半月ぶりに、アイリーンは故郷のブレメース島に帰ってきた。島の北端に盗賊被害が続出しているということで、翌日から討伐に向かう予定になっていた。
 彼女は久しぶりに生家の塔を見上げた。塔はまるで巨大な卵みたいに見えた。西陽を受けて、てらてら光る石壁は、膨大な知の遺産を守る殻のように思えた。
 中に入ると、アイリーンは少し不思議に思いながらぐるりを見回す。短期間留守にしていただけなのに、なんだか天井が高くなった気がする。そこから床面まで淀んだ空気がこごっていて、彼女はそれをかきまぜようと、手足を大きく振り上げて歩いた。
「ね、悪いけど、窓開けてくれる」
 塔の中で一番大きな出窓を開きながら、アイリーンは背後の人影に頼んだ。
「よいよ。どの窓を」
「全部よ」
 答えながら、アイリーンは身震いした。放った窓から内へくる風ではなく、塔の中から出ていく空気が、彼女の肌を舐めるようにかすめていく。それが、思わずおぞけ立つほど冷え冷えしていた。
「ここのも開けるのか?」
 はるか頭上から声が降ってくる。振り仰いだアイリーンの眼には、大きな白い翼を背負って浮遊している「それ」は、まるで鶏のお化けのように映った。
「どうせそこまで飛んだんだったら、開けといて」
 鶏は、「了解」と言った。ほどなく軋みの音とともに天窓が開き、この世のてっぺんで舞うかのようなトンビの声が遠く聴こえた。それに応えでもするように、フクロウのウェスタが、ぽんと天窓の外に跳ねて出る。
「ウェスタ!」
 反射的にアイリーンは叫んだ。鶏はアイリーンをちょっと見た。それから窓の外に手を差し出して言った。
「まだ陽が高い。お散歩はおやめ」
 鶏が手をひっこめたとき、その黒髪が触れる肩に、ウェスタがちょこんと載っていた。鶏――によく似た羽を蠢かしながら、アイリーンの守護天使はウェスタを撫でながら言った。
「よい子じゃ。また迷子になってはいかんからの」
 その言を聞き、アイリーンは無意識に眉をしかめた。
「なんだかあんたが主人みたい」
 ゆっくりと高度を下げてくる女天使ハナカズラに向かって、アイリーンは思わずそう言いそうになったが、瞬時にその言を飲み込み、代わりにこう言った。
「まるで鳥のお化けね。フクロウの弟連れて」
 声に少し険が残った。が、天使はまるでそれに気づかぬ様子で破顔した。
「お化け。身共がか。それはよいなぁ」
「何がいいの」
「どうせお化けも天使もそんなに変わらぬから」
 そう言い終えると同時に天使は真顔に戻り、腕を伸ばしてウェスタを促した。ウェスタはすぐに飛び立って、アイリーンの肩にやってきたので、アイリーンは何となく、天使の言の真意を訊きそびれた。

 陽が落ちきる前に、アイリーンはハナカズラを連れて塔の裏にある井戸へ水を汲みに行った。留守にしている間にもしっかり蓋をしておいたので、中には木の葉なども落ち込んではいないようだった。釣瓶で汲んだ水を桶に注ぐと、すぐにハナカズラがその桶をひょいと持ち上げて運びだした。
「持ってってくれるの?」
「うん。台所でよろしいか」
「いいの? じゃあ、勝手口から入って左にある白い水瓶に移してね。助かる」
 先に立って歩き出したハナカズラの背中を見ながら、内心アイリーンはほっとした。正直身体が疲れきっていて、水も天使に手伝ってもらってふたりで運ぼうと思っていたからだ。
(眠い……。でも、まだ寝ちゃダメ。というか、ごはんだって食べてないし)
 自分の頬をつねりながら、アイリーンはハナカズラの背中に呼びかけた。
「ねえ、あのさ……、構わなければ、夕ごはん食べていかない?」
「え、よいのか?」
 ハナカズラが黒いポニーテールを揺らして少しふりかえる。
「うん、どうせひとり分つくるのもふたり分つくるのも変わらないし」
 アイリーンが言うと、ハナカズラは口を丸く開け、大きな黒い眼を瞠って言った。
「アイリーンは、お料理の達人なのか?」
 アイリーンも眼を瞠った。
「何それ。べ、別に人並にできるってだけだけど」
「いや、さっきのお言葉は、お料理の練達のお言葉じゃろう」
「大袈裟ねえ。料理するひとなら、誰だって言うことだと思うけど」
 そう答えてからアイリーンは、はたと気づいた。
「ひょっとしてハナカズラ、あなた全然料理しないっていうんじゃ……」
 アイリーンが問うと、ハナカズラは途端に視線を空中へ向け、
「え。えぇ~……、全然……と、いう、わけでは、うん……」
 と口ごもりながら、あとずさりして台所の勝手口から塔の中にそろそろと入っていってしまった。そのハナカズラを大股で追いながら、アイリーンはまた尋ねた。
「え、ねえねえ、料理しないの? それとも、もしかしたらできないの? どっち?」
 アイリーンの声は、自然と笑いまじりになった。勝手口から中に入ると、ハナカズラは桶の水を瓶に移し替えているところだった。天使は桶を傾けながら、ひとりごとのようにもごもご言う。
「いや、全然しないわけではないし、全然できないわけでは決して……」
 困っているのが丸わかりな顔のハナカズラを見て、アイリーンの心の中のひきだしがひとつじわじわ開いてくる。ひきだしには「いたずら心」というラベルが貼られている。何それ、古くさい言い回しのラベル。こんなひきだし開いたの、ちょっと久しぶりかもしれない。……などと思いながら、アイリーンはにやにやする。知らずのうちに眠気はどこかへ飛んでいってしまった。
「じゃあさ、夕ごはん、あなたも何か一品つくって。ね、何でもいいから」
 にやにやしたままアイリーンが言うと、ハナカズラは黒眼をさっきよりさらに大きく見開き、
「えぇーーーーーっ!!」
 と、まるでウェスタが人間の言葉を喋ったのを聴いたかのような反応を示した。この過剰ともいえる反応が、女天使の料理の腕前を既に語っているのだが、アイリーンの「いたずら心」のうずきは、もはやこれだけではおさまりそうになかった。
「さっき帰りがけに買った野菜がたっぷりあるし、卵もあるし、調味料もあるし。ハナカズラの食べたいものでいいから、何かつくってよ、お願い」
「えぇ~……、身共の食べたい、もの……。うーん、サラダ……かのう……、うん。手でちぎった生野菜……」
「やだ。それは料理じゃない。それにサラダは私がつくる。それ以外で」
「それいがいぃ」
 どうやら特に意味のないらしい復唱をしてから、ハナカズラは口を二枚貝のように大きく開けたまま黙ってしまった。この口に、自分が耳にぶらさげている飾り玉でもポコンと入れてやろうかしらなどと思いながら、アイリーンはハナカズラの手を引き、流し台の前まで連れていった。

 結局その後、ハナカズラがおぼつかない手つきでやったことはといえば、卵を三個、ぐしゃぐしゃとなし崩し的に割り、ボウルに入れたそれを木べらで力任せに混ぜ、瓶からすくった二匙分のマヨネーズを琺瑯のフライパンに振り落とし、そこに流し込んだ卵液をまた木べらでわしわし混ぜるという、これだけだった。鬼の形相で卵を混ぜ終わり、フライパンをかまどの火から下ろすと、ハナカズラは大息をついて言った。
「できた。卵のマヨネーズソテーじゃ」
 ものは言いようだとアイリーンは思った。どう見ても、ただのスクランブルエッグとしか思えなかった。ただ、どうやらハナカズラは料理の実力を出し切った様子にも見えたので、アイリーンはもう突っ込まないでいてあげようと決めた。
「じゃ、こっちのお鍋かけるから、ちょっと手伝って」
 かまどには、火の出口の径がふたつある。アイリーンはそのうちのひとつに小鍋を置き、バターをひとかけ落とし入れると底全体になじませた。それからその上に小麦粉をまんべんなく振りいれ、
「さっ、これをそのへらでかき混ぜて。焦げないように、でも手早くね」
 と、ハナカズラに指示をした。ハナカズラは手に持ったままだった木べらとアイリーンの顔を交互に見てから、あわててかまどに近寄り、小鍋の前に立った。
「2,3分、休まないでね。あっ、手早くって言っても、そんなに乱暴にしちゃだめだってば。やさしくかき混ぜて」
 言いながら、アイリーンは小鍋を持ち上げてみせ、火の熱がぎりぎり届く高さの位置でかき混ぜるようにという指示もつけ加えた。
「これは、何になるのじゃ?」
 ハナカズラが緊張した面持ちで木べらを動かしながら問う。
「ソースよ」
「ソース? 黒うないが……」
 どうやらハナカズラの中では、ソースとはウスターソース等の類のことを言うらしい。
「だからホワイトソース。こっちで具の方、やっちゃうね」
 そう言ったときにはアイリーンは、もうひとつのかまどの径で牛乳を温め終わり、大鍋を取り出していた。その大鍋に、ハナカズラが卵を焼いていた間に下処理した鶏肉を放り込んで炒める。油がはねて腕が少し痛かったが、久しぶりに自分でやる料理の音とにおいに、アイリーンの耳も鼻もじわじわ揺り起こされて少しずつ気持ちが弾んでくる。
「ふわぁ、香ばしいのう、何故に肉というのは火を通すだけでこれほどかぐわしゅうなるのかのう」
 ハナカズラは鼻をクンクン鳴らしながら、顔を大鍋に向けた状態で、それでも手は休めず動かしている。俗に言う「ガン見」状態で、ひょっとしたら両眼から手を生やし、それからその手で肉をつかんで食べてしまうのではないかとすらアイリーンには思えた。
「あのさぁ、何だったらお肉、ひとかけ食べる?」
「えっ、よいのか?」
 期待に満ちた眼でハナカズラが見てきたが、アイリーンはにっこり笑ってかぶりを振った。
「冗談。塩コショウしただけだから、今食べたって特に美味しくはないわよ」
「え~、十分美味いと思うが……」
 傍から見ると笑えるほどにがっくり肩を落とし、ハナカズラは小鍋の中をいじいじとかき混ぜた。
「あっ、そっちのお鍋ね、一回火からのけて、それからこの牛乳をそろーっと少しずつ入れて混ぜてくれる」
「うむ……」
「牛乳全部入った? そしたらまた遠火でじっくりかき混ぜてね」
「うむ……。またか……」
「文句言わないの。これ、味見させてあげるから」
 アイリーンは火の通った鶏を鍋から皿に移すと、流し台の横に置いてあったサイダー瓶を取り、中の液体をコップに少しついでハナカズラの口許にあてがってやる。
「ん、何じゃこれ」
「ブイヨン。ブレメースの船着き場のところに、古い食堂があったでしょ。さっき寄ったけど。あそこで昔っから売ってるの」
「味がない。いや、野菜の味はするが、塩っけもなにも」
「そりゃそうよ、ダシだもの。やっぱりあなた、普段料理しないのね」
「う……、面目ない」
「いや、いいけど~……。ブイヨンってのはね、味付けはしてないのよ。でも、とっても手間暇かけてつくられてるんだから。うちはずっとこのブイヨンにお世話になってきたの。あそこのステラおばさんってひとがブイヨンづくりの名人で、自分ちでつくるよりずっと美味しいから、ブレメースのひとはみんな分けてもらってるわ」
「ははぁ、ステラおばさんか……。お料理がお上手そうなお名前じゃ」
 ハナカズラが遠い眼をしてつぶやいたので、アイリーンは首をかしげた。
「いや、こちらの話じゃ。ところでこれ、まだかき混ぜるのか?」
「うーん、もう少しね。あ、こっち、また油はねるかもしれないから断っとく」
 そう言いながら、アイリーンはみじん切りにしておいたタマネギを大鍋に入れ、ざっざっと炒めていく。
「飴色、飴色……。ここで秘密兵器投入、追い油」
 サラダ油を追加で大鍋に二匙ほど投入し、ほとんど油まみれになったタマネギを鍋の中で踊らすようにアイリーンは炒めつづけた。
「炒めるというより、揚げておる感じに近いような……」
「そうよ、こうすると飴色タマネギが速くできあがるの。これってお姉ちゃんが――」
 と弾んだ声で言いかけて、アイリーンははたと口をつぐんだ。それから少し咳払いをしてから低い声で言った。
「うちのお姉ちゃんが教えてくれたの。ずっとごはんつくってくれてたから」
 言いながらアイリーンは、タマネギが照っている鍋の中に、乱切りの蕪としめじを入れて炒める。そしてすぐに話題を変えた。
「ところでハナカズラ、おうちでは一体誰がごはんつくってるの?」
「え、身共のうちか? あのー……、妖精のみんなや叔父が」
「叔父さん? 男のひとがつくってくれるの? おいしい?」
「ん、まあ……。身共よりは、手際は百倍くらいよいと思う……」
「そうなんだ。うちのおじいちゃんって、料理はあんまり上手じゃなかったな。根が学者っぽかったから、いろいろ思いついて試してみる割に、味がともなってないの」
「ははぁ、アイディアがたくさんおありというタイプでいらしたのか」
「そうだね、アイディア『だけは』たくさんあるっていう。そうだ、コーヒーゼリーってミルクかけて食べるの面倒じゃない? だからはじめからミルクの入ったミルクコーヒーゼリーをつくるなんて言って、牛乳と間違えて豆乳入れちゃって、あ、知ってる? 豆乳ってコーヒーの中に入れると、かたまったみたいにぶわぶわなっちゃうことあるのよ。で、できあがったのが、そのぶわぶわの入ったヘンな色のゼリー」
「新商品じゃな」
「味はまあ、特に可もなく不可もなくだったけどね」
「実害はおありでなかったのじゃろ。およろしいではないか」
「実害があるものつくったことあるの?」
「いやぁ、ない。何故なら、身共は自ら料理はしないから」
「いばって言うようなことじゃないと思うけど」
「うぅぅ……、面目ない……」
 肩を落として鍋の中を混ぜつづけるハナカズラに、アイリーンはわざとらしくため息をついてみせたが、本当は何故か少し鼻歌でも歌いたいような楽しい気分だった。
「まあ、いいんじゃないの。料理しなくてもいいってことは、それはそれで恵まれてることなんだろうし」
 ハナカズラを慰めるつもりではなかったが、自然とそんな言葉がアイリーンの口から出た。
「うちのおじいちゃんは料理が上手じゃなかった、なんてさっきは言ったけど、でもよく考えてみたら、私もお姉ちゃんも、小さい頃に自分で料理しなくてもごはんが食べられたのって、すごく幸せなことだったんだなって思う」
 生まれ育ったブレメース島を出てアルカヤ中を旅する今になって、なおのことアイリーンはそう思うようになった。
「当たり前に守ってくれる大人がいて、当たり前に帰れる家があって、ごはんがあって寝床がある子ども時代って、とても幸せだったんだなって今は思うわ。幸せなことを特別幸せだなんて思わなくても生きていられたのって、すごく恵まれてたんだって思う。ひとの多い都会でいろんなひとを見た今は余計に」
 ハナカズラは黙っている。アイリーンは、ちらと天使の方をうかがい見た。天使は表情といえるほどのものがないぼんやりした顔つきで、手だけ規則的に動かして鍋の中をかきまぜている。彼女の様子を見て、アイリーンはわけもなく背中が寒くなるような気さえした。自分のさっきの言葉に相槌すら返さないハナカズラが何を考えているのかが、皆目わからなかった。
(そりゃあ、天使というか天界のひとたちのせいで、人間界に不幸があるってわけじゃないだろうけどさ……。なんかもうちょっと実のある反応ができないもんかしら、天使って……)
 喉まで出かかったそんな言葉をぐっと飲み込むと、アイリーンは小さくため息をついて鍋をかまどから下ろした。

 それから半時間と経たないうちに、アイリーンは夕食の支度を終え、天使を広間に呼んだ。使い終わった鍋や匙を洗っていた天使は、その作業を中断して食卓までやってくると、卓上の料理を眺めて眼を丸くした。
「これ、全部アイリーンがおつくりになったのか?」
「うん、まあ、そうよ。あ、いや、あなたにも手伝ってもらったけど」
 アイリーンは濡れた手のままのハナカズラに手拭きのナプキンを渡しながら、すぐに席へつくように促した。
「冷めないうちに食べましょ。シチューなんて、熱くないと実力の半分以下の味になっちゃってかわいそうだもん」
 アイリーンが、先に鍋ごと運んできていたミルクシチューを皿によそいはじめると、ハナカズラは何故かポンと手を打った。
「ああ、シチュー! シチューじゃったのか、さっきのアレは」
 シチューじゃなけりゃ一体何だと思ってたのよ、と、アイリーンは苦笑しながらひとりごちた。それを耳ざとく聴きつけたらしい、ハナカズラは少し恥ずかしそうに頬を赤らめて言った。
「いや、うちではシチューというものが調理なされぬゆえ……」
「え、おうちで全然食べないの? もしかして、嫌いだった?」
「いやぁ、そんなことは……。むしろ、好きじゃったかも……」
 妙に歯切れの悪い返事のあと、ハナカズラはアイリーンからシチューの皿を受け取り、きょろきょろとあたりを見回した。
「ウェスタのお姿がないが」
「ん、いいのよ。先に食べてたら来るから」
 アイリーンは自分の傍らに置いた小皿を指し示しながら言った。小皿には、ウェスタ用の生の鶏ササミが入っている。
「じゃ、食べよ食べよ。もうおなかぺこぺこ。はい、いただきまーす」
 さっさと手を合わせ、アイリーンはスプーンをとってシチューを口に運んだ。
「あっ、我ながらいい味。ブイヨンの旨味、最大限に引き出してる。天才かもしれない」
 その様子を見て、ハナカズラも慌てたように手を合わせ、
「いっ、いただきますのじゃっ」
 と、まるで10代の男子学生が学校の食堂全体に響かせるような無駄な大声で挨拶をし、フォークをとって猛然とサラダを食べ始めた。
「ねえ……、なんでそんなすごい形相でサラダ食べてんの……?」
 わしゃわしゃとレタスを噛んでいるハナカズラに、アイリーンは少し引き気味に尋ねた。
「何故って、早うシチューを賞味しとうて」
「どういうこと?」
「いや、まずは野菜から食べるのが順番じゃから……」
「え。そうなの?」
「うん? ちがうのか?」
「コース料理じゃないんだから、別に好きな順番で食べていいと思うけど」
 アイリーンの言葉に、ハナカズラは軽く衝撃を受けたような顔をして、フォークをぽろりとサラダボウルの中に取り落とした。
「そうなのか……? ずっと、野菜をいただいてからでないと、メインに手をつけてはならぬと思うておった……」
「天界ではそうなの? 地上では、そんな決まりどこにもないんじゃない」
 あきれ顔でアイリーンが言うと、ハナカズラは、「ジさまめ……」とうめくようにつぶやいた。
「もしかして、誰かに教えられたの?」
「うん、祖父にな……。だまされたやもしれぬ」
 ハナカズラによると、小さい頃から祖父の手で育てられた彼女と彼女の叔父は、食事のたびに「一番最初に野菜を全部食べてからメインを食べるように」としつけられたということだった。
「じゃからずっと、エビチリのときも、エビフライのときも、エビ天のときも、先に野菜を一所懸命に食べたのに!」
 ハナカズラの悔悟の度合いはアイリーンには量りかねたが、ともかくこの天使はエビ好きらしいということはわかった。
「まあ、いいじゃない。きっと、あなたたちが好きなものばっかりどんどん食べちゃわないようにって、おじいさん心配したのよ」
「うーん……、まあ、そうじゃろうがなあ……」
 うなりに似た声で相槌を打ちながらも、ハナカズラはレタスをウサギのように休みなく食べている。と思っていたら、いつのまにか空にしたサラダボウルをドンと音を立てて脇へ置き、
「サラダ、ごちそうさまでしたじゃ!」
と言いながらシチュー皿を引き寄せた。そして、その皿を自分のまん前に据え、覗きこむようにしてじっとみつめ始めた。
「あの……、何してんの?」
 既に自分の分のシチューを食べ終え、おかわりをしようかと鍋に手をかけつつ、アイリーンは尋ねた。
「うん……、なつかしいにおいがするなあと思うて」
 ハナカズラは、心ここにあらずというようなぼんやりした声で答えながら、シチューをみつめつづけている。そしてやおらスプーンを手に取ると、ゆっくりとシチューの中にさし入れ、一匙すくって口に入れた。
「ああ……、うん」
 飲み込むと、ハナカズラは不思議な反応をし、皿を凝視しながら黙ってまたひとくちシチューを口に運ぶ。
「もしかして、口に合わなかった……?」
 何の感想も言わない天使に、アイリーンは待ちかねて尋ねた。ハナカズラは、やっと眼を覚ましたように顔を上げ、
「えっ。いや、とんでもない。シチューってこんな味じゃったなあと、しみじみ思い出した」
 と、遠くを見るような眼をして静かに言った。
「思い出した? さっきも言ってたわね、おうちでは食べないって」
「うん、叔父がつくらぬからのう」
「何で? 叔父さん嫌いなの、シチュー」
「いやぁ、そうではない。好きじゃったよ、多分」
 ハナカズラの不思議な言い回しにアイリーンが眉をしかめていると、
「身共がまだ小さい頃、遊んでおった木から落ちて怪我をした。そのとき祖父は、シチューを炊いておる途中じゃった。で、その日から祖父は、シチューをつくらぬようになった。じゃから、叔父も一度もつくったことがない。祖父が亡うなって15年経った今でも」
 ハナカズラは淡々とそう言って、シチューを口に運びつづけた。
 アイリーンは、
「ふーん……」
 とだけ言っておいた。彼女は天使にも、「幸せな」子ども時代があったのだなと、ふと思った。他人から見て「幸せ」かどうかはわからないが、少なくとも、彼女の無事を願ってシチューをつくらなくなった祖父がいた子ども時代が、この天使にはあったのだなということはわかった。
 黙って食べていた天使は、不意に、
「美味いなあ」
と、独り言のようにつぶやいた。あんまりしみじみした声音だったので、アイリーンにはその言葉がお世辞でないこともよくわかった。


 食事を終えてから、アイリーンは奥の間に自分の寝床の用意をした。
 台所に残って食器を拭いている天使が、ウェスタ相手に何事か喋っている声がかすかに聞こえてくる。アイリーンはその声に耳を澄ましながら、夕方この塔に帰ってきたときに感じた小さな苛立ちが霧散していることに気がついた。夕方は、ウェスタと仲良さげな天使に少し嫌みを言ってしまったが、今は何故か、天使も自分と或る意味同類だというような気持ちが大きくなっていて、ウェスタをとられてしまうなどというような焦燥感も嫉妬心も感じなかった。
 ふと、アイリーンは背後をふりかえる。ウェスタを肩に乗せたハナカズラが、音もさせずにいつのまにかそこに立っていた。
「そろそろおやすみになるか? では、身共も失礼しよう」
 そう言って、天使はウェスタを肩から腕に移動させ、アイリーンにさし渡す。ウェスタはちょんちょんと跳ねるようにアイリーンの肩に乗り移ってきた。
「あのさ」
 不意に、アイリーンの口から質問がついて出た。
「この前、ウェスタがいなくなった日があったじゃない? で、みつかって、あの日、みつけてくれた子の家でごちそうになって……、それで、私、あの家抜けだしちゃったでしょ……。あれって、なんでだと思う?」
 訊かれたハナカズラは一瞬面食らったような顔をして、すぐに訊き返してきた。
「それは、身共へのクイズか?」
「ちがう、クイズじゃない。何で私、あんなことしたんだろうと思って」
「あぁ……」
 ハナカズラは気の抜けたような声をひとつ発して、
「うーん……、その理由はわかるような、でも、言葉にしようとすると途端に遠くへ行ってしまうような」
 と、うめくように言った。
「遠くへ行く?」
 天使の言を復唱し、アイリーンは少し眉をあげてうなずいた。
「確かにね……。自分でも理由がわかるようでいて、でも説明しようとすると、喉の奥に膜が張っちゃうような、そんな気分になるの。言葉が身体から出るのを嫌がっているみたいな感じ。逃げていっているのかもしれない。言葉にしたくないのかな、私」
「そういうことはある」
 ハナカズラは即座に、けれど空気に溶けるほどの小さな声で言った。
「言葉に仕立てて説明してしまうと、それで打ち切りになってしまうような気がしてやりきれぬことがたくさんある」
 アイリーンは複雑な笑みを浮かべて天使を見た。
「ふーん……。何だかちょっとほっとした。あの日から、ずっと私、あなたに呆れられているかもしれないって思ってたから。気難しくって子どもっぽくって、だから疳癪起こしてあの家抜けだしたんだって思われてるかもしれないと思ってた」
「はは、アイリーンが本当にそんな方じゃったとしたら、これまで泊まった宿からも何回飛び出して行っておしまいじゃったかわからない」
 しかしそんなことは今まで一度もなかったじゃろう? と、天使は屈託のない顔で言った。
 アイリーンは少しうつむきがちにうなずきながら、照れて頬を赤くした。
「とってもあったかいおうちだったね。とってもいいひとたちだった。ごはんもいっぱいごちそうしてくれて、シチューもあったわ。私ね、そのシチュー……、食べられなかったの。最後にシチュー食べたの、お姉ちゃんが生きてるときにつくってくれて、この家で食べたものだったから、そのシチューの思い出ばっかり頭に浮かんできて、あんな大勢のひとたちの中にいたのに、自分がいつもよりひとりぼっちな気分になっちゃった……」
 ハナカズラは黙って聴いたあと、何度も小さくうなずいて静かに言った。
「身共は今日、アイリーンのシチューで祖父を思い出しはしたが、それでも祖父を亡くした当初と違うて、さみしさよりもなつかしさの方を感じた。しみじみと、なつかしかった」
「時間が経てば、そうなるってこと……?」
「うん。おそらく或る程度。今よりは」
 だが、さみしさやかなしみの嵩(かさ)は、もしかしたら減らないかもしれない、ともハナカズラは言った。
「しかしもしそうであったとしても、角ばって尖っていた先っぽのところは、自分がもがこうがもがくまいが、知らぬ間に少しずつすり減っていって丸みを帯びてくるのではないかと身共は思う。それは記憶の鮮明さと引き換えじゃから、ひょっとしたらこれはこれでさみしいことなのやもしれぬが、少なくとも、残った者の心を軽くはしてくれる」
 床の一点を見ているようで、ここではないどこか遠くの景色を見ているような眼をしてハナカズラが言った。
「ふーん……」
 アイリーンは、そう相槌だけ打って黙っておいた。天使の言葉を今この場で性急に咀嚼しなくとも、またいつか思い出すときがあるだろうと思い、頭の片隅にそっとしまった。
「天使にも、いろいろあるのね。人間と違って、いろんなことにいちいち感情を動かさないモンだと思ってた」
 アイリーンが言うと、ハナカズラは心底おもしろそうに笑った。
「そりゃあ、天使は人間から生まれたものじゃもの。人間の想像以上のものは持っておらぬよ。そういう意味で、幽霊やお化けと変わらない。人間の鏡のようなものじゃから」
 ハナカズラは笑いつづけているが、アイリーンは天使の言の意味がよくわからず、しかめ面になった。
「意味わかんない」
「実は身共にもよくわからない」
「あっそ」
 呆れてアイリーンはため息をつく。そして、ぱっと気分を変えるように言った。
「じゃ、そろそろお風呂沸かして入ろうかな」
 ハナカズラはゆっくりと眉を上げ、アイリーンに合わせるように明るい声を出した。
「そうされるとよい。おひとりでされるのか?」
 鴨がネギ背負ってきたようなハナカズラの質問に、アイリーンはにんまりとした。
「手伝わせてあげる。水汲みに薪くべ、あなたの腕力を活かせる仕事がいっぱいあるわよ」
 アイリーンはそう言い放つと、ハナカズラの手を引き、また外の井戸へ向かった。ハナカズラは、
「うに~……」
 と、不思議に情けない声を出しながら、ずるずると連行されていく。そのあとを、ウェスタが機嫌よさそうな軽い羽音をさせながらついていった。

・ 誰かのシチュー/終 ・



 お読みくださいましてありがとうございました。ふと気づけば、女天使と女勇者の話を書いたのは、これが初めてだったのでした。ちなみにハナカズラの怪我とシチューの話は、うちの話でもあったりします。うちの母がシチューをつくっていた日に、弟が怪我をしまして、それ以来うちでは20数年、シチューがつくられておりません(笑)。