ぬけるような晴天の昼下がりだった。
 碧空が、申し訳程度に残る薄い雲を食べていってしまっているようにも見える。
 乾いたシーツを取り込もうと家の外へ出たミリアム・ウィリングは、額のあたりに右手をかざし、射るように降りてくる陽光に眼を細めながら、ふと、近づいてくるその人影に気がついた。
 家のあたりは小高い丘になっていて、その頂きの部分に彼女と息子の住まいがあった。そこからは、丘の麓からやってくる者をみとめることができる。ミリアムがそこから見るのは大抵が郵便配達人の姿で、この日は配達人はまだやってきていなかったから、彼女はてっきり配達人がやってきたのかと最初思った。
 だがそれは、見なれた配達人の姿ではなかった。配達人は茶色い髪を揺らしていつも丘を上ってくるのだが、この日上ってきているのは白い髪の男で、壮年の郵便配達人がゆっくりと丘を上ってくるのとはまた違い、すたすたと淀みのない歩調で上ってくる。その様子から、その白い髪の男はまだ若い男であるとミリアムは察した。
 男は淀みなく、しかしさほど急いでもいない様子で丘を上ってくる。そうしてミリアムがぼんやりと立ち尽くす庭先までやってくると立ち止まり、紅い眼を細めて穏やかに笑んだ。
「こんにちは」
 そう言って、男は陽光がまぶしいのか、それともそれが癖なのか、細めた眼のままで続けた。
「突然お邪魔して申し訳ない。わたくし、オーレルと申します。ヤルルくんの『材料集め』のお手伝いをしている者です。息子さんは、ご在宅でしょうか」
 言われてミリアムは、男の丁寧な物腰に一瞬ぽかんとした。このガルフの村の男たちといえば皆闊達で、それは言い換えれば粗野であるということでもあった。この男のように落ちついた物腰で話しかけてくる者などいないに等しかった。
「息子ですかっ、今、外に出ております。何でしたら中でお待ちいただきましてもっ」
 ふと我に返って何故か怒鳴るようにそう一気に言ったミリアムに、男はまた眼を細めて笑んだ。

 家の中に入り、シーツを寝室の方に放り込むと、ミリアムは台所にとって返し、普段滅多に出してこない紅茶の缶を探して戸棚を引っ掻き回した。ミリアムは紅茶よりミルクを好んで飲んでいたし、息子のヤルルも彼女と同じ嗜好をしているらしく、紅茶の缶はいつも来客を待って戸棚の奥でひっそりと眠っているのだった。
「ちょっとお待ち下さいね、馬鹿息子が帰ってくるまでに、お紅茶でもお出ししますから」
 言いながら、ごそごそと戸棚を引っ掻き回すミリアムに、男は背後から
「お気遣いなく、奥さん」
と声をかけた。
 紅茶の缶はみつからない。
 ミリアムは振り向いて男に言った。
「ミルク、飲みます!?」
 勢い良く、振り向きざまにそう言ったミリアムに、少々面食らったのか、男は一瞬そこに立ち尽くしたが、すぐに言った。
「はい……。いただきます」
 また眼を細めた。

 ミルクを注いだグラスを、男はためらいの様子も見せずに受け取ると、食堂の椅子に腰掛け、行儀良くそれに口をつけた。
 来客にミルクを出すなぞ、聞いたこともない話だが、何も出さないよりはいくらかマシだろう。ミリアムはそう思うことにして、自分もミルクを一杯飲んだ。
 黙ってグラスに口をつける男の様子をそっと窺い見てみる。前髪が少し長く、それが伏せた眼の上にふりかかってはいるのだが、その色が銀とも金ともつかない淡味を帯びた白色をしているので、まるで透きとおってでもいるかのように見える。だからさほど重たげには見えない。そう思ったとき、ミリアムは、彼という人間の色味が、全体的に薄いことに気がついた。髪の毛も白だが肌の色もどちらかといえば白っぽく、日に焼けてもすぐに元に戻りそうな感じがする。骨張った、しかしそれでいてどことなくしっかりした肉付きの白い手の指はすんなりと長く、女性的にも男性的にも見えた。その手で彼は、結露のあるグラスを軽く持っている。
 女性的でもあり、男性的でもある。ミリアムは、彼にそんな印象を持つと同時に、彼の年齢も想像し難いような気がした。若い男のようではあるが、まるで10代の少年のような雰囲気を持っているようにも見えるし、20代半ばの青年のような印象も受けるし、そして見方によっては30代の大人になりきった男のような印象も受けるように思うのである。どこか彼の外見からは、年齢が釈然としない。
 それにしても、と、ミリアムは心の中で息をついた。最初はさほどには思わなかったのだが、こう改めて見てみると、なんとも美しい男であると思った。俗に言う「美しい」という範疇の男ではないのかもしれない。煌びやかで華やかな男というわけではない。むしろ全体的に色素が薄く、黙って座っていれば目立たない印象の男だろうとさえ思えた。しかし彼の様子をよくよく観察してみれば、彼が「そこにいる」ことを意識さえして見てみれば、彼はミリアムの眼には「美しい男」として映った。
「あーっ、お兄ちゃん!」
 やおら声がしたかと思うと、ヤルルが台所にぱたぱたと走って入ってきた。テーブルで向かい合う母と男を交互に見て、それから言った。
「どうしたの、何で今日は家に来てるの」
 怪訝そうに男を覗きこんで尋ねる。男はグラスを置くと、ヤルルを面白そうに眺め、それから「おかえり」と言った。
「あ、ただいま。あ、母さん、ただいま」
 挨拶をしていなかったことに気づいたヤルルは、母親にもあわててそう言った。

「こっちはマングローブ、こっちは紋羽の木、それからこっちは……、珊瑚刺桐(さんごしとう)」
「わあ、すごい……、見たことないや、こんな枝。これ全部、南の南の、すごく南の方にしかない木ばっかりだね」
 布袋を受け取ったヤルルは、その袋の中から取り出された枝を手にとって眺め、それから男に向かって感嘆の声を上げた。
「こういう枝を使ったら、クヴァールにある枝だと難しいパーツもいろいろ作れるかもね。ありがとう、お兄ちゃん」
 礼を言ったヤルルに、どこからか引きぬいた細い草を手にしていじり遊んでいた男は、複雑そうに笑った。
「『お兄ちゃん』ねえ……」
「そういえば、母さんとさっきは何を話してたの?」
 森の中の木々の隙間を縫うようにして歩きながらヤルルが尋ねた。母親を置いてきた家の方向をちらりと顧ながらそう尋ね、彼は男を見上げるようにして歩き続けた。
「ん? 別に何も」
「母さん、僕のこと何か言ってなかった?」
「いや、別に何も」
「ふうん……」
 そんな息のような答えを返すと、ヤルルは言った。
「今日はどうして家の方に来たの? いつもは僕の前に直接来るのに、天使さま」
 言われて男は小さく笑った。
「いや、単なる家庭訪問。ヤルルの親御さんにも挨拶しとこうかなと思うてな」
「天使さまだってこと、隠したまんまで挨拶?」
「そりゃおまえ、いきなり『天使です』ちゅうて、お母ちゃん信じられるかね」
「でもさ」
 そこでヤルルはちらりと男を見て言った。
「母さんは、ラッシュのことはちゃんと知ってるよ。ラッシュは僕には言えなかったって言ってたけど、母さんには、父さんとの対決のこととか……ずっと前に話してたみたいだし……、だから母さんは天使さまのことも信じると思うけどなあ」
 ヤルルはそう言って、何事か残念そうに男を見た。さっきからヤルルに「天使さま」とか「お兄ちゃん」と呼ばれているこの男は、地上界インフォスの守護を任されている「天界」の使徒、名前をベリーランドといった。今は翼を仕舞い、ヤルルとともに二本の足で地上を歩いているけれど、普段は背中の白い翼を遣って地上へ降りてくる。ヤルルはそんな「天使」の存在を、母親にはまだ紹介してはいなかった。自身が天使の「勇者」となり、インフォスを救おうとしていることだけは、母親にも伝えてある。伝えてあるが、「天使」と会わせたことはない。ベリーランドが、それを望まなかったからである。

 ――ヤルルのお母ちゃんが意志疎通する『人界外』の存在は、ラッシュだけの方がええと思う。

 そう言って、彼はヤルルの母親に、「自分がヤルルを守護する天使である」と名乗ろうとはしなかった。彼はまるで、極力「人間界」に介入するのを避けようとしているようでもあった。
 ヤルルには、それがまだ感じ取れなかった。ヤルルは母親に、「天使」を紹介したがっていた。何故ならば、ずっと生きていると信じつづけていた彼の父親が、既にこの世にいないということを知り、そうしてラッシュと別れ、またともに生きるようになり、ラッシュの口から信じられないことを聞いたからだった。
 母親は、父親が死んでいることを、とうの昔から知っていたのだと。
 ラッシュ――神獣バーンズは、ことの顛末を初めて語った。ヤルルの父親・ルドックとの戦い、ルドックの死、そして自分の罪の意識、それゆえにヤルルには真実を告げられず、ずっとともに暮らしてきたこと、けれどヤルルの母親でありルドックの妻であるミリアムにだけは真実を話し、許しを請い、その上でヤルルのそばについていたこと、それらをラッシュはヤルルに語った。語り終えたあとのラッシュは、長いことつかえていた咽喉骨を吐き終えたように穏やかな眼をしていた。
 母は、父がとうに亡くなっていたことを知っていた。そのことが、ヤルルの胸の奥深いところに染み込んでいった。母に騙されたと思ったのではなかった。「いつか父に会える」という希望の中で生きていたのは自分だけであり、そしてその希望を与えてくれていたのは母であったことにヤルルは気づいた。
 それは、母がひとりで、父の死に耐えていたことでもある。
 ヤルルの母は、ヤルルとともに父の死を共有し、そうして痛みを分かち合うことは選ばなかった。
 それを知ったとき、ヤルルは母にどうしてあげたらいいのだろうと思った。そうして心の何処かで、「天使」を紹介したいと思うようになった。母を天使と会わせることで、母のうしろにも天の遣いがついているのだと、自分だけでなく、天使も母のうしろでいてくれるのだと、そうやって何とかして母を安心させてあげたいと思うようになっていた。
「今日は、ラッシュとは一緒やないんかね」
 不意にそう訊かれて、ヤルルは我に返った。ベリーランドが、摘み取った草の葉を唇のあたりに這わせながらこちらを見ている。
「ラッシュは今日はシルフェと一緒に散歩に行ってるよ」
 妖精界の使者であるシルフェと、「何か話でもあるんじゃないかな」。ヤルルはそう言って、ぴょんと小川を飛び越えた。その様子は、少しだけ淋しそうにベリーランドには見えた。

 日暮れた家路を辿りながら、ヤルルは遠くからの、鈍くて太い猫の声を聴いた。
「最近、猫の声がすごいんだ。家の周りでも、特に夜に、ものすごい声が聴こえてくるんだよ。喧嘩してるのかな」
 ヤルルがそう言うと、隣で天使が言った。
「サカリの時期なんやろ」
「サカリ?」
 天使を見上げてヤルルが問う。
「サカリって何?」
「あら? ご存知ない?」
「うん」
「子どもつくっとんのよ、要するに」
 天使は、あっさりとそう言った。
「鳴くと、子猫が生まれるの?」
「う~ん、そうかもねえ……」
「でもすごい声だよ、びっくりするんだよ。近くのおじさんなんか、飛び出てきて『うるさい!』って、箒もって追い払うくらいなんだから」
 天使は面白そうに含み笑いをした。
「まあ、うるさいやろうけど、猫は春と秋しかチャンスがないからなあ。子孫繁栄のために、一所懸命サカってるわけなんやから。人間は年中サカってるやろ、そこら辺り、ヤルルは大目に見たりぃな」
「だから、『サカリ』って何?」
 尋ねたヤルルに、天使は何故か両手の人差し指をヤルルに両頬に当てて言った。
「青少年。そういうことは、公衆便所のラクガキやら、大人のひそひそ話やらが教えてくれるはずや。それでもわからんかったときだけ、おっちゃんに訊いてくれる?」
「訊いたら教えてくれるわけ?」
「気が向いたらね」
「だったら今教えてよ」
「聞こえません、聞こえませんな。年のせいかね、耳が遠うてね」
「じゃあ、ラッシュに訊くからいいよ」
「ああ、お母ちゃんに訊くよりはええかもね」
 そう言って、天使はヤルルの頬を挟んでいた人差し指を外し、少年の眼を覗き込む。そうして紅い眼を細めた。

 家に帰ると、夕食を摂りながら、差し向かいの母にヤルルは訊いた。
「ねえ、母さん、『サカリ』って何?」
 母は、それとわかるほどいぶかしげな顔でヤルルを見た。
「何の『サカリ』?」
「えーと、猫だよ」
 答えながら、ヤルルは、これは母に訊くのがいいことではないのだろうなと、うすうす感じていながらも、どこかわざと尋ねてみたようなところが自分の中にあることに気がついていなかった。
「お兄ちゃんがね、人間は年中サカってるって」
 母のミリアムは、ヤルルのその言を聴くと一瞬押し黙ったが、しばらくすると、おかしくてたまらないといったように吹き出した。
「昼間のお兄ちゃんが、そんなこと言ったの? なるほどね、母さんもそう思うわ」
「何で何で?」
「だって、あんたは11月生まれだし」
 ヤルルは口を尖らせるようにして少し考え、それからすぐに頭を大きくかしげて母を見た。
「何で僕が11月生まれだったら人間は年中サカってるの?」
「さあ~、母さん、ここから先はわかんないわぁ。あとは、町で売ってる絵の多い本とか、学校の机に彫られたくっだらないらくがきを見れば、わかるようになるわよ」
「お兄ちゃんも、似たようなこと言ったよ。何だよ、ふたりとも、ケチ!」
「母さん、ケチで結構よ。ケチだから、ごはん残すと怒るわよ。そのアスパラガスも食べなさい、脇にどけてんじゃないわよ」
 言いながら、ミリアムは笑って息子の前の皿を指差す。息子がしぶしぶといった顔で、皿を見る。その頭を、ミリアムは撫でた。
「わっ、母さん、ごはん中に変なことしないでよ」
 ヤルルがびっくりしたように頭を抑えて訴えた。
「何よ、こないだまで文句言わなかったじゃない、撫でられても」
 ふくれている息子を眺めながら、ミリアムは少しだけ笑って、それから近くて遠い夫の顔を脳裏に浮かべた。

・クリスピイ/終 ・



 お読みくださいまして、ありがとうございました。この話は、随分長いこと書きかけで忘れていましたが、今回発掘してきまして、加筆してこの形となりました。最初は、どういう意図で書いていた話なのかがよく思い出せません……。多分、ヤルルと叔父天使はどういう感じで一緒に話したりするのかな、ということだったんじゃないかと思います。 
 
 ちなみに、タイトルはガーベラの品種から。白いスパイダー咲き(花びらが細く尖った形状)の品種だそうです。とか言って、本当はスピッツの曲のタイトルだったりもします(笑)。