それは、途方もない景色でした。
 池がありました。世界の果てまでつづいていそうな、大きな池がありました。その水面には、一面の蓮の花、花、花です。こんなにすごい蓮の花は、未だかつて私は見たことがありませんでした。いつか何かの本で読んだ「極楽浄土」というものを思い出すような、そんな気分になりました。
 昨日までここにあって、ここになかった花の波です。ずっと蕾のままで揺れていた蓮の花が、今日一斉に開いたのだと、やっと私は頭の隅で理解したのでした。
 蓮の花は、白いものや桃色のもの、それがとりどりに混ざり合って、緑の葉っぱに影を落としています。その中に埋もれるようにしてつづいていく石の路は、毎朝私たちが身支度をして出発するベテル宮の玄関にまで蛇行して通じていて、途中にはハナカズラさまがしゃがみこんでいるのが見えました。
「ああ、おかえり」
 腰を伸ばしてこちらを見たハナカズラさまが、立ち上がりながらそう言いました。私が「ただいま帰りました」と答えると、私の背中の方から「ああ」という声がしました。
「それは?」
 ハナカズラさまが、私の後ろの方に向けて尋ねます。
「シャトーワイン」
 私の背後の声が答えました。
「うん? 買うて参ったのか?」
「貰うた。シーヴァスに」
「はあ、なるほど」
 ハナカズラさまがうなずくと、私の背後からベリーランドさまが一歩前に出てきました。
「白」
 右手に提げているシャトーワインを、何故か得意そうにハナカズラさまに示してみせるベリーランドさまの髪の毛は白くて、庭を照らして何もかもを浮かび上がらせる陽の光の中で、その光を染み込ませているようにも弾き返しているようにも見えます。
「白? ああ、色か。ベリーは本当に、白ワインが好きじゃな」
 言いながら鼻の頭を少しこすったハナカズラさまの指は土で汚れていて、そのせいで土の色の鼻をしたハナカズラさまが、ベリーランドさまの手の中の白ワインのボトルに手をかけました。
「赤は種も皮も一緒くたにつくるから、成分で悪酔いする」
「酔わぬくせに」
「おまえが酔う」
 真顔で淡々とそう言ったベリーランドさまは、ゆっくりと見回すようにして蓮の池を眺めました。
「おっちゃんらが出て行ってる間に咲いたか?」
 問われたハナカズラさまは、土でできた重そうな鉢を持ち上げながら、「うん」と答えました。
「わごりょら、今朝方は明けきらぬうちから出かけたじゃろう。そのあとで、ばーっと」
 太陽が、そろそろ天の一番高い処に到着しようかという時間でした。「天界」と呼ばれる空の高みの中にあって、それでもなお、青い空の下にあるこのベテル宮の主であるふたりの天使さまは、めいめいに黙って蓮の波を眺めているのでした。
「シェリー」
 ふと呼ばれて顔を上げると、ベリーランドさまが紅い眼を細くして、こちらを見ていました。
「今日の仕事は終わり。あとは好きにして結構」
「はい!」
 私は思わず勢いよく返事をしてしまいました。ベリーランドさまが、少し眉を上げて、そしてすぐに声なく笑ったように見えました。


 それからの自由時間、私は咲きそろった蓮の花の上をあてどなく飛び回りました。
 紅色の蓮、薄桃色の蓮、真っ白な蓮……。そのどれもが濃い緑の大きな蓮葉の中から静かに顔を出しています。緑の葉の上には、露のような水の玉が散らばっている金平糖みたいにきらきらと光っていて、その横には、ときどき丸く湾曲した花びらが落ちているのが見えます。
 すんなりと、それでいて力強い蓮の茎はまっすぐにも見えるのですが、それでもところどころ緩やかにカーブしていて、私はその隙間めがけてゆっくりと旋回を続けます。
 蜘蛛の巣の糸を引いている蕾も露に濡れていて、私はその巣のかたどる穴の中を濡れながらくぐっていきました。
 この蓮は、最初からここに植えられていたものではありませんでした。1年と少し前、このベテル宮に新しくやってきたふたりの天使さまの意向で植えられ、鉢植えから始まったものが移植され、今日、池でたくさん開花したものです。
 ふたりの天使さまのうち、黒い髪をした女天使さまは、いつか私に言いました。
 蓮は、死んだひとが座る花なのだと。
 私はその話を聞いたことがありませんでした。天界には、そんな言い伝えはなかったのです。
 女天使さま――ハナカズラさまは言いました。それは、地上界のあるひとつの考え方に拠るものなのだと言いました。
 ハナカズラさまは、蓮の根っこをどこかからもらってきて、それを鉢に植えました。いくつもいくつも植えました。鉢の中で花開いた蓮を、春になってからベリーランドさまが池に植え替えました。池に移った蓮は、どんどんどんどん大きくなって、たくさんたくさん増えていって、池を覆ってしまうほどになりました。
「これだと、たくさんのひとが上に座れますね」
 私がそう言うと、ハナカズラさまは笑って、「そうじゃな」と言いました。
 ベテル宮の庭には、最初からそこに植えられていたもの、それからベリーランドさまとハナカズラさまがやってきてから植えられたもの、そんなたくさんの草木が一年中ありました。
 春には、池の縁に白い水仙が緑の細長い葉っぱを従えるようにしてひっそりと咲きました。その横に、黄色やオレンジ色のラッパズイセンも身を寄せるようにして咲き、そのまま上を見上げると、コリンゴとも言われる酸実(ずみ)のピンクの蕾のついた木が、甘いにおいをさせて、花が目覚めるのを待っています。手入れのなされないそのままの緑の草いきれの中には、木苺の紅い実がぴかぴかと光っていて、それを懸命にもごうとすると、甘い汁が飛び出してくるので、私たち妖精は天使さまを呼んで、いつも摘んでもらって食べました。スミレの紫色や、ウツギの真綿色、石畳の脇を覆うハナビシソウのオレンジ、そのすべてが、また顔を上げたときに広がる庭の全景に納まるすべての花々と一緒になって、私の眼の中にゆっくりと流れ込んでくるのでした。アネモネのとりどりの色に、ときどき元気になったり悲しくなったり、アリッサムの込み入った花群れの上に寝そべったり、私はそんなベテル宮の庭が、いつしか自分の庭なのだとさえ思えるようになりました。
 ――夏の庭は、春とは違う顔を持っているようにも見えました。
 外から帰ってきたときに一番最初に「おかえり」を言ってくれるのは、鉄の門の両脇に咲いている背の高いムクゲです。空に向かってまっすぐに伸びていっているようにも見えます。その足許には、黙って咲いている青い露草と、ムラサキツユクサ。その門から一歩入ると続いていく一本の石の路。春にハナビシソウで覆われていた両脇は、今度は赤やオレンジ、濃いピンクや黄色のダリアで埋め尽くされ、私たちはその間を、まるで花の邪魔をしないようにして、そっと進んでいくのです。私は、そんなふうに、花の邪魔をしないように静かに玄関まで帰るのが何故かとっても好きでした。
 私はベリーランドさまの補佐妖精なので、大概ベリーランドさまと一緒にその小路を行き来しました。私は蛇行して花にぶつかってしまうことのないように、ゆっくりと飛んでみたり、花の背より高いところを飛んでみたりします。そうしてベリーランドさまは飛んでいくことはせずに、いつもゆっくりと花の間を歩いていくのでした。ベリーランドさまは地上界の勇者さまに会いに行くとき、だいたい白っぽいマントスーツを着ていました。そのスーツの裾のあたりが、ダリアの花や葉っぱに触れて、少しだけ緑のにおいのする波風を立てるのです。小さくざわめく葉擦れの音を聞くと、ベリーランドさまはゆっくりと裾を持ち上げ、それがダリアに触れないようにしてまた歩き始めます。それでもたくさんたくさん生えているダリアの葉に、少しは触れてしまいます。そんなとき、ベリーランドさまはちょっとだけバツが悪そうな、照れくさそうな顔をして、歩いていくこともあります。
 ダリアの花路をそのまま行くと、ベテル宮の玄関にすぐに辿りついてしまうけれど、もう少しだけ注意深く歩いてみれば、その石の路の途中に、脇道にそれる部分があることに気づけます。実は、脇道は1本だけでなく、3本もあるのです。そのうちのどれを選んで進んで行っても、それぞれの草木の生い茂る場所へ出ることができます。
 私が一番気に入っていたのは、枇杷や桃、さくらんぼの実る木がいっぱい立っている場所へ続く路で、その場所に行くと、木の実の甘いにおいがたくさんするだけでなく、その実を目当てに集まってくる小鳥の姿と声もたくさんあるのです。足許はふかふかの緑の草の絨毯で、私たち妖精は、その中を歩こうとしても身体より背の高い草の中にすっぽりはまり込んでしまって、到底先に進むことはできないけれど、それでもその草の中から顔を出す小さな小さな花と、自分の眼と同じ高さで対峙することができました。少し進んでいくと、日当たりのいい岩場があって、そこにはコケモモの鈴型の花がうつむいて寄り添っています。秋には真っ赤な実が実るのを楽しみにしながら、飛び跳ねるバッタを眼で追いかけます。バッタが跳んでいく先には、スグリの実のなる木。グーズベリーとカラントのどちらの種類も植わっています。
 けれど、私の「一番お気に入りの場所」は、今年の夏からは、どうも別の場所になってしまうような気がします。
 蓮の花の群を見下ろしながら、私はそんなことをぼんやりと考えていました。
 薄桃色と白の花、それから緑の茎と葉っぱの向こうに見えるベリーランドさまとハナカズラさまは何やらお話しをしているようで、ベリーランドさまの白い髪の毛とハナカズラさまの黒い髪の毛が、まるで一対のもののような、そんな思いがしてきます。私は、ふたりの天使さまが喧嘩をせず、仲良く話をしていたりするのを見るのが好きでした。ベリーランドさまとハナカズラさまは、お互いにやさしく労わったりするようなことを言うようなことはなかったけれど、ぴったり寄り添うでもなしに、それでも離れすぎもせず、ある一定の間隔を常に保って一緒に歩いているように私には思えました。
 私は、ふたりの天使さまが仲良くしているのが好きでした。それを見ると安心できました。とても安心できたのです。


 台所の方から大きな緑のお皿を抱えたハナカズラさまが出てくると、冷たくてぐにゃりとした風が吹いてきて、その風がハナカズラさまの髪の毛の一筋を吹き流しているのが見えました。私はハナカズラさまのあとを飛んで着いて行くと、ハナカズラさまが足で開けた障子を通り過ぎ、そのままその部屋へ入っていきました。
 その部屋はベテル宮の中で、ひとつだけ、ベリーランドさまとハナカズラさまに改造された部屋で、木のにおいと草のにおい、紙のにおいのする部屋でした。大きなガラスの一枚戸を開けると、そこには濡れ縁から続く蓮の池が広がっていて、その花や葉の間を縫ってやってくる細い風が部屋の中に流れてきて、ひとつの大きな流れになっていくようでした。
 ハナカズラさまが濡れ縁にまで出てそこに置いた緑のお皿は、大きな蓮の葉っぱでした。その上に砕いた氷や魚のお刺身、そうして小さな黄色い花が盛られています。ぴかぴか光るこまかい氷は、射し込んでくる陽の光を受けると途端にきらきらと輝いて、でもそれは「宝石」のような「飾るためのもの」でもなくて「眺めるためのもの」でもなくて「大事なもの」でもなくて、それなのに何故かとても懐かしくてそれでいて頼もしくて、口の中に入れて味わいたいような、逆に口の中に入れないでずっと触れずに大切にしたいような気もして、すごく楽しくなったり悲しくなったりします。
 そんなことを考えていると、ベリーランドさまが部屋に入ってくるのが見えました。ベリーランドさまは、右手に持ったお盆の上にいくつものグラスを載せ、それから左の腕でシャトーワインのボトルを抱え込み、更に左手にはもうひとつ、緑色をした瓶を持って入ってきました。
「そっちは?」
 縁側で簾を下ろしながらハナカズラさまが尋ねました。ベリーランドさまが持っている緑の瓶のことを訊いているようです。
「純米酒。魚介とワインは合わんからなあ……、絶望的に」
 言いながら歩み進んできたベリーランドさまは縁まで出ると、そのまま足許にお盆や瓶を並べます。
「簾は下ろさんでも」
「うん~……、しかし畳が焼けるから」
「別に構わん、焼けても」
 下ろしかけた簾をくるくると巻き上げるハナカズラさまを見やると、ベリーランドさまはまた部屋から出ていってしまい、そうしてすぐに戻ってきました。
「ワインには、こっち」
 帰ってきたベリーランドさまが置いたお皿には、アスパラガスをお肉で巻いて、トマトのにおいのするソースのかかったお料理が盛られています。
「いつのまにつくっておった?」
 ハナカズラさまがそのお皿を覗き込み、それからベリーランドさまの顔を覗き込みます。
「さあなぁ……」
 答えにならない答えを他人事のように返しただけで、ベリーランドさまはゆっくりとした動作で縁側に腰を下ろしました。


 まだお昼になりきらない時間の風は、ずっと絶え間無く吹きつづけて、通り過ぎていくたびに、こまかな飛沫のようになって、私の顔のあたりをすうっと撫でていきます。
 ベリーランドさまとハナカズラさまと私は、蓮の池を眺めながら、何を喋るとでもなしにそこにいました。ベテル宮で一緒に暮らす他の妖精たちは皆出払っていて、3人で縁側に腰を下ろしていました。目の前には蓮の葉に盛られたお刺身と純米酒、アスパラガスのお肉巻とシャトーワインが並んでいて、ときどきそれを口にしながら、天使さまはぽつりぽつりと話をしていました。
「刺身食べたあとでワイン飲むなよ。生臭いから」
 ベリーランドさまが、透明なガラスの杯に純米酒を注ぎながら言いました。
「でも、白ワインじゃよ。赤は肉に合うというが、白は白身魚には合うといわれておらぬか?」
 そう言ったハナカズラさまのグラスに、今度はシャトーワインを注ぎながら、ベリーランドさまは頭を横に振りました。
「違うな、それは。根本的に間違うてる。ワインの原産地の人間やったらわかってると思うけど、ワインには、かなりの種類の有機酸塩が含まれてる。米の酒とは比べモンにならん。その有機酸塩の中には、魚介の脂分と相性が悪いモンがあって、魚介と一緒にワイン飲んだら生臭さが倍増するわけ。赤でも白でも変わらん」
「また何かで読みかじったのじゃな。そんな理屈言うておると、シーヴァスがお泣きになるぞ。せっかくくださったのに」
「やからこうしてワインに合うものをちゃんと用意してる。そんで、刺身には純米酒。まあ、飲め。せっかくシーヴァスがくれたんやから」
 うん、とうなずいて、ハナカズラさまはワインをあおりました。
「美味い」
 そうして、ベリーランドさまは、私の前に置かれている杯にもワインをゆっくりと注ぎました。
「シェリーも」
「えっ、いえ、私、酔っちゃいますから」
「しかし今度シーヴァスに、味はどうやったか、訊かれたらどうするよ」
 そう言われて、私は一口だけワインを舐めてみることにしました。
「ベリーランドさまは、飲まないんですか、ワイン」
 さっきから純米酒の方ばかり飲んでいるベリーランドさまに、私は尋ねました。
「刺身食べてからにする。あとで」
 のんびりとそう言いながら、蓮葉盛りのお刺身をベリーランドさまは口に入れました。
「まだ朝のうちからこんな酒盛りをして」
 不意にハナカズラさまがおかしそうにつぶやいて、笑いながらまたワインを一口飲みました。
「ダメ天使か?」
 蓮を見ながらベリーランドさまが眼を細め、口の端でかすかに笑いながら言います。
「やもしれぬな」
「おおいに結構。昼になったら蓮は閉じる。蓮見の酒は午前中にしか飲めん」
「何とでも理由がつくものじゃな」
「理由なんぞがあって結果があるとは限らん。理由は、場合に拠ってはつくるモンやな」
 ハナカズラさまは、欠伸をひとつすると、両脚を投げ出して座り直し、ベリーランドさまが眺めている蓮の方を見やりました。
「ダメ天使でもよいやもしれぬな」
「何や、今更」
 抑揚のない声でベリーランドさまが尋ねると、ハナカズラさまは眠そうな眼をしてまたワインを飲みました。
「いや何というか、昼間に非生産的なことをするのは気持ちがよい。何か、身共……、ああ、いや……」
「何?」
「いや、何でも」
「あ、そう」
「もっと訊け、そこで引き下がるな、ベリー」
「興味ないし」
 ハナカズラさまが左手で、パシンとベリーランドさまの肩を叩きました。
「何かのう、身共のう、インフォスで昼間買い物したりするとき、『幸せ~』とか、思うぞや」
「インフォスどうにかせんと、ぐったぐたのげちょげちょになんねやぞ。それ、自分らがどうにかせなあかんのに、何が幸せやねん」
 またハナカズラさまがベリーランドさまをパシンと叩きました。
「お店の方も~、お客の方も~、親子連れの方も~、いろいろで~、いろんな方がおって、その中で身共、ひとりで買い物したりして、全然関係無うて、目的も無うて、何に憧れるとか、何がしたいとか、そういうのも無うて、そのときはただ歩いていくだけで、それで晴れておると気持ちが良いし、雨が降っておるとそれも良いし、そういうのが気持ち良いというか」
「あそう」
「うん」
 またハナカズラさまはワインを飲みました。


 光は溢れていって、決して色褪せることはありません。
 きらきらと降るのは、誰かと同じ顔をした、懐かしい雨でした。
 手足を伸ばすとグンと気持ち良く伸びて、そんな私の足跡は、くるくると軽く円を描くようにして、あらゆるものの間を巡っていくのです。
 蓮の花に埋もれた道が見えてきて、遠くに人影が見えました。白い髪をした誰かと、黒い髪をした誰かが仲良く話をしているのを見て、私はそこに帰ろうと思いました。蓮も逃げないし、白い髪のひとも黒い髪のひとも逃げません。私は早くそこに帰ろうと思いました。
 蓮の上を飛んでいくとき、その葉っぱのひとつひとつに、見知らぬ影が載っているのが見えて、私は少しだけ驚いて、でも、その葉っぱの上のひとたちが皆眼を閉じて瞑想でもしているように足を組んで、静かに静かにしているのを見て、音を立てないように飛んでいこうと思いました。
 ――そんな景色を見たような気がして、ふと、私は縁側で眼を覚ましました。頭の中がぼんやりとして、眠くて眠くて仕方がありませんでした。うつらうつらとしながら、そのまま身体を丸めて横になっていました。まるで遠くから聞こえてくるような、そんな天使さまたちのお話を、頭の片隅で聴きました。


「眠たいか」
「う~ん」
「寝たら。シェリーも寝てるみたいやし」
「う~ん……」
「おやすみ」
「うん。……あのな、ベリー」
「……何」
「眠たいときにな、はっと眼が覚めると、どきっとするよな」
「……さあなぁ」
「身共な……、夜……とか、寝かけておって、眼が覚めたとき……、このまままた寝入ったら……、もう、今日が終わりかなと思うて……、どきっとすることが……ある……。また次の日も起きるのに……」
「……眠たいんやろ。もう寝れ」
「うん……。でもな、明日があるのにどきっとするくらいじゃから……、明日があるかどうかわからぬときじゃったら、もっと眠るのが怖いじゃろうなと……、何となく、わかった……」
「……はいはい」
「うん」


 会話が止んだあと、しばらくして、私の頭がだんだん冴えてきました。薄目を開けて見てみると、ハナカズラさまはベリーランドさまの傍で丸くなって眠っていました。ベリーランドさまはその横で、黙ってお酒を飲んでいました。私は何故か起き上がる気持ちにならず、そのまま眠っているふりを続けていました。
 やおらベリーランドさまはガラスの杯を板の間の上に置くと、そのまま静かに身じろぎもせずに黙って座っていました。その上を風が吹いていって、ベリーランドさまの白い髪を揺らしました。ベリーランドさまのことを、綺麗だなと思ったのは、このときが初めてでした。
 ずっと静かに座っていたベリーランドさまがゆっくりと身体の向きを変えたかと思うと、丸くなっているハナカズラさまを覗き込むようにしてじっと眺めています。そうして、ハナカズラさまの頭を少しつついてから何かを確かめるように顔を近づけたあと立ち上がり、濡れ縁から部屋の中へ入って行きます。そして部屋の中にある戸棚から小さなグラスをたくさん取り出して、それを床の上にいくつも並べたのでした。
 そしてまた濡れ縁に戻ってきたベリーランドさまは、そこで純米酒の瓶を持ち上げて部屋の方へ立ち返り、さっき並べたグラスにそれを少しずつ注いでいっているようでした。
 それは、まるで何かの儀式のように見えました。
 並べたグラスはベリーランドさまを取り囲むようにしてそこにあり、その中心の辺りに腰を下ろしたベリーランドさまは、また身じろぎもしないでグラスの群れをじっとみつめているのです。そうして少しの時間が流れました。
 ベリーランドさまはグラスの中のひとつを取り、それを少し高く掲げ、まるで目の前に見えない相手がいるかのように、そうしてその相手と乾杯をするかのようにして掲げ、それをゆっくりと飲み干しました。

 そうして、すべてのグラスがカラになると、ベリーランドさまは部屋から出ていきました。

「ベリーランドさま、どこかへ行くんですか」
 私が声をかけると、ベリーランドさまは胸元のボタンをかけていた手を一瞬止めて振り返りました。
「……起きとったんか」
 ボタンを留め終えたベリーランドさまは、また顔を元に戻すと、鏡の方へ向き直り、手櫛で髪を梳いて言いました。
 私はベリーランドさまの部屋の入口辺りの空中で静止したまま、ベリーランドさまを見ていました。そうして尋ねました。
「ワインの中に、何か入れたんですか」
 ベリーランドさまは、白い外套を纏いながら小さく笑いました。
「そりゃまた何で」
「ハナカズラさまは普段からお酒には弱いけど、あんなにすぐに眠ってしまったのは初めてです。私も、ワイン一口舐めただけなのに眠かったし……」
 黙ったまま、ベリーランドさまは鏡を見ながら外套を整えていました。
「何より、ベリーランドさまは、ワイン、飲まなかったじゃないですか」
「シェリー」
 私の言葉を遮るようにして、ベリーランドさまが私を呼びました。
「外套、皺になってないかね」
 静かな眼でベリーランドさまが私を見ましたが、私はそれには答えませんでした。
 ふっとベリーランドさまは声なく笑うと、机の上の木箱からレイピアを取り出し、それを腰の革のベルトの辺りに差し込みました。
「どこへ行くんですか」
「インフォス」
「さっき行ってきたじゃないですか」
 ベリーランドさまはひとつ息をついて私を見ました。
「ラスエルがカノーアに現れた。そこに行く。ナーサディアと」
「その報告は知ってます。でも、今日行くなんて、ベリーランドさま、言ってなかったじゃないですか」
「今日行く。おまえはここに残っといて」
「どうしてわざわざハナカズラさまを眠らせて行くんですか」
 窓から出て行こうとしていたベリーランドさまの前方にまわって、私は慌てて尋ねました。
「……さあ。何でかね」
 どこか遠くを見るようにして眼を細めたベリーランドさまは、他人事のようにそう答えました。
「ベリーランドさま」
「怒るな……」
「怒ってません。ただ、はぐらかさないで答えてください」
「はぐらかしてなんかないわ」
 細めたままの眼で、少しだけ口許を緩ませてベリーランドさまは答えました。
「夜までには多分帰る。遅かったら、晩飯先に済ませといてええ。ハナにもそう言うといて」
「ベリーランドさま」
 私が声を荒げて追いかけると、ベリーランドさまは窓枠に片足をかけた姿勢でこちらを振り返り、笑顔で私に言いました。
「あれが寝てる間に済ましてくる」
 言うと、ベリーランドさまはすうっと飛んでいってしまいました。


 私はベリーランドさまが行ってしまったあと、蓮の池の上をぼんやり飛んでいました。縁側の方を振り返ってみると、まだハナカズラさまが目覚める気配はなく、静かに静かに太陽だけが、青空の一番高いところに上っていっていて、そうして蓮の花も黙って揺れているだけでした。
 私は思い出していました。
 カノーアに翼のある異形の者がいると聞いて出かけたベリーランドさまの帰りを、ハナカズラさまは夜中になっても待っていました。
 そのときのことを、ベリーランドさまはあとで言いました。
「あれは、家族においていかれるのんが多分怖いんやろ」
 このとき、ベリーランドさまは、「おいていかれる」というのをどういう意味で言ったのかわかりませんでしたが、今思うと、単に「家においていかれる」ということではなく、「この世においていかれる」という意味で言ったのではないかという気がしてなりません。
 私は蓮の葉の上をじっと凝視していました。
 その上に、誰かの姿が見えるのではないかと何故か思ったのです。
 でもそこには、誰の姿もありませんでした。
 けれど、ベリーランドさまにおいていかれるのを恐れるハナカズラさまの身体が、その上に横たわっているように思えました。
 それから、ふと思いました。
 じっとベリーランドさまの帰りを待つハナカズラさまの姿は、ベリーランドさまの心をからめとり、まるで蓮の茎が私の行く先を阻むように、通せん坊してしまうのではないかと。
 だからハナカズラさまが眠っている間は、ベリーランドさまも戦いに専念できるのではないかと。
 蓮の花が、さっきより閉じていました。
 お昼になると閉じていってしまう蓮は、また明日にも開きます。
 でも、昨日と同じ花が今日開き、そうしてまた明日も開くかどうかはわからないのです。
 本当は違う花が開いているのに、毎朝開いているように見えているだけなのかもしれないのです。
 みんな、どこへ行ってしまうのだろう。そう思うと、途端に何が悲しくて、何が安心できるのかわからなくなって、私は途方に暮れました。
 でも、きっとどこにでも行こうと思えば行けるのだろう。
 そんなふうに思うと、また風が吹いていきました。

・ 卵の宮/終 ・



 お読みくださいまして、ありがとうございました。今回のは、平生よりもいっそう書き方がつたないような気がします。FD創作というよりも、完全に番外創作ですね。

 要するに、このサイトの名前「はちすのうてな(蓮台)」の説明も兼ねた創作というか、えー、私は花の中では蓮が一番好きです(だから何だという(笑))。