三日連続の戦いが、やっと終わった。
 ナーサディアは、自身が切り刻んだ食人花の骸が土に吸い込まれるように消えていくのをながめていた。そしてふと、右手を粘っこい液体が伝っていくのを感じて顔をしかめた。
「近くに水場、あるかしら……」
 食人花が死に際に噴いていった粘液の腐臭をまとったまま、彼女は森の中を歩き始めた。真昼なのにそのにおいのせいで、真っ暗闇の中を歩いているような気にさえなってしまう。
「もうちょっと先に水路があったなあ、確か」
 ナーサディアの左脇から、光沢のあるグレーのハンカチを差し出しながら男天使が言った。ナーサディアは綺麗に折りたたまれたそれを受け取ると、表面をちらっと見て、
「あら、かわいい。構わないの?」
と、素っ頓狂な声をあげた。天使が出したハンカチには、白糸で兎柄の紋様が織り込まれてある。
「ハンカチって、こういうときのためのモンやからね……」
 答えた天使の声には、ため息が混じっていた。この守護天使と四年ほどのつきあいになるナーサディアには、彼がハンカチが汚れることを憂えてこんな声を出しているのではないことが、すぐにわかった。
「大分堪えてるみたいね。さすがのあなたでも」
「さすが? どういう『さすが』かね」
 ふっと口角をあげて天使が言う。だが横顔にはどこか陰があり、幾分眼が据わっているようにナーサディアには見えた。
「いつも能天気に見えるあなたでも、さすがにこのところの連戦にはお疲れのようですわね、ベリーランドさん」
「は、ちがうね。連戦のせいやない、寄る年波のせいや」
 本気か冗談かわからないことを薄笑いの顔で言うと、天使は急に真顔になって「いかん」とうめいた。
「水路はまずいな、生活用水に魔物の液が混ざる。大元の川の下流まで行こう。歩けるか」
「問題ないわ。誰にも出会わないことを祈るけど」
 ナーサディアは手をぬぐったハンカチに鼻を近づけ、眉をしかめて言った。
「大丈夫。ここから川方向の前方500メートル誰もおらん」
「天使って、そんなことまでわかるの?」
「わかったらええよなぁ」
「あっそう……。ところでごめんなさい。やっぱりハンカチ、すごいことになったわ。ちゃんと洗濯し――」
 そう言い終わるか終わらないうちに、天使がナーサディアの手からハンカチをすっと抜き取り、それを持ったまま先に立って歩き始めた。
「えっ。あ、ちょっと! 石鹸で洗って返しますってば!」
 前方にそびえる天使の広い背中を見ながら、ナーサディアは慌てて大声を上げた。が、天使はハンカチを持っていない方の空の手をちょっと挙げてみせただけで、そのままふりかえりもせず先へ行ってしまう。
 露払いのつもりだろうか、一定の速度で黙ったまま歩いていく天使のあとを、ナーサディアも無言で追った。
 いつのまにか、水路のある道に出ていた。川はもう近そうだった。水路のところどころには水車があって、それぞれが昼下がりの陽を受けながらゆるゆると回転している。水車がつくる流れの中に、前方を行く天使の長い影がちらちら揺れていて、それをぼんやり眺めながらナーサディアは歩いていたが、ふと、何者かの気配を感じて周囲を見やれば、水路のそばから数十メートルほど先の山の端までつづく広い畑の中に、ぽつりぽつりと農婦らしい女性の姿が複数見えた。もう12月も末のことなので、畑には何も植わっていないように見えるが、農婦らは何かの草でも摘んでいるのか、一様に編み籠を提げている。ナーサディアは、その農婦たちが顔を上げ、自分たちが歩いている道の方を見ていることに気がついた。いや正確には、農婦らはどうやらナーサディアの前を行く男天使、といっても彼女らには普通の人間に見えているに違いないが、そのベリーランドを見ているらしかった。
 ナーサディアは、農婦らの視線の先にあるらしいベリーランドの後ろ姿を改めて見た。彼は上背が割にある方で、見たところ180センチ前後ある。髪型は短期間でよく変わり、こだわりがあるのかないのかまったくわからないが、大体さっと撫でつけたか伸びたところを適当に切っているかといった感じで、この日も眼と襟にかかるかかからないかという微妙な長さの髪を、何のセットもしていない様子で風に揺らしていた。癖がなく豊かで、その上真っ白な髪であるから、それが陽を受けて震えると、ときに光の塊のように見えることがある。あの上背にそれが乗っかっていると尚更で、
 ――まるで巨大なネギ坊主だわ。
 ナーサディアにはそんなふうにも思えてしまって、笑いすらこみあげてきてしまうのだ。あの農婦らも、ひょっとすると似たようなことを思って彼を注視したのかもしれない。……まあ、それだけかどうかはよくわからないけど、と、ナーサディアは心の中でそっと付け足す。ネギ坊主はネギ坊主だけれど、ちょっと綺麗なネギ坊主だと思っているのは天使には秘密だ。光を受けた天使の「ネギ坊主」を見ていると、そのネギ坊主がさらに別の光を生みだしているような、そんな不思議な光景にも思え、ナーサディアはなんだか懐かしいような悲しいような、ほのぼのとうれしいような気持ちがしてくるときがある。だがやはり、彼女はそんなことを天使に伝えるつもりはない。そんなことを伝える機会も必要も、きっとないだろうとも思っている。


 水路の先にあった小川でナーサディアは手を洗い、男天使はハンカチを洗った。
 澄んだ水のおかげで魔物のにおいは綺麗に消えた。頭上の空の青が、やっと本当に眼に入ってきたようにナーサディアには思えた。
 天使は硬くしぼったハンカチを慣れた手つきで引っ張って皺を取り、軽くふたつにたたんで手近の木の枝にかけて干した。そしてふたりはなんとなく、川を見ながら草の上に腰を下ろした。
「どう? この三日で平和度とやらが少しは上がったかしら」
 ナーサディアが問うと、天使は川を見たまま何度も頭を縦に振った。
「それはもう。しばらくは大丈夫やと思う」
「通常営業に戻れそう?」
 天使はじんわりと何かが染み入るように、ゆっくりと眼を細める。
「おかげさんで」
 その横顔に、笑ってはいるがやっぱりいつもより陰影が深いとナーサディアは思った。このベリーランドと彼の姪天使が守護している「勇者」に怪我人が続出し、「任務」にかかれる勇者が自分を含めて三人ほどになってしまったと聴いてから半月になる。この間、ベリーランドは繁忙を極めたらしく、半月前より幾分やつれているようにナーサディアには見えた。
「ぼつぼつ怪我人にも復帰してもらえそうやし、今確認できてる魔物は片づけられたし、一段落ちゅうとこかなあ……。あ、明日、休んでもろてええよ」
「そう。あなたは?」
「ん、あぁ、残務。報告書とかの」
「大変ね」
「中間管理職なんでね……」
「中間。誰と誰の?」
「いや、そっちと、あっち」
 ベリーランドはナーサディアを手で示したあと、空の方を指さしながら立ちあがった。
「さて、中間管理職にはそれなりに使える経費がある。打ち上げにでも行こうか。ワイン? カクテル? それとも料理の方から決める?」
 生乾きらしいハンカチをたたみながら、真顔でベリーランドが問う。ナーサディアは少し唇に指をあてて思案してから、かぶりを振った。
「いいの。今日はお酒飲まない気分になる日だから。せっかくだけど、適当に何かお腹に入れて早寝するわ」
「『飲まない気分になる日』。何それは」
 首をかしげて空を仰いだ天使は、数秒したのちに急にナーサディアの方へ向き直り、
「ひょっとして今日、誕生日?」
 と、常になく慌てた様子で彼女を人差し指で指し、また慌ててその手をひっこめた。
「まあ、そうだけどね……」
 ナーサディアがおもしろくもなさそうに返事をすると、天使は一度眼をつぶって頭を掻いた。
「恐縮……」
「何が?」
「いや、失念しておったもんで……」
「そうみたいね。でも別にいいのよ、それはどうでも」
「や、どう~でもええことはないと思う。おめでとう」
「……どうもありがとう。それじゃ、敵も片付いたし、もう解散する?」
「解散?」
 ハンカチをジャケットの懐に入れながら、ベリーランドはいぶかしげに眉を上げた。
「先約がなかったら、せっかくやし、食事でも」
 「どうです、帰りしなにちょっと一杯」的な雰囲気で彼は言う。そしてすぐにポンと手を打って、
「もしかして、誕生日を休肝日にしてるとか」
と、「当たりにちがいない」とでも言いたそうな笑みを浮かべてナーサディアを見る。ナーサディアはそんな天使を横眼で少し冷ややかに見ると、ため息をついた。
「そんなんじゃないわ」
 そもそもひとつ歳をとる日だからって、急に思い出したように「健康」のことを考えたってしょうがない身の上なんだから、と彼女は心の中でひとりごちた。
「とにかく、騒々しいところで食べたり飲んだりする気にならないのよ」
「誕生日やのに? ふーん……」
 ベリーランドは、まるでナーサディアの眼の中に文字が書かれてあるのを読もうとでもするかのように、しばしじっと見て、
「じゃ、テイクアウトは?」
と、まばたきもせずに言った。
「何にせよ、何か食うモンは買わなあかんやろ。それ、ちょっとくらい豪華でも経費で落とせますけど」
「経費……」
 ナーサディアは眉間にうすい皺を浮かべてつぶやいた。前々からこの男は、「天使」である癖に夢も浪漫もない言い方をすることがあると思ってはいたが、「誕生日」の「祝い」の食事を経費で落とすなどという言い方には、デリカシーの欠如を通り越して、ある意味あっぱれな感じもすると彼女は思った。いや、そうでも思わないと、この天使とは組んでいられない。
「そう。じゃ、その『経費』で落としてもらおうじゃないの。ちょっとしたモンでもいいのよね?」
「うん。あ、領収書利かんから、一緒に買いにいこうか。今から行く?」
「行きましょう。今日はあなたを『財布』と思わせてもらうから」
 ナーサディアが街の方に向かって歩き出すと、うしろから天使もついてきた。
「結構。歩く財布」
「ついでにものも言うけど」
「愉快なお財布」
「うるさいわね……。三十がらみの男の姿をした財布の、どこが愉快なのよ」
 三十がらみどころではない自分の年齢を棚に上げて、ナーサディアは気だるい声で言った。
「ひどいねえ。そりゃあ十代二十代の青少年とは水分量はちがうかもしれんけど……」
 さして傷ついてもいないようなのんびりした声が、背後から返ってくる。
「まったく、ああ言えばこう言う……」
 さっきより眉間の皺を深くして、ナーサディアは歩きつづけた。

 「忘れていて恐縮」なんて天使は言ったが、別にこれまでだってナーサディアは、彼に誕生日を祝ってもらったことなど一度もない。というよりも、誕生日当日に天使に会うのを今までうまいこと避けていたのが、今年はそうもいかなかったというだけの話なのだ。
 誕生日がうれしいのは二十歳まで。それから歳をとって、お祝いしてくれる子どもや孫ができてからしばらくの間。そんなふうにナーサディアは小耳にはさんだことがあったが、自分ならこう言いかえたいと彼女は思っている。
『誕生日がうれしいのは、順当に歳をとっていっている人間だけ。』
 もはや何年生きているのかわからない自分にとって、「わからない歳」が増えるだけの日なんて何の意味もないとナーサディアは思っている。だから誕生日が近づくと、少なからず憂鬱になる。ただでさえ世間が浮足立つ年の瀬に、その楽しげな人波から脂のように浮きあがり、はじき出され、取り残されるような疎外感を味わってしまう。
 ――もしそういうことを告白したら、この天使さまは何て言うかしら?
 ナーサディアは、いつのまにか自分の隣を歩いているベリーランドを横目でちらりと見て案じた。このひとだって「天使」なんですものねえ……、一応ねえ……と、彼女は小さくため息をついて考える。
 ――「天使」の言いそうなこと、その1。
『誕生日というのは、君がこの世に生まれてきたという、すばらしい日だよ』
 ――別パターン、その2。
『あなたが今生きていて一緒にこの日をお祝いできること、それは私にとっても喜びなのです』
 ……と、勝手にそんな想像をして、やっぱり自分は長く生き過ぎてしまったのかもしれないとナーサディアは思った。どうやら考え方がヒネている。そう自覚してはいても、やっぱり思うのだ。そりゃあパターンその1もその2も言われて嫌になるような言葉ではないけれど、そういう言葉なら教会に行って初対面の牧師にでも「今日は私の誕生日です」と言えば、即刻かけてもらえる類の言葉じゃないか、とも。だからもしベリーランドの口から似たような言葉が出てきたら、何だか面映ゆいような、がっかりしてしまうような、聞いていられないような気分になりそうで、これまで誕生日には何やかやと理由をつけて任務の依頼を受けず、彼とも会わずに済むようにしてきたのだった。踊り子としての仕事もこの日には入れない。昔、誕生日に酒場の舞台に立っていたとき、お客の中にもその日が誕生日だという女がいたらしく、連れの男から「彼女のために踊ってやってくれ」とアンコール注文され、笑顔で踊りながらも何とも言えぬさみしい気分になったからだ。
 誕生日は、うろうろせずに早寝するに限る。
 ナーサディアはそう決めている。
 が、今年はちょっと勝手がちがってきている。
「お急ぎのところすいません、お姉さん。この近辺でおすすめの食べ物屋ってあります? デリカテッセン的な」
 ベリーランドが通りすがりの50年配の婦人を呼びとめて聞き込んでいる。ちなみにナーサディアは、デリカテッセンを探してほしいなどとは、ひとことも言っていない。
「へえ、そこはサラダが抜群? え、でも、ソーセージが……、あ、残念なんやね、なるほどぉ……。え、え、ポイントカードをつくるとお得? ポイント5倍の日にまとめて買うたら、ふんふん、すぐにポイント貯まってお買いもの券がねえ。お姉さん……、やりくり上手でしょう、たたずまいからしてしっかり芯を持ってはるオーラ出てますもん。お姉さんに訊いてよかったぁ」
 言葉づかいは気安い感じだが、このセリフをベリーランドは割合静かな声でゆっくりと発している。しかも律儀そうに手帳にメモまでとっている。この男の卑怯な、いや、お得なところだわとナーサディアはときどき感心してしまう。同じセリフでもベラベラとまくしたてられれば耳に障るだろうが、落ち着いた調子で変に真面目に言われると、「このひとにならお世辞を言われたって構わない」とさえ思ってしまうことがあるものだ。それを心得ているのかいないのか、ベリーランドはひとを褒めるときには真顔になる。このときもそうだった。で、最後に、
「どうもありがとう。お気をつけて」
 さらっと淡白にそう言って、男同士でするように軽く手を挙げて笑ってみせるので、言われた婦人の方も近所の少年相手みたいなほのぼのとした顔で手を振ったりしているが、ナーサディアは実はちょっとだけ気づいていた。喋っている間じゅう、婦人がときどきちらちらと、何かを確認するかのような眼をしてベリーランドの顔を見ていたことをだ。きっと婦人は思っていたにちがいない。この口調でこの言葉、このひとが言っているのよねえ? と。顔と口調と雰囲気が、なんだかあちこちミスマッチなのだ、この男天使は。
「渋滞してるのよねえ……、味が。チョコのかかったポテトよりも」
「なに、チョコ?」
 ひとりごとのつもりで発したナーサディアのつぶやきに反応し、ベリーランドは顎に手を当て思案顔になる。
「チョコか、それがあったか」
 何のことかわからないがおやつの算段でもしているのかと言いかけたナーサディアの隣を、ベリーランドはふいっとすり抜け、今度は若い男をみつけて声をかけている。
「お兄さん、お忙しいところ申し訳ない。もしよかったら、ここらでおすすめの――」
 今度は何を訊いてんのよ! と喉まで出かかった言葉を飲み込んで、ナーサディアは足で小刻みに地面をつつきながら待つ。すぐ終わるかと思っていたが、意外と長い。男ふたりで何やら話しこんでいる。あ、笑った。何笑ってんのよ、さっさと切りあげなさいよ、そのひとだって忙しいのよ、それに私だってお腹空いてんですからね本当は、さっさと「経費」で何か買わせなさいってば、あぁイライラする、人間は血糖値下がるとイライラしてくるってわかってるの? まあ、あなたには関係のないことでしょうけど!
 さっきよりも力を込めて地面をつまさきでつついていたナーサディアは、男ふたりが顔を寄せ合うようにして話しこんでいるさまを、すれちがいざまにちらちら見ていく女が多いことに気がついた。そして彼女は、その女たちが何を思っているかをいろいろ想像したあと、声をたてないように肩を震わせて笑った。
「あれ? どないした。瘧(おこり)?」
 気がつくといつのまにかベリーランドが隣に帰ってきていて、本気か冗談かまったくわからない真顔で自分を覗きこんでいる。
「ちがうわよ……」
「よなあ。蚊ぁおらん時期には流行らんよなあ」
 今度はメモを書きつけたらしい渋皮色の手帳に眼を落とし、ナーサディアの方を見もしないで、ベリーランドは淡々とそう言った。さっきの婦人や男性と話していたときの明るさはどこかへ去り、また初めのような、連戦で疲れた顔に戻っている。
 ナーサディアは無意識のうちにちょっと頬をふくらませた。
 ――私には、愛想笑いする気もないってとこかしらね。
 心の中で、ひとりごちる。そして、こんなに心がざわざわする誕生日は一体何年ぶりだろうと思った。けれど不思議と、「もう帰る」と言いだす気持ちにもならないのだった。

・ケーキにたてる蝋燭の件・前編/終・



長くなりそうなので(いつもじゃないか)、一旦ここで切っておきます。随分と中断していますが、つづき、書きます(笑)。