その酒場の入り口には、えらく頑丈そうな扉があって、おまけに花の形をあしらったノッカーまでご丁寧についている。こんな店に入る前に、一体どこの誰がこれを敲くというのか。彼はそんなことを頭の片隅で思いながら、その店に入って行った。
 勿論、ノッカーを敲いてはいない。ただ、少しだけ指でなぞってみたりはした。埃がびっしりと貼りついていて、指先が黒く粉をふいたようになる。眉を片方上げてそれを眺めると、彼は懐からハンカチを取り出して、丁寧に指を拭った。汚れた部分を中に折り込むと、ハンカチをまた仕舞った。

 彼女は初めて会ったときのように酒を飲んでいて、だがしかし、そのときと違うのは、この日は彼女はたったひとりで飲んでいたわけではないということだった。
 酒場の奥まった一角、そこに彼女の姿を認めると、彼はゆっくりとした足取りでそこに近づいていった。
「あら」
 彼女が不意に振り返ると、彼の姿を一瞥し、短く声を上げたのがわかった。
「皆さ~ん、これがさっき言ってた『彼』よ」
 やおら立ち上がると、彼女は一緒に飲んでいたらしい男たちにそう声をかけ、彼の方に近づいてきた。かと思うと、彼の腕を取り、軽く絡めるようにして自分の腕を密着させてくる。
「……酔うとんのか」
 腕を絡めてきた彼女を振り払うでもなく、そのまま見下ろして、彼は小さな声でそう尋ねた。
「酔ってなんかいないわよ。今日はちょっとお酒がすすむだけ」
 にべもなくそう答えた彼女に、男たちが言った。
「こりゃまた、えらく小綺麗な兄ちゃんだなあ、おい」
 彼女は何がおかしいのか、声を上げて笑った。
「そうでしょ、このひとね、いっつも綺麗なの。服もね、髪も、顔も、キレーイにしてるのよ、時々つねってやろうかと思うときがあるわ、こうやってね、こうやって、変な顔にしてやってね」
 言いながら、彼女は手を彼の顔の辺りに伸ばしてくる。彼は表情を変えずに、少しだけ身を屈ませると、その手を避けて、彼女から一歩離れる。
「ちょっとぉ、一回くらい、つねらせなさいよぉ。面白い顔にしてあげるんだからぁ」
 くだを巻いている。そんな彼女の顔をちらりと見やると、彼は傍にいた男たちの方を向いて尋ねた。
「こんばんは。割り込んですまんな。ところで、この姉さん、今日どれぐらい飲んでる?」
「んー? ナーサディアか? そこ見りゃ一目瞭然だがよ」
 顎鬚をたくわえた熊のような身なりの男がテーブルの上を指差して答える。
「ワイン1本にコニャック3杯、あとはかわいらしくカクテル5杯とジンを1杯っつーとこだ」
「違うぜ、ジンはもう3杯目だがよ」
 別の男が入ってきて言った。
「兄ちゃん、ナーサディアがずーっと言ってたぜ。あたし、お迎えが来るの、だからあんたたちみたいな汚いオッサンたちとは一緒に遊べないわ、ってよ」
 そう言いながら大口を開けて、その男は笑った。
「んでよう、どんな男が来るかと思ってたんだがよう、どうせ俺らとそんな変わりゃしねえだろってタカくくってもいたんだよ。したらおまえ、えらく綺麗な男が来やがってよう」
「私、汚いオッサンだなんて言ってないじゃない」
 ナーサディアがその男を軽く叩こうとするような仕種で、片手を挙げた。
「いやいやいや、思ってただろうがよ。まあ何か飲もうぜ、もう帰るなんて言わないでくれ。俺とクレイグはなあ、さみしーんだよ、仕事ほされた昨日の今日でよ、家に帰りゃあ女房とガキにも、明日の仕事がないなんて言えねえんだよ、まだ秘密なんだよ」
「俺もナーサディアみたいに、ここで踊って金もらえるんなら、いくらでも踊りてえよ」
 クレイグと呼ばれた顎鬚の男が、冗談とも本気ともつかないような口調で、それでも顔は笑いながらそう言った。
「裸踊りかよ」
「男のストリップってなのもアリって言うぜ、都会へ行けばなあ」
 あっははははと、喉の奥から搾り出すような笑い声を上げて、クレイグの相棒が膝を叩いた。
「誰がおまえの出っ張った腹に金出すかよ」
 「なあ兄ちゃん」、と、その男は彼を見て言って、それから自分の隣にある椅子を掌で二回軽く叩いた。
「よう、何か頼め。飲もうぜ、座れ、ここ」
 男が示した椅子と、男の顔、それからクレイグの隣に腰掛けてまた酒を飲んでいるナーサディアに視線を一巡させ、彼は眼を細めた。それからすぐに何事か思ったのか、小さくうなずくと、男の隣の椅子に腰掛けた。
「よーしよし、いいぜー、兄ちゃん、飲もうぜ。言っとくが割り勘だからよ、それを忘れねえでくれよ。どんどんいこうぜ。何がいい?」
 肩に腕を回してきた男の様子に、彼は口許に笑みを浮かべながらメニューカードを取り上げて眺めた。男が一緒にメニューカードを覗き込む。
「んー……、そうやね、バーボンでももらおかな……」
「いいねえ。バーボン一丁ー!」
 男が勝手に大声を上げて、近くにいた店員がやってきた。

「よう、兄ちゃん。見かけによらず、なかなかどうしていい飲みっぷりじゃねえかよ」
 さっきよりも一層赤い顔をして男が言った。
「『悪い』言われるよりも、『いい』言われる方が、何でも気分はええねえ」
 彼は小さく笑ってそう答えると、またグラスに口をつけた。さっきから2時間ほど、彼はこうして間断なく酒を飲み続けている。
「顔色も変わってねえじゃねえか。若いうちから、そんな涼しい顔してると、俺らみたいな年になってからどっとくる。若いうちは、酒で苦労しとくもんだって。俺が仕事始めてよ、嫁さんもらってしばらくするくらいまではよ、酒と相性悪かったのか知らねえけどよ、すーぐ悪酔いしちまってよ、仲間と飲んでても俺だけ先におやすみ、ってな感じでよ、我ながらなあ、情けなくてよ。そんなこと思い出しちまうとよ、今でも胸がきゅーっとなるってかよ。でもよ、今だからこう、何かほろ苦いっていうかな、あれはあれでまあ、そういう思い出っていうかよ、そういう時期だったんだな、っていう、な」
 呟くようにそう言うと、男はまた口を開いた。
「よう、兄ちゃん、名前は」
「あ、ベリーランド。そちらさんは?」
「俺か、俺はな、エイモスってんだ、覚えてくれ、いや、覚えなくていい」
「覚えた覚えた」
 ベリーランドはそう答えてまた小さく笑う。
「そうか、ありがとよ。ところで兄ちゃん、年はいくつだ」
「26」
「26か、若ぇな。俺にとっちゃ、もう20年も前の話だよ。つってもよ、俺なんて20年前でも、こんな風体でよ、兄ちゃんみたいな伊達男なときなんて、一度もなかったぜ。俺の26のときと、兄ちゃんの26を、一緒くたにはできねえやな」
 声を立てて笑いながら、エイモスはベリーランドの肩を叩いた。グラスに口をつけながら、ベリーランドも相槌を打つように笑んだ。
 酒場の奥から、トランペットとピアノの音が聴こえてくる。ナーサディアとクレイグが、そこで踊っているのが見える。
「あんだけ飲んでから踊って、酒が頭までまわらねえかな」
 ふたりの様子を眺めながら、エイモスが眼を細めてつぶやいた。
「ナーサディアはやさしい子だな。俺とクレイグが半分ダメもとで誘ったんだよ。一緒に飲まねえか、ってよ。あんな綺麗な踊り子が、俺たちみてえなうだつの上がらねえオヤジと飲んでくれるわけねえってな。でもよ、よっぽど俺ら、マジでうだつが上がらなかったんだろうな、かわいそうなオッサンに見えたのかな、ずっと一緒に飲んでくれてよ」
「……」
「見ろよ、クレイグの奴、よっぽど楽しいんだろうな、ニコニコして踊ってるぜ。あいつは明日二日酔いでもいいけどよ、ナーサディアは明日仕事あるんだろう?」
「ん? いや……、どうかな」
 不意に自分の方に尋ねられたので、ベリーランドは瞬間口ごもってエイモスを見た。
「あん? ナーサディアが、兄ちゃんのこと、『仕事仲間』だっつってたがよ。違ったか?」
「あ、ああ、なるほど。仕事仲間やね、そうそう、明日も仕事入ってる」
「だろ? もういい加減にしてやらねえとなあ、クレイグも」
 眉根を下げてエイモスが言った。
 その顔は何故か、泣き笑いのような表情だと、ベリーランドには思えた。

 戻ってきたクレイグとナーサディアに、エイモスは言った。
「お疲れ。クレイグよう、おまえ調子に乗って姉ちゃんつき合わしてどうすんの」
「いいのよ、私も身体を動かしたかったからちょうどよかったの」
 ナーサディアが、またジンを飲みながら答えた。
「おいおい、何杯目だ。明日仕事なんだろ、もうそれくらいにしとけ」
 急にたしなめるような口調になったエイモスに、ナーサディアが少しだけ手を止め、それでもすぐにまたグラスをあおった。
「どうしたの、急に小言爺さんみたいなこと言い出したわね」
 笑いながらナーサディアがジンを飲む。
「二日酔いじゃろくな仕事できねえだろ。どんな仕事も、むざむざ自分で調子狂わしといてやるもんじゃねえよ。彼氏も心配してるぜ、なあ、ベリーランド」
 言うと、エイモスがベリーランドを見る。ベリーランドはバーボンを置き、今度は何杯目かわからないブランデーを飲んでいるところだった。
「彼氏じゃないわよ、ただの仕事仲間。そうよね、ベリーランド」
「まったくもって、ナーサディアさまのおっしゃいますとおり」
 片方の眉を上げ、ベリーランドが答える。
「仕事仲間? 兄ちゃんもナーサディアみたいに踊ったりするのか?」
 クレイグに問われて、ベリーランドは小さく笑った。
「いやぁ、踊りはない。別口でね」
「どんな仕事だ?」
「ん? んー……」
 笑って一間置いたベリーランドに、ナーサディアが言った。
「このひとね、こう見えて教会関係のことやってるの」
 エイモスとクレイグが「へえ」と同時に声を上げた。
「神さま関係かい。こんな場所に引き止めて酒なんか勧めて悪かったかな」
 少々バツが悪そうに、エイモスが頭を掻いた。
「全然」
 眼を細めて、ベリーランドが答えた。
「そうか、いや、それならいいんだけどよ。何て言うかよ、教会って聞くと、俺ら、ちっとばかし縮こまっちまうっていうかよ……。ガキには、信心深くなってもらいてえような気もするんだが、何せ自分らは、今までお祈りより仕事優先で日曜日も来ちまったもんだから……」
 エイモスが笑って言った。クレイグが相槌を打つ。
「だから神のご加護が少ねえんだよ、ははっ、もっとお祈りもしとくんだったな、自業自得ってやつさ」
「まったくだ。仕方ねえよ」
 ふたりを見て、ナーサディアが立ち上がった。
「奢るわ。何がいい?」
 少し遠くにいた店員を呼び、彼女はまたふたりを見た。
「乾杯してなかったから、ちゃんとしましょうよ」
「何だ何だ、気を使わねえでくれ。それにアンタもベリーランドも相当飲んでるじゃねえか。もうそれくらいでやめとけ」
 エイモスの言に、ナーサディアが笑った。
「今更もう一杯飲んだって、身体には何も影響しないわよ。神のご加護がなくたって、きっとちゃんと生きていけるわ。どうこうなったって、お酒は美味しいものじゃない。お酒に乾杯しましょうよ。元気を出して」
「おいおい……、神さまの仕事してるひとの前で、そんなこと言っていいのか?」
 心配そうに、クレイグがちらりとベリーランドを見やった。その様子に気づいて、ベリーランドはおどけたように両手を少し広げ、肩をすくめてみせた。
「神さま関係の人間だって、嘘もつくし、ひとを傷つけることだってあるわ。約束を守らないことだってあるのよ。畏れ奉らなきゃいけないなんて決まってないわよ」
 ナーサディアはそう言った。そのときの彼女の眼はテーブルをじっと凝視していて、ベリーランドには、まるで何かに挑むような眼に見えた。

 酒場から辿る一本の道には誰の姿もなく、その暗い道を、ひとりの人間とひとりの天使が歩いていた。一歩ほど先を歩いていく彼女の影を見やりながら、男天使は黙ったまま、静まり返った町並みをときどき眺めながら歩いている。
 火照った顔を夜風に撫でられ、ナーサディアは眼を閉じたまま数歩進む。その様子をうしろから見ながら、ナーサディアがかすかによろめいたとき、彼は声をかけた。
「おい、前見て歩いてるか」
 彼女の隣に行き、そこで彼女の顔を覗き込んで尋ねた。
「見てるわよ」
 瞼をうっすらと開け、彼の顔も見ずにナーサディアは答えた。
「夢の中で前見て歩いてても、そこの溝は避けられんがな」
 手を差し出すと、彼女はその手を振り払うようにして、また歩いていった。
「明日のことやけどな。頭起きてるか」
「明日のことは明日にして」
「そうしたいのはこっちも同じやが、今日話そうっちゅうて、迎えに来い、言うたのは姉さんやがね」
「臨機応変という言葉を知ってるでしょう」
「まあな」
 そこで彼は、もうその話題を置いた。
「馬鹿みたい」
 不意にナーサディアが呟いた。
「何が」
「こっちの話よ」
「そうか」
 短く相槌を打つと、彼は懐から煙草を取り出し、火をつけて口にくわえた。
「なあ、ひとつ訊きたいんやが」
「何」
 とろりとした眼で髪を掻き揚げながら、ナーサディアは怠惰そうに返事をする。
「おっちゃん、今までに姉さんに嘘ついたり、約束破ったりしたことあったかね」
「何の話」
「さっき、えらい怖そうな顔で、『嘘ついたり約束やぶったりする』神職の人間もおるとか言うてなかったか」
「ああ」
 虚空を見て、ナーサディアは声を上げた。
「あなたのことじゃないわよ」
「ほんまかね」
「本当よ。あなたには関係ないわよ」
 息を吐き出すようにして、ナーサディアはそう言った。その瞬間、ベリーランドは口に持っていきかけていた指の動きを止めた。それから少しして、指の動きを再開し、くわえていた煙草を口から離した。
「なるほどね。関係ない、か……」
 そうして小さく笑うような表情で、煙草を吸い続けた。
「明日は一日中寝ていたいわ」
「ん? おいおい……、『任務』受けてくれる話はどうなった」
「明後日以降にしてもらえないかしら」
「気分の問題かね」
「さあ……。どうかしらね」
 彼は煙を吐いた。そして、不意に言った。
「どうした?」
 言われて彼女は彼の顔を見やった。
「……何がよ」
「ん? どうしたよ……」
 短く尋ねてくる彼の質問の意味がわからずに、ナーサディアは「何を言ってるの?」と、また訊き返した。ベリーランドは眼を細め、笑いもせず、怒りもしない、とかく表情の見えない表情で、じっとナーサディアを見ているだけだった。
「わけのわからない質問をしてこないで」
 そこでベリーランドは小さく笑った。
「何がおかしいの」
「別に、何も」
「だったら笑わないで」
「厳しいな」
「意味もなく笑うからよ」
「意味?」
 携帯灰皿を取り出し、それで煙草を揉み消しながら、ベリーランドはナーサディアの言葉を反復した。
「笑うにも、意味が要るんかね」
「笑う暇があったら、仕事の無いひとに仕事をみつけてやってよ、あなた、天使でしょう」
「おい……、話が飛躍したな。無茶言うな」
「無茶? いつも空から人間を見てるのに、神さまは何もしてあげないのね? あなたたち天使は?」
 眉を寄せてそう言うナーサディアに、ベリーランドは心持ち首をかしげるようにして、彼女をじっと見た。
「もう、いいわ。ごめんなさい、忘れて」
 ナーサディアは言った。
「……」
 ベリーランドは黙ったまま、シガレットケースを懐に仕舞った。
 夜の街の中を、ナーサディアはまた歩いて行った。ベリーランドを背にして、彼女は歩いていく。
 どうしたのかしら、私。
 自分に対してそう思った。
 エイモスやクレイグのことは気の毒だと思うが、彼らに仕事がなくなったということ、天界が、そんな人間の悩みを解決してくれないことに対して腹が立っているのではない。そう思った。
 彼らの現実感――。仕事がなくなったと嘆いていた彼らの現実感、妻や子どもに本当のことが言えないままだと眉を下げていた彼らの現実感。
 普通の人間の小さな生活の中の大きな悩み、その現実感。
 それと比べると、「自分」という存在が、まったく非現実的なものに見えてくる。生きてきた年月も非現実的だが、今「インフォスを平和にするために」為していること、そのすべてが非現実的なものに思えてくる。
 そして、あのひとは。
 あのひとは現実に存在していたのか、いつか帰ってくるのか、それさえわからなくなってくるのだ、この「非現実的」な世界にしか、既に生きられなくなっている「自分」を感じながら。
 私はおかしくなってしまったのかしら。
 エイモスやクレイグのことが、何だか羨ましくなってくるような気がするなんて。

 宿屋までやってきた。ナーサディアが今夜部屋をとっている宿屋だった。もう深夜ということもあって、どの部屋の灯りも見えず、入り口の辺りに仄かな光が見えているだけだった。
 その入り口にも、誰の姿も無い。
「開け放しか、無用心やな。店番もおらんのか、深夜は」
 ベリーランドが言った。
「ここでいいわ。今日はお疲れさま」
 入り口の扉を背にして、ナーサディアは彼に言った。
「任務は、明後日以降がご希望かね」
「ええ……、悪いけど……」
「ご希望に沿えるときは、できるだけそうすることにしよう」
「ありがとう」
 ナーサディアがそう言うと、彼は片手を挙げ、ゆっくりと踵を返そうとした。
「待って」
 不意に彼女は彼を呼び止める。
「おやすみなさいのキスは?」
 彼が足を止めた。眉がゆがんでいる。訝しげな顔で、黙ったまま彼女を見た。
「あっ……はははは、ふふふ、なぁに、その顔。冗談よ、黙っちゃって、思ったよりかわいいのね」
 ケラケラと声をたててナーサディアは笑った。
「そんなに怖い顔しないで。冗談だってば」
 ベリーランドの眉が元に戻った。そうして、眼を細めて笑った。
「なるほど。わかった、冗談か」
「ええ、そうよ。怒らないでね。なのに、あなた、反応無しで、おかしかっ――」
 「あれ?」と思ったときには、もう遅かった。
 不意にベリーランドが近づいてきたかと思うと、次の瞬間には彼の手が伸びてきていて、彼女の左耳の辺りを捉えていた。
 そのまま上から覆い被されるような、唇を押し付けられるような口づけだった。
 その瞬間、ナーサディアは何も発せず、何もできず、ただ息を止めた。
 気がつくと、彼は彼女の身体を、彼女が背にしている扉に押していっていて、そうして自分の左手をその扉につき、ナーサディアが逃げられないような姿勢をつくっている。きちんと閉められていなかった扉が、きしんだ音を立てて、内側に少しだけ開いていた。
 やっと彼女は唇をかすかに開き、小さな呼吸をした。押し付けられていた彼の唇が、彼女の上唇を軽くついばむようになっていたからだった。何故か思わず彼女は眼を閉じた。背中に当たる冷たい壁を感じたとき、彼の肩に自分の両手を持っていきそうになった。
 そのとき、鈍い痛みを感じた。
「――!」
 声にならない声を発し、彼女は両の眼を見開いた。腕を元に戻し、彼の身体を懸命に押し戻した。
「何するのよ!?」
 ナーサディアの右手が彼の頬を打った。
「おっ……、と」
 それを避けようともせずに、彼は打たれた頬を軽く押さえて彼女を見た。
 彼の紅い眼には、表情がないように、彼女には思えた。
 彼女は自分の下唇に指を這わせた。その指を見る。血が滲んでいた。
「嘘、噛んだ……?」
 うわごとのように、ナーサディアは呟いた。そうしてもう一度右手を挙げようとしたとき、彼がその手首をつかんだ。そして言った。
「誰と何があったかは知らんが、八つ当たりをこっちに持ってこられてるような気がするがね」
 ベリーランドは、そう言うと鼻で笑うような声を立てる。そして続けた。
「誰と俺を比べてる、ん? まあ、いい、誰でも関係ない、知ったこっちゃない。おやすみのキスが必要やったら、減るモンじゃなし、いつでもご希望通りにオーダー受付可能やがな、ただし、今度は唇にマスタード塗ってきてるときに受付、その次はタバスコ、その次はワサビや。それを憶えといてもらおうか」
「何が……、よ。変な言いがかりは、やめてくれる!」
「遊ばれるのは構わんがな、試されるのはどうも性に合わん。どういう反応をするかな、ってな、どこかの知らん誰かと比べられてるような気がしてな。存外心の狭い男でね、こう見えても、ワタシ」
「比べ……、って……。比べものにならないわよ! あなたとあの――」
 そこまで言って、ナーサディアは口をつぐんだ。
「ほうほう……」
 ベリーランドが妙な相槌を打って、彼女の手首を離した。

 彼がベテル宮に帰り着いたとき、もう既に宮中の明かりは消え果ててしまっていて、彼も黙ったまま自分の部屋に入り、暗がりの中で顔を一撫でした。
「なにをしてるかね、ベリーランドさんよ……」
 そう呟いて、頭を軽く振った。
「まあ、こういう日もあるわな」

 比べものになんか、ならないわよ。
 ナーサディアは、頭の中でつぶやいた。踊っている間中、昨夜のことが反芻し続けていた。
 あのひとは、ベリーランドよりも、ずっとずっと優しかった。ずっとずっと優しかった。
 眼も、手も、言葉も、唇も、ベリーランドよりも、ずっとずっと優しかった。優し過ぎるほど優しかった。
 比べものになんか、なるわけがないわよ。
 踊り終わると、店の主人から金を受け取った。
 昨日と同じ酒場だった。けれど、エイモスとクレイグの姿はない。
 主人に奢ると言われて、飲んで帰ろうかと思ったが、彼女はふと思い直して断った。
「ごめんなさい。明日、別の仕事があるの。今日は早めに帰ることにするわ」
 そう言って、店を出た。
 まだ街の灯が明るく、店々の灯火も明るい。
 薄い影を引き連れて、ナーサディアは昨夜と同じ道をひとりで辿った。
 その次の角を右に曲がる。
 立ち止まった。
 白い髪の男が、セピアのスーツを着て立っている。彼女の姿を見ても、表情を変えずにポケットから両手を出した。
「こんばんは、ミス仕事仲間」
「……」
「今夜、送っていってもええかな」
 彼女は彼をじっと見て、それからそこを通り過ぎ、ゆっくりと数歩歩いた。そうして、「ご自由に」と言った。
 足音が近づいてきた。
「今夜はキスのオーダーはないわ、安心して」
「結構。受け付けようにも、マスタードもタバスコもワサビも手持ちが無いもんでね」
「そう。じゃ、私も唇を噛まれるなんてことがないってことね。お互い、よかったわ」
「ああ」
 しばらくして、ベリーランドがぽつりと言った。
「悪かった」
 ナーサディアは、黙ったまま歩いた。そうして、しばらくして不意に言った。
「おかげで口紅のノリがすごく悪いわ。誰かさんに、傷つけられたせいで」
 宿屋の入り口まで来た。それでも彼女は何も言わず、入り口の扉に手をかけた。そのとき、一瞬だけ振り向いて言った。
「叩いてごめんなさい」
 そうして、早足で宿屋の中に入っていった。
 彼女の背中を見送って、しばらくの間、彼はそこでそうやってただひとり立っていた。そうして彼は、何故かひとりで笑った。少しの間、そこでそうして声を立てて笑っていた。
 そうして気がついた。明日の任務についての話を何もしていない。
 彼は彼女がそうしたように、早足で宿屋の中へ入っていった。

・ 流れるひとびと/終 ・



 お読みくださいまして、どうもありがとうございました。叔父さん、まだまだ青かった時代、みたいな一編でございます。蕁麻疹が出そう。

 しかし何か、結局「叔父天使創作」みたいになって、お恥ずかしい限りです。 恥ずかしい恥ずかしいって、毎作こんな感じの後記書いているような気もしますが……。