちゃんの美学に反するわ、斬るモンは。ま、この際しょうがない、もう斬ってしもたモンは」
「おい、じゃから血が」
「治してほしいなあ、ハナちゃんに~」
 歌うようにそう言った叔父に、彼女は呆気にとられたように口を開け、すぐに我に返ると声高に言った。
「血、止めぬのか!」
「やから、治してほしいとさっきから」
 無表情で言い放った叔父の言が終わるか終わらないかのうちに、その石の一画に、まるで何かが破裂でもするかのような高い音が響いた。そして、これはあとから妖精たちが語ったものであるが、その一帯が閃光に包まれたのが、ベテル宮の中からでもよく見えたらしい。
 ……閃光が収まったとき、叔父は小さな血の斑点の中に倒れこんでいた。ゆっくりと起き上がると、姪を見た。姪は肩で息をし、そこに仁王立ちの格好で立っていた。
 叔父は自分の左腕を見た。傷口が、あとかたもなくなっていた。自分の流した血が、まだ乾ききらないまま貼り付いているだけだった。
「治さねばならぬのは、腕だけか? 頭の中もか?」
 姪が仁王立ちのまま怒鳴った。二三回大きく息をすると、つかつかと叔父の前に歩み寄る。そして、やおら叔父の胸倉をつかむと、糸切り歯をむきだし、うめくように言った。
「お望みどおり、治療したぞ。満足か?」
 つかんでいた叔父の胸倉を離す。
「おい、身共は今日、虫の居所が悪い。遊びなら、他所でやるがよい。いくら天使は死なぬ、すぐに治せるからと言うて、自分で血を流す道理があるか。もしそのようなことをしたいのなら、身共の眼の前でないところでしてくれ、よいな?」
 そこまで一気に言うと、彼女は大股でベテル宮の建物の方へ帰っていった。
「やっぱり怒らせたか……」
 姪の背中を見送って、彼がそうつぶやいたとき、叢からフロリンダが顔を出した。
「ベリーランドさま……、だいじょうぶ、ですかぁ……?」
 おそるおそる尋ねてきたフロリンダに、彼はおかしそうに笑った。
「ああ。かなり効いた」
「ハナカズラさまの回復法術がですかぁ?」
 服の埃を払いながら立ち上がったベリーランドは、フロリンダに小さくうなずいてみせた。
「あの子の回復法術の効力は落ちてない。多分。人間に対しても。としたら……、気持ちの上で、法術行使の邪魔をしてる何かがあるんかもしれんな」
 フロリンダがうなずきながら、小さく言った。
「ベリーランドさま、損しちゃいましたねぇ……。フロリンが相談したせいで……」
「いや」
 またベリーランドは笑った。
「相棒の力を確認することも大事や。それに、要らん失望をせずに済んだ」
「??? ハナカズラさまの法術の腕が落ちてたら、ベリーランドさま、失望しちゃってたってことですかぁ?」
 不思議そうな顔をして尋ねてきたフロリンダに、ベリーランドは小さく片目をつぶってみせた。
「あれはそう、やっぱり怒るべきところやった。おっちゃんは、キレられてすっきり」
「怒られたのにすっきり……。って、ベリーランドさまは、マゾ……ですかぁ?」
「そうかもしれん。まあ、打たれ強いって言うてくれ」
 真面目な顔をしてベリーランドはフロリンダにそう言い、また片目をつぶった。

 自室に戻り、ハナカズラは扉に背をもたれさせ、しばらく黙ったまま床の一点をじっとみつめていた。
 そして、やおら拳を壁に打ち付け、うめくようにして歯噛みした。
「何じゃあいつ!」
 何に対しての憤りなのか、自分でもわからなかった。ただ、答えがどこにもないような、一生かかっても、ループしている矛盾の中を泳ぎきれないような、そんな漠然とした恐ろしさを感じた。今まで自分は何を考え、どこの価値観でものを考えてきたのだろう、どれを正しいと思っていたのだろう。
 そして、眉間に深い皺を刻み、どこかの戦士のように苦悶する彼女の姿は、この部屋の外では、誰も見ることがなかったし、その先にもきっとないことであった。

 前日と同じような真昼の中に、腐臭が漂っている。
 アンデッドと戦うときには、普段より倍以上の集中力と体力が必要だった。
 実質戦っているのはディアンだが、彼の背後になりまた隣になり、彼女は夢中でディアンが受ける傷を治し、彼の体力を補完し、そうしてまるで夜明けのような、「戦いの終わり」が訪れた。
 肩で息をしながら、ディアンの身体を眺めた。右腕の刃傷が残っていた。彼女は頭を大きく振り、自身に気力を吹き込むかのようにひとつ息を吸い込んだ。
 彼女は気がついていた。いつからか自分は、戦いの最中に治せる限りの「勇者」の傷を治そうとやっきになっていることに気づいていた。勇者が戦っているうちに、勇者が気づかないうちに治しておこうとしている自分に気づいていた。戦い終わってから勇者の傷を治すことが、ひどい苦痛に変わるようになっていた。
 特にディアンの傷を治すとき、彼女の心にしこりのようなものが生じ、そうして何故かひどく後ろ暗く、ひどく申し訳ないような気持ちになった。
「ディアン……、あの、右腕……」
 小さな声で彼女がそう言うと、ディアンはやっと気づいたように自分の右腕をみやり、「ああ」と声を上げた。
「回復魔法を……、お使いしてよろしいか?」
 そう言うのも、ひどく苦痛だった。
「そうですね……。今日も、これから診療をするつもりですし……」
 ディアンがそう答えると、彼女は少しだけほっとしたように息をつき、そうしてそこに小さな光が生じた。ディアンの腕の傷がなくなっていた。
「天使さま」
 不意にディアンが声を上げた。
「私の気のせいかもしれませんが……」
「ん? 何ですじゃ?」
 傷ひとつなくなった右腕を見やり、そしてまた顔を上げてディアンはつづけた。
「回復魔法をお使いになるとき、お気がすすまれないようですね」
「……」
「自意識過剰かもしれませんが、もしかすると、私に遠慮なさっているのではありませんか?」
 静かにディアンがそう言う。みるみるうちに、彼女の顔が赤くなった。
「え……、あの、そういう……ことでは……」
「そうですか? もしも私があなたで、あなたが私だったなら……、と想像してみて思ったのですが」
 昨日と同じような真昼に、昨日と同じような鳥の声が聞こえ始めた。
「……ディアンは、どのようなご想像を?」
「的外れなことを申し上げるかもしれませんが、それが失礼に当たらないなら」
 天使はうなずいた。
「おっしゃってくださるか?」
「そうですね……。簡単に言えば……、私が何日もかかって治療するものを、あなたは一瞬であとかたもなく癒してしまう……。要は、それですよ……」
「……」
「私に遠慮は要りませんよ。あなたが天使であることは百も承知です。私が人間であることもね。それに――」
 足許の草をひとつ摘み、それを内ポケットに差し込んでディアンはつづけた。
「あなたの依頼によって私が結果的に受けた傷を、あなたが消してくれるだけのことですよ。元に戻るだけです」
 じっとディアンを見ながら、彼女はそれを聴いていた。そしてやがて、小さくうなずいた。
「ディアンは、身共にお腹立ちにはならぬのか?」
 ディアンが小さく笑った。
「その訊き方には、答えようがありませんよ」
「あ、す、すまぬ」
「いえ、そうですね……、羨ましくないと言えば、嘘になりますね。だが、そう思っていては、私という医者が存在することができなくなる」
「うん……」
「いいじゃありませんか。私は私の傷を放っておくよりも、あなたに治していただいた方がいいというのも事実です。あなたからの依頼で、死ぬわけにはいきませんからね」
「うん……」
 彼女は眼を細めて、またもう一度うなずいた。
 ディアンに出会って、彼の治療を見て、自分の力は、今まで彼がやってきたこと、そうして人間界に存在するすべての医者のやってきたことを超越しているものではないかと思っていた。その超越の仕方はひどく無神経で、心も精進も歴史も存在しない。ただ本当に超越するだけの、まさしく人間にとっては「神の力」に相当してしまうもので、そんな自分が医者であるディアンやその患者に接するとき、自分はひどく卑怯で心無い存在のように思えてしまうことがあった。
 あってはいけないのだ、この力は、この人間界に。
 あってはいけないもの、それは、地面に根を張り子孫をつくっていく草花の上に突如として現れた大岩のようなものかもしれない。普通存在し得ない空中にその大岩は光り輝きながら浮かんでいて、自分が加護を与えようと思えば草花に水を与えることができ、逆に殺してしまおうと思えば、ただその上に勢いよく我が身を振り落としてしまえばそれでいい。いずれにせよその二者は、草花が生きてきたそれまでの「生命」を無視する。過程を無視し、歴史を無視し、草花が考え思い、抱いた希望や捨てた絶望をすべて無視する。
 あってはいけないのだ……。
 ハナカズラは、そう思っている。
 だが、ディアンが言ったように、自分が地上界にやってきたことで「勇者」が受ける傷だけは消し、元の「勇者」の身体を返さなければいけない、それだけは許してもらおう、そう思った。
「ここには……、この森には、珍しい薬草がありますね。これは……、すばらしい採取ができそうだ」
 気がつくと、ディアンが感嘆するような声を上げ、地面の草をひとつひとつ見てまわっていた。
「あ、身共もお手伝いしよう」
 彼女も地面に這うようにして彼のあとにつづいた。
「新しいお薬ができるのか? この薬草で?」
 ディアンはうなずいた。
「ええ。諦めかけていたものができるかもしれません。良い薬ですよ。この世を掃除するための薬です」
 心から楽しそうにディアンは笑った。ディアンが笑うので、ハナカズラもつられて笑顔になった。
「まだまだ死ねませんよ、やはり。遣り残したことがたくさんありますからね」
 ディアンは今度は声を立てずに、思い出し笑いをするかのように静かに笑んだ。その眼は、天使を見てはいなかった。

・ 神の手はひどく凍えている/終 ・



ディアン創作は、これだけで終わるというのも何かアレなので、もう1作くらいは書きたいなという気はします。