9月の末、時折冷たい風が吹く夕暮れ時、エクレシア教国内ラングーサ地方のとある町で、アイリーンはフクロウのウェスタを肩に乗せ、大通りを歩いていた。
 すれ違いざまに、若い母親に手をひかれた5歳くらいの女の子が、アイリーンを見上げてからびくりと身体を震わせ、あわてたように母親のうしろに隠れて通りすぎる。
(別にウェスタは、あなたをつっついたりとかしないけどねー……)
 アイリーンは心の中でつぶやきながら、無表情を装って歩きつづける。
 左手に、瀟洒なレンガ造りのレストランが見えてきた。少しだけ歩みを緩め、その店のそばを小さな歩幅で通る。
 今日はここで食事はしないけれど、明後日の夜に改めて来るのだ。
 アイリーンは口をもぞもぞとうごめかすと、両手で抱えた紙袋をぎゅっと抱きなおした。紙袋には、買ったばかりの新しい服が入っている。その服を自分が着た姿を想像しながら、アクセサリーをつけるべきかどうかのシミュレーションに入る。まあそんな別にめかしこんで行くほどのことではないし、だって一緒に行く相手は女のひとなんだし、それにそもそも彼女がそんなおめかししてなかったら、自分ひとりだけ着飾って行っても馬鹿みたいで恥ずかしいし……
 思考の海に船出してしまい、沖合まで出ようとしていたアイリーンは、前方からやってきた少年が自分に向かって指を差しているのに気づき、我に返る。
「フクロウだ。フクロウが散歩してる!」
 10歳くらいの少年の緑の眼はどうやらウェスタを捉えており、濡れたようにキラキラと輝いている。アイリーンは、何この子と一瞬思ったが、次第に何とはなしに気分がよくなり、少年に向かって親指をぐっと立ててやりたい気持ちを堪えながら、再び無表情を装ってすれ違おうとした。そのとき、少年が弾んだ声でまた言った。
「フクロウだ。モーキン類だ。森の知恵者だ!」
 アイリーンの口端が思わず緩んだ。うふふふ、そうです少年、フクロウです、モーキン類なのです。君はフクロウの魅力がわかる子のようですね。ついでに言うと、ウェスタはフクロウの中でも特に頭がいい子なんだから!
 アイリーンはスキップ一歩手前の跳ね気味の足取りで、宿屋までの道をたどっていった。

 翌朝、アイリーンが宿からほど近い森へ盗賊退治に出かけるために自室で荷物をまとめていると、窓から妖精のレーパスが飛び込んできた。レーパスの姿を見て、アイリーンは咄嗟に「珍しいな」と思った。普段彼女のもとに「同行」しにやってくるのは、無邪気な男の子妖精のリンクスであることが多いからだ。
「アイリーンさま、あの、ちょっと、ちょっとだけお待ち願えますか。今、天使さまがお見えになりますので」
 レーパスは、平生冷静な彼女にしては珍しく、肩を上下させ大息をついてそう言う。
「なに、レーパス来たのにハナカズラも来るの? 別にいいよ、今日のはそんな総出でかかるような相手でもないでしょ」
 アイリーンは自分を守護する女天使の顔を思い浮かべながら言った。天使の話では、今日討伐する予定の盗賊は2人組。そのうち多少腕っぷしが強いのは片割れだけで、しかも魔法のひとつも使えない筋肉馬鹿らしいので、体力を回復してくれる妖精の同行だけで十分だと思った。
「いえ、それが、今日向かっていただきます森には、石化魔法を使うアンデッド系のモンスターが多くひそんでいることがわかりまして。わたしの回復魔法だけでは、お助けしきれないかもしれません」
「え、そうなんだ。しかもアンデッドかぁ……」
 人間に近い姿をしているモンスターは苦手だなぁ……とつぶやいてから、アイリーンは唇をとがらせた。
「またそういうこと当日になってから気づいたのね? いっつも詰めが甘いんだから、ハナカズラって」
 もっと要領よくやってくれないとこっちの身がもたないって言ってやらなくちゃ、と鼻息荒くつぶやきながら空を見上げたアイリーンの背中に、レーパスがおずおずと声をかけた。
「それがその……、今日は、ハナカズラさまはお越しになれないんです、ひどい高熱が出てらして……。代わりに、もうおひとりの守護天使さまが来られます……」
「えーそうなの、高熱が、って、……え?」
 アイリーンは驚いてふり返った。
「代わり、って言った? ハナカズラとは別の天使が来るの?」
「はい。ハナカズラさまの叔父ぎみにあたられる方です」
「お、おじぎみ……。男天使なの? っていうか、おじさんっ!?」
 眼を飛び出るほど大きく見開くと、アイリーンは口をぱくぱくさせた。
「そ、そういや、ハナカズラ言ってたわ、ごはんつくってくれる叔父さんがいるって。その叔父さん?」
「はい、ベリーランドさまとおっしゃいます。その……、ハナカズラさまですが、アイリーンさまには大変申し訳ないと、ええ、ご自分の健康管理の不行き届きでご迷惑をおかけすることを、アイリーンさまには重々、くれぐれも、本当に本当に恐縮だとおっしゃってまして」
「そ、それはいいのよ、それはいいの、いや、よいとか悪いとかじゃなくて、だって熱あるんでしょ、しょうがないじゃない、そうじゃなくて、え、なに、これから来るの、その『おじさん』」
「はあ、来ます」
「『来ます』じゃなくって、もう~~~~~~、ねえ、何しゃべったらいいのよ、そんな年代の男のひとと、一日ずっと一緒にどうしろって」
 軽くパニックになりかけているアイリーンの心が伝染したのか、ウェスタが部屋中をせわしなく飛び回っていた。
 アイリーンの頭の中には既に、まだ見ぬ「おじさん天使」の像が描かれている。ハナカズラと同じ真っ黒い髪で、しかも男だからゴワゴワと剛毛気味で、その髪と似た髭が口のまわりにもっさり生えていて、口には(何故か)楊枝をくわえていて……。いやいや、そうではなくて、天使なのだから「おじさん」でも見目麗しいのかもしれない。あのハナカズラだって随分うすらぼんやりした性情ではあるが、見た目は決して悪くない。わかりやすい女っぽさはてんでなく、化粧も苦手らしく眉毛などもゲジゲジ気味だが、それでも不美人には見えないので、やはりつくり自体が悪くはないのだろうとアイリーンは思う。そのハナカズラの叔父なのだ、ひょっとしたらものすごい「綺麗なおじさん」がやってくるかもしれない。そう、ロマンスグレーとかいうやつだ。シルクのシャツや赤い薔薇とか似合っちゃって、ピカピカの靴を履いて、いつも上等の食器で優雅に紅茶とか飲んでいて……。
 アイリーンは、自分でイメージすることが可能な「おじさん像」が非常に偏っていることに気づいていなかった。そして、その偏っているなりの「おじさん像」は、どれもちょっと嫌だと思った。楊枝をくわえたワイルドなおじさんとは何を話していいかわからないし、上品に紅茶を飲むロマンスグレーとも、半時間一緒にいただけで気疲れしてしまいそうだからだ。
 ――怖い! やだ! おじいちゃん、お姉ちゃん、それからフェインでもいいや、お願い助けて!
 無意識のうちにアイリーンはぎゅっと眼をつぶり、軽く歯を食いしめて祈っていた。そしてついでに「ハナカズラの馬鹿!」とつけ加えた。
 そんなアイリーンを、レーパスは眉根を下げてみつめている。彼女はアイリーンにかける言葉を思いつけずに、ぼんやり突っ立っていた。何しろ彼女自身も、日頃よくアイリーンに同行しているリンクスの代理でやってきたようなものだったからだ。
(リンクスなら、こんなとき何を言うかしら……)
 レーパスは呼吸をするのもおろそかになるほど考え込んでいる。アイリーンはアイリーンで、亡き祖父や見たこともない神に祈りつづける。もはや彼女自身にも、一体自分が何を祈っているのかわからなくなりかけていた。
「さて、準備はできたかな。ハンカチちり紙、忘れ物ないか、もいっかい点検する?」
「ハ、ハンカチとかそれどころじゃないのよ。だっておじさん、おじさんが来ちゃう!」
 強く眼を閉じて祈りながら思わずそう返事したアイリーンは、ぎょっとして顔を跳ねあげた。
「おや、速く来たつもりやが、お待たせしてしもたかな」
 いつからそこにいたのだろう、アイリーンの眼の前で他人事のような口ぶりでそう言った人物は、白い髪の毛に紅い眼をした若い男で、長身をそびやかし彼女を見下ろしている。背中には白くて大きな羽根。と、いうことは――
「お……、お……」
「お?」
 池の鯉みたいな口の形で固まってしまったアイリーンを、男が気遣わしげに覗きこむ。髪の毛は白いけど、顔見たら思っていたよりずっとずっと若いじゃないの、とアイリーンは頭の隅で思った。もう自分でも何を言ってよいのやらわからない。
「お、お世話に、なってますっ」
 思わず口から出た言葉に、「私はハナカズラの保護者かっ」と、彼女は心の中で自分に突っ込んだが、その突っ込みも適切かどうか、もはやまったくわからなかった。
 男は一瞬紅い眼を大きく見開いたが、すぐに真顔に戻り、
「や、どうも。ご丁寧に。こちらこそ」
 と、流れるような動きで頭を下げた。その様子があまりにも自然で物腰やわらかであったので、アイリーンは自分の頭の血流が普通状態に近づいてくるのを感じた。さっきは自分の前にそびえているくらいに大きく見えた天使の身体も、よく見ればフェインより一回り細い。知らずのうちに激しくなっていた心臓の音も、少しずつ鎮まってきたようだった。
「えと、何だっけ……、名前……。あ、私、アイリーン。で……」
「あ、すまんね、名乗ってなかったか。べ」
「ああっ」
 急に、それまで呆けたようにじっとしていたレーパスが大声を上げ、ブンブン羽音をさせてふたりの間に割って入ってきた。
「すっ、すみませんっ、アイリーンさま、こちら、ベリーランドさまで、ベリーランドさま、こちらっ、アイリーンさまですっ」
「あぁ、聞いた……」
「そそ、そしてわたしは、レーパスでございますっ」
「うん、知ってる……。レーパス、そんなに緊張せんでくれ。おっちゃんと組むのは初めてで勝手が違うとは思うが、いつものとおりにしてくれてええから」
「わわ、わたしはいつもどおりに天使さまにお仕えしておりますのですがっ」
 いや大分テンパっている、とアイリーンは心の中だけで言った。他人のふためき具合は冷静に見られるが、自分もああなっていたんだろうかと思うと途端に恥ずかしくて、穴を掘ってもぐりこんでしまいたくなる。
「ベリーランド。ベリーランドね……。うん、わかった。おぼえたわ。そうだ、ハナカズラは大丈夫? 私、知らなかったんだけど、熱があるっていうことは、天使も身体の具合が悪くなったりするのね?」
 ベリーランドと名乗った(紹介された)男天使から眼をそらしながら、アイリーンはそう尋ねた。ベリーランドはアイリーンのその様子を知ってか知らずか、のんびりした口調でこたえた。
「なかなか、年中無休といえるくらい頑丈にはできてないみたいでねえ。すまんね、迷惑かけて」
「ふ、ふうん。じゃあ、突然おやすみすることもあるのね。看板に『不定休』って書いてあるお店みたい」
「うまいこと言うなあ。まあしかし、なるべく休まんで済むよう、努力はします」
「あ……、そう。でも『不定休』のお店って、普段めったにやすまないのに、肝心なときにおやすみだったりするのよね。久しぶりに寄ってみた日とか、急に要るものができたときなんかに限って」
「うん?」
 不意にベリーランドが短く声をあげ、アイリーンの顔をのぞきこんだ。アイリーンは思わず反射的にぐっと身をそらし、
「な、何よ」
 上眼でにらむように彼を見たが、声がのどに貼りついてかすれていた。
「いや、ひょっとして今日、おっちゃん来たらあかんかったかな。何ぞ姪と込み入った話でもあった?」
「そ、そ、そんなの、別に……」
 あったって言わないし、もっと離れて訊けばいいと思うし、何より「おじさん」っていうからもっと枯れた感じのひとかと思っていたら、想像よりずっと若いし、なんか軽いんだか丁寧なんだかよくわからないし、熊みたいなオッサンじゃなかったのがよかったんだか悪かったんだかもわかんないし!
 そんなアイリーンの心の声を知らないベリーランドは、
「そう? そやったらええけど」
 と、しれっと言ってのけ、それからまだ彼女をじっと見ていた。
「しかし格好いいねえ……」
 ベリーランドはアイリーンの肩の辺りに視点を固定している。
「リンクスから聞いとったが、想像の上をいく綺麗さやな。本物に会えて、こんなに嬉しいことはない。友達になろう。おっちゃんと、是非友達に……」
「え? えぇえ?」
 ベリーランドが急にとつとつと、しかし妙に熱っぽく語りかけてきたので、アイリーンは先刻以上の心臓の動悸に眼が回りそうになった。
「そ、そんな、そもそも友達とかそういうレベルの話じゃないと思うけど……。し、し、信頼関係を築くべきじゃない? いざってときに頼りになるのは、信頼、とか、絆、でしょ……」
 アイリーンがもごもご言うと、ベリーランドはぱっと明るい顔で彼女を見て、
「ええの? ありがと、マスタ~」
 と歌うように言い、彼女の肩……の上でじっと成り行きを見守っていたウェスタに手を伸ばした。ウェスタは一瞬びくっと身体を震わせたが、すぐに首をひねりだすようにうごめかし、ベリーランドの手を慎重に観察し始めた。
「そ、そっち!? ウェスタのこと!?」
「ウェスタって言うんや、賢そ~~~~なお名前~~~~~。素敵やねえ、フクロウ。このクチバシの角度、羽根の渋い光沢、これ全身、自然が成した芸術品よぉ~~~~~」
 これに加えて「宝玉のような眼」とか「土と木の折り重なった奥ゆかしい体臭」とか、よくわからない麗句を並べたてられ、最初はじっと天使を観察していたウェスタも、次第に気分がよくなってきたらしい。アイリーンが気づいたときには、いつのまにかウェスタはベリーランドの肩の上に移動していて、彼の白い髪をクチバシで突っつくという、親愛のしるしかはたまたいじめなのか、よくわからない行動をとっていた。
「痛いですぅ~、ウェスタさぁ~ん」
 大の男がフロリンダみたいな口調で嬉しそうな声を出しているので、どうやら天使はウェスタの行動を「いじめ」とはとっていないらしい。ウェスタも天使の反応がおもしろいのか、彼の肩から離れようとしない。
「いやぁ~、素敵、猛禽類。素敵やねえ、森の賢者」
(言ってることは、こないだ道で会った男の子と一緒だわ……!)
 アイリーンの頭に、「ベリーランドの中身は10歳男児並」とインプットされた瞬間だった。

「つ……、つ、か、れ、たぁ……」
 森の奥での盗賊退治を終え、大木の根元に腰を下ろしたアイリーンは、何度も大きなため息をついていた。幸いここまでやってくるのに、当初懸念されていたアンデッド系のモンスターとの遭遇はなかった。しかし帰りはどうかわからないので、できるだけ体力気力ともに温存しておきたいところだったが、
「盗賊のおじさん退治するだけで、なんでこんなに疲れちゃってるんだろう……」
 いつもはこんなことないのになあと首をかしげ、アイリーンは持参してきた水を飲む。妙にのども渇くし、肩に力が入ってしまっていて、身体中のいろんなところが痛い。
(だけど戦闘自体はむしろ、いつもより楽にできた感じするのよね。だいたいハナカズラは回復よりも、なんかよくわかんない魔法ばっかり優先的にかけてきて、それで私うわーってなって必殺技バンバン出ちゃうから、まあ長引かなくていいんだけど、終わったあと体力がほとんどなかったりするし……。でも今日は、あの「うわーっ」よりも、タイミングよく回復かけてもらってる感じしたな。力がじわじわ湧いてくるみたいな)
 アイリーンは、木から少し離れたところでウェスタを撫でているベリーランドをちらりと見やった。彼女の視線にめざとく気づき、ベリーランドはにっこり笑い返してくる。
(猛禽類を撫でてご満悦なんだね……)
 このフクロウおやじ、とアイリーンは口の中でつぶやいた。つぶやきながら、ふと自分の頭に手を当て、髪の毛がぼさぼさなのに気づくと、慌てて手ぐしで整える。ハナカズラと一緒のときには気にしたことさえなかったが、乱れた頭をベリーランドに見られていると思うと少々焦ってしまった。
(なのにこのひとずるくない? 自分は全然髪型崩れてないなんてさ!)
 涼しい顔でウェスタと戯れているベリーランドを、アイリーンは複雑な思いで眺めた。そして、この天使がもうちょっと熊みたいで、もうちょっと枯れた感じで、もうちょっと加齢臭がしていた方がよかったかもしれないなどとも思った。
(だってさ、このひとよく見たら、めちゃくちゃ綺麗なんだもん。天使なんだから、当たり前なのかもしれないけど)
 だけど、ベリーランドがもうちょっと庶民的な風体をしてくれていれば、自分はこれほど緊張せずに済んだだろうにとアイリーンは思った。そう、自分は緊張しているのだと、彼女ははっきりと自覚した。そして、自分はこれほどまでに男というものに対する免疫がなかったのかと、改めて思い知ったのだった。
(フェインに対しては、本当の気持ちを悟られないように自然にふるまうのに精いっぱいで、それで気を張ってたところはあったけど……。でも、フェイン以外の綺麗な男のひと相手には自分がこんなんなっちゃうなんて、全然知らなかったなあ……)
 アイリーンはため息をつき、ふと、傍らに座りこんでいるレーパスを見た。レーパスは、今までアイリーンが見たことのないような張り詰めた表情をして、小さな額にうっすら汗を浮かべている。
「レーパス、だいじょうぶ?」
 水をすすめながらアイリーンが尋ねると、レーパスは眼ざめたように顔を上げた。
「え、あ、だいじょうぶです。いえ、何がです?」
「なんか、疲れてるみたいだから……」
 ひとのことは言えないけど、とアイリーンは苦笑した。
「ベリーランドと一緒はやりにくい? ハナカズラとちがう?」
「あ、その、それは、まあ、おふたりともまったく同じというわけではもちろんありませんが。やりにくいとかやりやすいとか、そういうことではなく、わたしの順応能力が少し足りないのだと思います」
 レーパスは水を固辞しながら生真面目にパキパキとした口調でそう答えるが、アイリーンにはレーパスが自分と同じくらい緊張しているのが手に取るようにわかった。
(レーパスって絶対男のひとと遊んだりしてないわ。真面目に真面目に生きてきて、一所懸命仕事してきた子なのよ。だから上司がいきなり女から男に変わっちゃって緊張してるのね、きっとそう。たとえ相手があんな中身10歳児のフクロウおやじであっても)
 と、心の中でうなずきながらつぶやいたアイリーンは、そのフクロウおやじがいつのまにか眼の前にいなくなっていることに気づき、「あれっ?」と声を上げて辺りを見回した。その直後、
「ほい、配給~」
 すっと白くて長い指が鼻先に現れ、アイリーンは思わず「ひっ」と細い声を出してのけぞった。
「おや? 甘いモン嫌い?」
 真顔で言ったベリーランドの手から、セロファンにくるまれたキャンディが転げ落ちる。それをウェスタが反射的に追いかけたので、
「あー、ウェスタさんウェスタさん、落ちたんを食うこたない。うちの姪やないんやから」
 と、ベリーランドがとんでもないことを口走りながら制止し、落ちたキャンディを手早く拾った。
「落ちたもの食べるんだ、ハナカズラって……」
 アイリーンは空中を見ながら、苦笑いを浮かべてつぶやいた。
「そういえばこのあいだは、とっくに期限の切れたお菓子、もったいないからってむしゃむしゃ食べてたな……」
「ああ、胃はアホみたいに丈夫らしゅうてね」
「だからって、何でも食べちゃうから熱出たんじゃないの?」
「どぉぉかなあ~。そぉかなあ~?」
 さして深く考えていないような声音でそう言いながら、ベリーランドはポケットから新しいキャンディを出してアイリーンに渡してきた。
「キャンディおやじ……」
 ぼそりとアイリーンがつぶやくと、
「何か言うた?」
 ベリーランドが眼を細めて返事する。こちらを見ながら芯から笑んでいるようでいて、そのくせ遠くを見ているような不思議な眼つきだ。10歳児の眼じゃないなとアイリーンは思ったが、ならば一体どういう眼だというのか、妥当な表現がみつからなかった。
「ううん、何でもない。……どうもありがと」
「はい」
 今度は短く返事すると、ベリーランドは音もなく歩きだし、少し離れたところへ行ってしまった。
(ちょうどいいや、おなかもちょっと空いてるし、今のうちに食べちゃお……)
 ベリーランドに見られながら食べる気はしなかったので、これ幸いとアイリーンはキャンディの包みを解き、中身を口に放り込んだ。
(一体何味よ……。って、まさかのミルク味)
 口の中で転がしながら、アイリーンはにたにたと笑った。
(ここは、ベリー系がくるべきところだと思うんだけどな! ラズベリーとかブルーベリーとか、いっぱいあるのにさ)
 どうやら彼女は自分が思っている以上に、にやついていたらしい。
「アイリーンさま……」
 レーパスが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「だいじょうぶですか。白眼……で、笑ってらっしゃいますが……」
 アイリーンはあわてて顔を元に戻した。

 森からの帰り、町の大通りを歩きながら、アイリーンはここ数日のうちに見慣れてしまった看板をみつけ、ふう、とひとつ息をつくと意を決して言った。
「ちょっと用事あるから、もう送らなくてもいいよ。ベリーランドもレーパスも、先に帰って」
 あ、なんだか冷たい言い方だったかな、とアイリーンは即座に反省した。けれど元気が出ないものはどうしようもない。
「あ、そう。用事、手伝おうか」
 ベリーランドはあっさりとした調子で返した。
「いい。別にそんな人手がいることじゃないから」
「そぅお?」
 と、返事しながらベリーランドは足音もたてずに先へ行ってしまい、アイリーンが見ていた看板の許に着くと、傍らにそびえるレンガ造りの古めかしい建物を見上げて言った。
「あぁ、そうそうこのレストラン。よかったわあ、予約とれて」
 天使の言に、アイリーンは思わず飛び上がりそうになってしまった。確かにこの店には、翌日ハナカズラと一緒に食事をしようと予約を入れていたのだ。そもそもの発端は半月前、彼女が六王国連合内に滞在中のときのことだった。近隣にも評判が知れ渡っている人気店だったので、エクレシアのラングーサに行くことがあれば是非その店で食事をしてみたいとハナカズラに漏らしたところ、次の日にはもう「予約した」と天使が報告してきたので、うれしいのを通り越してあきれてしまったという経緯がある。
「予約って、な、なんで、なんでそんなこと知ってんの」
 ハナカズラの具合が悪いのなら、今日のうちにひっそりとキャンセルしようと思っていたアイリーンは、ふためく胸の辺りを手で押さえながら怒ったように尋ねた。
「何故ってそれはお嬢ちゃん、予約したんはおっちゃんですもの。ちょうど休日でね、姪に言われてパッと来てさっと予約。仕事速い上に運もいい。残り1テーブル空いてた」
 言いながら懐から渋皮色の手帳を出し、音もさせずにページをめくってベリーランドはうなずいた。
「間違いないよな。明日の10月1日、19時に2名、1階席テーブル。まあ、姪がこういう事態なんで、財布が変わったと思うてよろしくおつきあいください」
 また音もなく手帳を懐へ仕舞うと、ベリーランドは澄ました顔でアイリーンを覗き込む。
「おや? どうした、起きてる?」
 その声をよそに、死んだ魚のような眼をしてアイリーンは固まってしまっている。予約? ベリーランドが予約した? ハナカズラにしてはやることが速いと思ったら、こういうことだったわけ? こっそりキャンセルしようと考えたのが、馬鹿みたいじゃない?
 と、アイリーンはそこまで頭の中でひとりごとを言って、ふと我に返った。
「もしかして……、キャンセル、しないの……?」
 半笑いでベリーランドに問う。「よろしくおつきあいください」? そして予約は2名。ハナカズラは多分来られない。ということは、どういうこと?
 ベリーランドはアイリーンの表情を見ても、特に動じた気配も見せずに言った。
「キャンセル? する?」
 アイリーンはゼンマイ仕掛けの人形のように、首をカクカク上下に動かして答えた。
「うん。しようと思って……」
「へえー。何で?」
 ベリーランドは相変わらず顔色を変えずに短く問う。
「何でって……。だって、ハナカズラ、来られないんでしょ」
「あぁ。けど、おっちゃん大丈夫よ」
「そ、そうなんだ……。でも、あの、でもね……」
 知らずのうちに足をもじもじ動かしながら、アイリーンはしばらく言い淀んだ。ベリーランドは何も言わず、彼女の次の言葉を待っている。
「あの、誤解しないで聞いてほしいんだけど」
 意を決してアイリーンは口を開いた。どうもこの天使相手に取り繕ってもあまり意味がないような気がする。ここは胎のうちにあるものを、ある程度素直に出してしまった方が自分もすっきりすると彼女は思った。
「私、私ね、基本的に、ひとりで食べるより誰かと食べた方がおいしいって思うタイプじゃないのよ……」
 アイリーンの頭の中で、選ぶべきと思われる言葉とそうでない言葉がぐるぐるまわって近づき遠ざかり、どれも結局うまいことつかまえられなかった。
「だから、その、よっぽどよく知ってる相手とじゃないと、食事の約束なんてそもそもしないし……」
 ようやくそれだけ言って、アイリーンは下を向いた。別にベリーランドと食事をするのが嫌だと言いたいわけじゃない、相手がベリーランドでなくても無理なのだと言いたいだけだと、心の中で何度も言い訳するように念じた。
「う~ん……」
 頭の上から、ベリーランドのうめき声のようなものが聴こえた。彼は何事か思案しているらしかった。あきれられたかもしれないとアイリーンが思っていると、
「なるほどぉ……」
 と、ベリーランドは間延びした声で言った。そして、
「そやったら、キャンセルした方がええな。向いてないところでの食事は消化に悪い」
 あっさりそう言い、
「そんじゃ、予約したんおっちゃんやし、ちょっと行ってくる」
 まったく表情を変えずに店の入り口に向かって歩き出した。
「え……、ちょ、待っ……」
 自分の言いたいことが伝わったのかどうか、まったく見当がつかなかったアイリーンは、眼をぐるぐるさせてベリーランドの方に手を伸ばした。ベリーランドはそれに応えるように片手を挙げてちょっと振り、
「先帰っといてええよ、ちゃんとキャンセルしとくし。あぁ、レーパス、お嬢ちゃんを送り届けてくれよ。それからウェスタもおつかれー、バイバイ」
 最後はウェスタに向かって笑みながら大きく手を振ると、ベリーランドは建物に吸い込まれるようにすうっと入ってしまった。
「バイバイって……、か、帰れるわけないじゃない……」
 アイリーンは傍らに浮かぶレーパスに同意を求めるようにつぶやいた。
「ねえ、あれってさぁ……、どう思ってるのかなあ」
「あれ、とは?」
 レーパスが眉根を下げて訊き返した。
「ベリーランド。あれって怒ってると思う? 顔見てもわかんない、態度からもわかんない」
「はぁ。怒って……は、いらっしゃらないと思いますよ。いえ、何故ベリーランドさまがお怒りになるんです?」
「え、いや、だって、私、拒絶するみたいなこと言ったかなって」
「拒絶、ですか。そこまで強くおっしゃったようには、わたしには感じられませんでしたけど……」
「私もそんなガンと言ったつもりはないの、言いたくもないしさ……。でも、ハナカズラとならよくて、ベリーランドならダメです、って、なんか、そんなふうにもとれたかなってさ……」
 そんなふうにうだうだとアイリーンとレーパスが会話していると、店の扉がゆっくり開き、ひょいとベリーランドが顔だけ出してこちらを見た。
「あれ。もしかして、待っとってくれたん?」
 よく言う、と思ってアイリーンは苦虫を噛んだ。顔を出すなりこっちを見たということは、アイリーンたちが待っているのを見越していたからにちがいないのだ。だから帰れるわけないでしょ、とアイリーンは口の中でぶつぶつ言った。
 そんなアイリーンの様子を意に介したふうもなく、ベリーランドはするっと店の外に出てくると、紅い眼をきらきらさせて言った。
「すごいで。おっちゃん、自分の幸運っぷりが怖いくらい」
「何のことよ」
「やからすごいんやって」
「だから、何がすごいのかって!」
 思わずアイリーンは大きな声を出してしまい、通行人を気にしてあわてて口を押さえた。
「あぁ、ディナーのキャンセル頼んだら、ちょうどそこに、明日のディナーの予約をどうしてもしたいっちゅうお客さんが来てたのよ。しかも2名テーブル」
「え、じゃあ、そのひとにそのまま譲れたってわけ?」
「そう。何というタイミングやろうねえ」
「まあ、では、そのお客さんもお店の方も喜ばれたでしょう、よかったですね、ベリーランドさま」
 レーパスも、ほんのり顔を上気させて言った。
「ああ。アナタ天使のようですよ~、って感謝されたわ~。キャンセルしに行っただけやのに~」
 天使じゃん、オッサンだけど。と、アイリーンはつぶやいた。
「でも、そっか、それならよかったよね。そのお客さん、明日はこのお店でごはん食べられるのね」
 キャンセルしたのも無駄じゃなかったんだわと、アイリーンは自分に納得させるように胸の内で言った。
「うん、そのお客さん、元々はランチの方で予約しとったらしいんやが、お連れさんが昼には来られんなったっちゅうて、どうしても夜に変更したかったんやって。前日のキャンセルと新規予約なんて、なかなか難しいやろな~ってダメ元で店まで来てみたらしい」
 でね、とベリーランドはつづけた。
「うちがしとったディナー予約と、そのお客さんがしとったランチ予約、交換しただけやから、明日は12時にこの店に集合な」
「誰が?」
 アイリーンは即座に尋ねた。
「いや、おっちゃんと、お嬢ちゃんが」
「何で?」
「やからね、ランチの予約に変わったから」
 アイリーンは数秒地面を見据えて黙り込んだ。そして、さっき気をつけたにもかかわらず、さっきよりも大きな声を出してしまった。
「なんでそぉぉなるのよぉぉぉぉぉおおおおおお~……!」
「そうした方が、すんなり収まるから」
 ベリーランドは、しれっと答えた。
「たっ……、確かにそうよね、そりゃそうでしょうけどね、でも私さっき言ったじゃない」
 我知らず駄々っ子のような涙まじりの声を出してしまい、アイリーンは自分で自分に困ってしまった。おまけに二の句は継げなかった。さっき言ったこと=「ベリーランドとは食事できない」。いや、そう言いたいわけじゃなかったんだけど、結果的にそう言ったのと同じだったわけで、だからもう一度そんなこと言えやしないのよと思ったのだった。
 唇を噛んでいるアイリーンの肩の上で、ウェスタとレーパスが身を寄せ合うようにしてことのなりゆきを見守っている。
「まあ、別にええんやない」
 不意にベリーランドが口を開いた。
「実を言うとおっちゃんも、食事は誰かと一緒の方が絶対美味いなんて思わん性質よ。特に好きでもない相手としとうもない会話を無理にしながら食うくらいなら、ひとりで黙って味わう方が何倍も美味い」
 「ただ、よく考えてみると」とつけ加えて、ベリーランドは思案顔をした。
「今度いつ予約がとれるかわからんこの店で、せっかくとれた2人テーブル。この機会をみすみす逃したことを、のちのち悔いるときが来たとしたら、それはやりきれんことになりはせんかな、と」
 至極真面目な顔つきで述べるベリーランドに、アイリーンは思わず気押されそうになりながら尋ねた。
「悔いる、って。一体どういうときによ。そんな大袈裟なことになるわけないでしょ」
「なんでそう断言できる。おっちゃんなんぞ、こうなったからには流れに身を任せることに何らかの意味があるんやないかとすら思えてくるけどなあ」
「どういう意味よ……」
「予約のキャンセルしに行って、ちょうどキャンセル待ちのひとに出くわすなんていう確率はどれくらいやと思う? そういう稀なことに出くわしたときには、その流れに乗って最後まで全うしてみると、このめぐりあわせにはいったいどういう意味があったのかということが、最終的にわかるようなわからないような」
「ねえ、このひと、何言ってんの?」
 あきれ顔でアイリーンはレーパスに尋ねたが、レーパスは困ったように眉を下げただけだった。
「何が言いたいのかしらないけど、まわりくどいこといろいろ言われたって、どのみち私にはわかんないの。私にとってはディナーもランチも一緒なの。誰かと食事する、っていう点で、どっちもまったくちがわないの!」
「いや、ちがう」
 低い声でそう言うと、ベリーランドは一歩アイリーンに近づいた。大きな影が顔に落ちてきて、思わずアイリーンは眼を瞠って肩をすくめた。
「この店では、ローストビーフは昼にしか出ん。主に地元のひと向けの、昼限定メニューや。ディナーでは決して食えん。やから、意味がある」
 ベリーランドがそう言った途端、それまでおとなしくしていたウェスタが、急にばさばさと羽をはためかせ始めた。飛びたってしまうのではないかという勢いだったので、あわててアイリーンはウェスタを抱え込む。ウェスタは興奮した様子で、眼を爛々と輝かせていた。
「なに、何か気に障ることでも?」
 眼を丸くしているベリーランドに、アイリーンはため息をついて答えた。
「この子、ローストビーフが大好物なのよ。前にサンドイッチに入ってたのを、ちょっと食べさせてあげてから、すごく気に入っちゃって」
「ははあ、さすが猛禽類。さすがやなあ、ウェスタ」
 なにがさすがなのかわからないが、バタバタやっているウェスタを心底ほれぼれした眼つきで眺めているベリーランドを見ると、アイリーンは妙に胸がドキドキしてきてしまった。
(なに、あの眼! 無駄にやさしそうな眼!)
 中身10歳児のくせに! と、彼女が心の中で悪態をつくのと同時に、ベリーランドがぽんと彼女の肩に軽く手を置く。アイリーンは「ひっ」と小さく飛び上がったが、ベリーランドはそれを意に介したふうもなく、
「ご主人、ウェスタのためにもご決断を」
などと、にっこり笑ってやわらかな声でアイリーンにせまった。

・ 女の子と男の子(初日)/終 ・



 お読みくださってありがとうございました。当たり前ですが、次回、アイリーンとベリーランドは、ローストビーフをかっくらいに行きます。